第28話 情報屋の正体


 その日の夕方、鑑識課から時也に一報が入った。科捜研に依頼した筆跡鑑定の結果が出たという。予想に違わず、メモの筆跡も煙草のフィルターに書かれた数字の筆跡も、葉桐柊巡査部長のものと完全に一致した。

 時也は立浜市内の公衆電話に立ち寄ると、煙草の巻き紙に走り書きされていた番号をプッシュする。相手が出るまで何度もかけるつもりだったが、運良く三コール目で「はい」と声がした。

「突然のお電話を失礼します。マスミさまの番号で間違いないですか」

『あの、どなたでしょうか』

 緊張を孕んだ声が尋ね返す。若い男のようだ。

「あなたの正体を知る者……とだけ言っておきましょう。話したいことがあります、お付き合いいただけませんか」

『素性も判らない人と話すことなんてありません』

「葉桐柊、という名前に聞き憶えは?」

 電話の向こうで、小さく息を呑む音がする。

『し、知りませんそんな人』

「おかしいですね。彼はあなたを知っていると話していましたが」

 相手は「知らない」の一点張りだが、その声は動揺を隠しきれていない。

「そうですか。それでは、あなたとあなたのお仲間のことをすべて警察にお話します。そうなればあなた方は一巻の終わりでは?」

 微かな呻き声。それから息を吐く音がして、「判りました」と観念したように呟いた。

「ありがとうございます。できれば今夜にでもお会いしたいので、時間を作ってもらえませんか。湾岸通りに〈Bar.MIKAMI〉という店があります。そちらで夜七時に。どうか一人でお越しください」

 一方的に告げて、返事も待たず電話を切る。それでもは必ず来るという確信があった。

 予感は的中した。約束の相手は、指定した店へ指定した時間に姿を見せた。ニット帽を目深に被ったアメリカンカジュアルな装いの客は、店内のカウンター席で一人坐る時也に小さく頭を下げる。

「マスミさんですね。どうぞこちらに」

 隣の椅子を勧めると、逃げる様子もなく素直に従う。呼び出した相手は電話口の声から想像していたよりもずっと若く見えた。服装のせいもあるだろうが、不安げに時也を見る顔には少年のようなあどけなさが残っている。

 注文を尋ねると、控えめな声で「ビールをお願いします」と返す。カウンターの内側では、警視庁組対部を一昨年前に定年退職した男が勤勉な手つきでグラスを磨いていた。グレイヘアに黒縁眼鏡がよく似合う店主は、時也にジントニック、にビールが入ったグラスを差し出す。

「単刀直入に伺います。あなたはK県を拠点に活動する東凰会という暴力団の構成員ですね」

 膝の上で拳を握りしめ、青年は「はい」と答える。

「あなたは、東凰会の情報屋ですね。他団体の動向や警察の動きなどの情報を仕入れることが役目。東凰会ではマスミという名前で通っている」

「マスミ、ミナト……真剣の〈真〉に澄み渡るの〈澄〉、ミナトはさんずいに奏でるの〈湊〉。偽名ではなく本名です。あの、誰から俺のこと」

「真澄さん。あなたはK県警の葉桐柊をご存じですね? もっと具体的に言えば、あなたは東凰会の情報を彼に流し、彼はあなたに警察の内情を提供していた」

 真澄湊は、長い吐息の後に「そうです」と蚊の鳴くような声で肯定した。時也は椅子から立ち上がり、

「すみませんが、身体検査をさせてもらえませんか」

「俺、シャブなんてやってないですよ。チャカも持っていません」

「承知の上です。他に確かめたいことがあるのです。ご協力を」

 真澄はしぶしぶといった様子でニット帽を取り、椅子から起立する。盗聴器やカメラの類は仕込まれていない。ここでの会話が外部に漏れる心配はないだろう。本人が口を滑らせない限りは。

「失礼しました。職業柄つい癖になっていまして……申し遅れましたが、私はこういうものです」

 警察手帳を顔の横に掲げる。葉桐と同業者だと知った真澄は、得心したように深々と頷いた。

「葉桐さんの名前を出した瞬間に、何となくそうなんじゃないかと思っていました。でも、どうして俺の電話番号を知っていたんです? 葉桐さんは誰にも俺の存在を喋らないって」

「ご安心なさい。彼はあなたを裏切ったわけじゃない。ただ、その約束も彼の目が黒いうちのことだったようですが」

 東凰会の情報通は、気まずそうに顔をそらす。目の前のビール入りグラスに手を伸ばしかけ、気が変わったように引っ込めた。

「お客さん、せっかく入れたんだから飲んでやってくれ。ビールは時間が経つと酸化して不味くなる。入れたてが美味いんだ」

 不意に店主が口を開いた。ヤクザ顔負けのドスの効いた声に、若い構成員は「あ、はい」と慌ててグラスを掴む。時也も左に倣い、しばらくはジントニックを堪能することにした。

 店主の三神は、たとえ一度きりの客でも酒の好みを完璧に把握し頭の中でデータベース化している。時也のジントニックは、ジンの割合を少なくして飲みやすさに拘った。柑橘系のフレーバーが好みであることを把握しライムを多めに絞っているのも三神の配慮だ。

 グラスのビールを半分ほど減らした真澄湊は、意を決したように体を右に向けて時也をまっすぐ見据えた。

「葉桐さんを撃ったのは、俺です。カシラに言われて……スパイ野郎を始末してこいとチャカを渡されました」

「カシラとは、中陣豊のことですか」

「さすがに話が早いですね。うちのナンバーツーで次期組長になるとも言われています。頭が切れて、親分や他の組員からの信頼も厚い。ただ、味方には優しいけど敵には容赦ない。殺しも躊躇なくやります」

 中陣豊。今は東凰会で幅を利かせているが、昔は中部地方を中心に暴力団活動を展開させていた。彼の手強いところは、自らの手を一切汚さずに殺しを企てるずる賢さだ。しかも、自身が殺しに関与した証拠を一切残さない。たとえ容疑者が中陣の関与を唄ったとしても、それだけでは逮捕に踏み切ることは難しい。葉桐殺しも同様で、たとえば中陣が真澄に葉桐殺しを指示する会話が録音でもされていれば、警察も強硬な姿勢で踏み込むことができるのだが。

「葉桐のことは、組織の全員が知っていたんですか」

「いえ、俺とカシラと、あとは親分だけだと思います。少なくとも俺は、二人以外の前で葉桐さんのことを喋ったことはない」

「西神名河のパチンコ屋について、彼から何か聞いていませんでしたか」

「MERCURYですね。ええ、かなり質問攻めにされました。あまりにしつこ――執念深く尋問を受けたので、根負けしてつい話してしまって」

「中陣が葉桐の殺害を依頼したのは、MERCURYの一件が警察に知られると不都合だったからですか」

「だと思います。それを尋ねるくらいだから、青龍会のことはご存じなんですよね……うちは青龍会とは折り合いが悪くて、MERCURYの件でも中陣さんはかなりご立腹でした。勝手なことをしてサツにパクられたらどうしてくれるんだと」

「MERCURYでの人身売買は、青龍会が独断で始めたのですね」

「はい。青龍会がうちのカシラや親分に内緒で店主を抱え込んで……青龍会は恵比寿通りのキャバ店とも仲良いんで、そこからてきとうな女の子を引っ張ったと聞きました」

「MERCURYの経営会社についてご存じのことはありますか」

「株式会社賢者の石ですよね。ごめんなさい、名前は聞いたことがあるんですけど詳しいことは知りません」

「では、小林誠和不動産は?」

「うちが経営している企業の関連会社ですね。そのあたりに関してはカシラが取り仕切っているので、よく判りません。店によく足を運んではいるみたいですけど」

「中陣といえば、あなたは元共産推進党議員の堂珍仁の事務所に中陣豊と訪れたことがありますか」

 共産推進党の大物議員の名前に、情報屋はピクリと肩を上げる。

「中陣豊があなたを堂珍の事務所に同行させていたのは、受付嬢や秘書から情報を得るためですね。いかにもヤクザ者らしい中陣よりも、好青年風のあなたが話しかけたほうが彼女らも喋りやすい。いくら堂珍が同盟を結んでいるといっても、彼だって何もかもを垂れ流すわけではないでしょう。堂珍の口が堅いときは、事務所で情報収集に励んでいたのですね」

「そこまで知られているんですね……参ったな」

 苦笑いを浮かべ、すっかり降参したように両手を顔の横に持ち上げてみせる。だが、まだ話は核心を突いていない。時也はジントニックを一口飲んで、

「質問の方向を変えましょう。体の一部に刺青を入れた組織について、知っていることを教えてください」

 青年の口が、小さく開いた。ビー玉のような透明感のある瞳に驚きの色が滲む。

「それは……その、すみません」

 頭頂部のつむじが見えるほど、深く頭を垂れる。黙秘の意と受け取った。

「お話できないのは、組織の報復を恐れているからですか」

「ごめんなさい。でも……これ以上、誰も傷つけたくないんです」

「組織のことを漏らせば、あなただけでなく私も狙われると」

「俺、もう人殺しになりたくない」

 膝の上の拳は、手の甲に青筋が浮かぶほどきつく握られていた。時也はそこに自らの右手を重ねる。

「真澄さん。葉桐はあなたにメッセージを残していました」

「メッセージ?」

 顔を上げた真澄の前に封書のメモを掲げる。葉桐が同朋に宛てた最期の手紙だ。

「私があなたのことを知ったのは、彼からこのメッセージを受け取ったからです。これは、ヴィジュネル暗号という暗号で書かれたものです。決められた方法に基づいて解読すると、あなたのことを示すメッセージが浮かび上がるのです」

 ヴィジュネル暗号は、フランスの外交官ブレーズ・ド・ヴィジュネルが確立した多表式の暗号だ。鍵となる言葉とヴィジュネル方陣を組み合わせて暗号を解読する。解読に必要な鍵は、葉桐が残したメモにきちんと記されていた。

「〈神は、人間が何度罪を犯してもそれを赦す〉〈では、その罪は誰によって裁かれるのか〉……一見すると説教めいた文言ですが、この中に暗号を解く鍵があった。それが〈人間が何度罪を犯しても〉という部分。これがあなたに繋がるヒントなのだとすれば、罪とは犯罪のこと、すなわち〈crime〉」

 crimeという鍵と、メモの最後に並んでいた不規則なアルファベット。この二つをヴィジュネル方陣に組み込むと、〈EAST〉〈MASUMI〉〈INFOR〉の三つの言葉が炙り出される。EASTは東の意味から東凰会、MASUMIは文字通り真澄湊、INFORは情報の意味で情報屋。つまり時也の目の前にいる青年に辿り着くのだ。

「ただ、これは単なる暗号ではないと私は思っています。このメモを見たとき、最初に私の頭に浮かんだのは復讐でした。神が犯人を裁かないのなら、私が犯人に罰を与えるしかないのだと」

 真澄湊は、瞬きもせず時也の顔を凝視している。ジントニックのグラスに入った氷が、カランと小さな音を立てた。

「ですが、しばらくして思い直したのです。おそらく葉桐は……自分を殺した人物に罪を償ってほしいのだと。これは私の想像にすぎませんが、彼はあなたの手にかかることを予期していたのだと思います。あなたは葉桐に警告していた。これ以上東凰会に近づくと命が危ないと。それでも彼はあなたに接近した。職務遂行以上に、彼はあなたを救いたかったのではないでしょうか」

「その想像は間違っていますよ。葉桐さんは俺を利用していただけだ。お互い理解の上だったんです。俺も葉桐さんも、自己の利益のために互いを操っていた。でも、彼は守るべき境界線を越えてしまった。手柄を上げようとして無茶をしたんです」

 まだ未成年にも見える男は、震える指でグラスを握り残ったビールを一気に呷る。

「あなたの分析は正しい。正しいが、百パーセント正解ではない」

「どういう意味ですか」

「よくお考えなさい。単にあなたのことを暗号化して私に知らせたいのなら、こんな宗教めいた内容でなくても良かったはずだ。これは聖書の話を盛り込んだ文言です。ペトロという弟子がイエスに『兄弟が私に対して罪を犯したら何回まで赦すべきか。七回までか』と尋ねます。これに対してイエスは、『七回どころか七十倍までも赦しなさい』と返すのです。葉桐は、あなたがどんなに罪を犯しても心の底ではあなたを赦そうとしていた」

「葉桐さんは、自分のことを無神論者だって言っていましたけど」

「聖書の言葉で講釈を垂れるのを恥ずかしがったのでしょうね」

 時也は小さく笑いながら、氷ですっかり薄まったジントニックを喉に流し込む。

「真澄さん。あなたがこれ以上殺しをしたくないのならば、すべてを告白し罪を償う道が最短ルートです。今この瞬間が、更生と破滅の分岐点だ。あなたが本当に葉桐を慕っていたのなら、どちらの道へ進むべきか既に心が決まっているはずです。だからこそ、今日私との約束に従いここに来たのではないですか」

「俺は――」

 そう言ったきり、真澄湊は視線を膝に落とし黙り込む。時也は空になったビールのグラスの下に、携帯電話の番号を書いた紙切れを挟んだ。ふと目の前を見ると、ジントニックが消えていて代わりに新しい酒を注いだ小さなグラスが置かれている。鼻腔をくすぐる柑橘系の爽やかな香りで、ギムレットだとすぐに判った。

「サービスだ」

 店主はそれだけ言ってカウンターの奥に引っ込む。カクテルグラスに指を添え一息に飲み干すと、青年の分まで紙幣をテーブルに並べて店を出た。夜空に浮かんだ満月の光が眩しく、時也は顔を伏せて湾岸通りをそぞろ歩く。目尻に浮かんだ雫は、月明かりと酒のせいなのだと自分に言い聞かせながら。

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