第27話 後悔


 辻馬車通りの自宅で熱いシャワーを浴びながら、時也は葉桐と別れる直前に交わした会話を思い出していた。

 ――東凰会の情報屋は、青龍会の連中とは滅多にコンタクトを取らないらしい。MERCURYを根っこから潰すなら青龍会の中にもスジを作る必要があるかもな。

 ――我々の仕事はあくまで友枝殺しの犯人逮捕です。刺青の組織という明確な容疑者が浮上した以上、MERCURYの件は組対部に引き継いでこちらの作業に集中すべきなのでは。

 ――意外と生ぬるいな、あんた。青龍会と刺青の組織は、少なからず水面下で繋がっている可能性があるんだろ。中途半端に他部署へ任せてしまえば、一網打尽にするチャンスをふいにしてしまうかもしれねえんだぞ。

 ――だからこそ、です。近づく敵は容赦なく抹殺し、仲間さえ躊躇いなく切り捨てる連中が東凰会や青龍会と関わっているかもしれない。そんな状況で単独行動をするのは極めて危険です。葉桐部長のスジだという情報屋も、どこまで信用できるか……とにかく、これ以上MERCURYに踏み込むのなら応援を呼ぶべきです。

 断固とした口調の時也に対し、葉桐は空になった煙草の箱を玩びながら「そうだな」と一言。同僚の忠告を上の空で聞き流す態度に微かな苛立ちを覚えたものの、それ以上の駄目押しをしなかったのは時也の中に一種の甘さがあったからなのかもしれない。

 ――ま、そう心配すんなって。いざってときにはちゃんと助太刀を頼むからさ。

 葉桐の車が立浜の闇へと消えるのを見送りながら、時也は「いざってときじゃ遅いんだ」と吐き捨てる。春の夜風に身を震わせながら部屋へたどり着いたのは、日付を跨いだ二十六日の未明のことだった。

 ベッドにもぐり泥のように眠り込んでいるんでいる間、奇妙な夢をみた。東海林警部からかかってきた電話を取ると、「葉桐柊巡査部長が殉職した」と重い声で告げられたのだ。なぜ死に至ったのか、その詳細を聞く前に右手からスマートフォンが滑り落ちる。ゴツッ、という鈍い音を合図に夢は途切れた。ベッドから飛び起きたとき、時也のスマートフォンには誰からの着信も入っていなかった。

 明らかに二日酔いの頭痛を堪えながら、身支度をして家を出る。「昔と比べて酒に弱くなったな」とぼんやり考えながら職場に足を踏み入れると、何やら公安課室全体が物々しい空気に包まれていた。時也を目ざとく見つけた落合巡査部長が、無言で手招きをする。

「落合部長、何かあったのですか」

 月並みな質問をする時也に、普段は剽軽者の落合巡査部長がいつになく深刻な顔を向けている。異常事態だ、とすぐ察しがついた。悪い予感を抱くより先に上司の口が開く。

「同じ公安一課の葉桐巡査部長、知ってるよな。友枝雅樹をスジ運営していた……殉職したよ」

 頭痛が引き、代わりに足元がふらつくほどの眩暈に襲われる。すぐ後ろにいた田端警部補が、倒れかかった時也の背中を素早く支えた。

「どう、して」

 辛うじて発した声は、自分でも驚くほど細く頼りない。理由など訊かずとも判っているはずなのに、一方でその予想を誰かに否定してほしかった。

「犯人はまだ不明だが、新埠頭プロムナードで銃殺体として見つかった。後頭部から一発、死亡推定時刻は今日の夜中三時前後だそうだ……新宮、最近葉桐部長と会ったことは?」

 船酔いのような気持ち悪さが胸にこみ上げる。田端がそばにあったデスクから椅子を引っ張り時也を座らせた。眩暈はなおも続き、両足は床底が抜けたように力が入らない。警察官になって以来、初めて体験した感覚だ。

「俺……葉桐部長に会いました。彼が殺される、おそらく一時間ほど前に。会って直接言葉も交わしています」

 霞がかった意識の中で、必死に昨夜の記憶を掘り起こす。

「昨日、俺は株式会社賢者の石が内見を予定していたビルの管理会社に提報者を作りました。彼と飲んだ後に、葉桐部長から電話があったんです。MERCURYについて話したいことがあるから会えないか、と。それで、駅に車を回してもらって車内で話しました。その最中に内海から電話があったので、彼女も間接的ではありますが葉桐部長と最後に言葉を交わした一人です」

 時也は先輩の靴の先をぼんやりと見ながら、

「葉桐部長を殺害したのは、東凰会かもしれません」

「あいつが何か言っていたのか」

「彼は、東凰会の中にスジを作っていました。そのスジから、MERCURYが裏で行なっている売春斡旋に東凰会の二次団体が関与していることを聞き出していたんです」

「じゃあ、葉桐は口封じのために」

 組対上がりの巡査部長は、皆まで言わず口を噤んだ。自販機のミネラルウォーターのペットボトルを抱え戻った警部補も、時也の報告を落合がかいつまんで説明すると「そうでしたか」と言ったきり閉口する。二人とも、後輩にかけるべき適切な言葉を探しあぐねているようだ。

 膜を張るような沈黙が三人の間に降りる。その重苦しい雰囲気を破ったのは、時也のスマホに入った一本の着信だった。

『大迫だけど、今時間あるか』

「ああ……ちょっと立て込んでいるが、少しだけなら」

『もしかして、葉桐のことか』

 田端と落合にちらと視線を遣り、「どうしてお前がそれを」と囁く。

『やっぱりな。ハムが殺されたって聞いて、ピンときたのさ。例の不動産絡みなんじゃないかとな』

「さすが刑事の勘だな。それで」

 椅子から立ち上がろうとするのを見守る二人に、時也は一瞬だけ目配せをした。立ち眩みのような感覚は治まり、先ほどよりも幾分かは冷静さを取り戻している。そのままゆっくりと廊下に出ると、すぐ近くの小会議室に体を滑り込ませた。

『捜一の同期を質問攻めにして色々聞き出したが、遺体の銃創から使用されたのは九ミリ弾と特定されたらしい。以前に東凰会の構成員をパクったとき押収した拳銃も九ミリ口径だった』

「現場から弾や空薬莢は見つかっていないのか」

『弾は目の前の海に落下したんだろう、だとさ。見つけるのは至難の業だな。空薬莢は現場には残っていなかったから、犯人が回収したんだろう。後頭部には焦げ跡が残っていて射入口が大きいことから、銃口を直に密着させ発砲した可能性が高い。それから銃創がやや上向きになっていたらしい』

「犯人は葉桐部長より身長が低いか、あるいは椅子などに坐った状態で撃ったのか」

『現場にベンチの類はなかったみたいだぞ。遺留品もほとんどないから捜査は難航しそうだ、ってぼやいていたな。時間が時間だから周囲に目撃者はおらず、発砲音を耳にしたという話も今のところないんだとさ』

「現段階では銃創だけが手がかりというわけか」

『そういうことだな……おい、お前に限ってないとは思うが、一応忠告しておく。絶対に一人で突っ走るんじゃねえぞ。間違っても敵討ちなんて考えるなよ』

 強い口調で言い放って、大迫は電話を切る。無人の会議室に一人立ち尽くし、時也は同朋の忠告を頭の中で何度も反復した。

 


 大迫との電話から戻った時也に、落合はしつこく帰宅を促した。「部屋に入ったときから顔色も悪かったし、疲労が溜まっているところにダブルパンチだろう。今のお前じゃ仕事をしても足手まといにしかならねえよ」と、普段の飄々とした彼らしからぬ厳しい口調だ。だが、時也も意固地になって首を縦には振らず押し問答が続く。二人の応酬に決着をつけたのは、程なくして公安課室に姿を見せた東海林警部だった。

「さっき上と話をしてきた。捜査は引き続き継続して構わないとの指示だが、必ず二人以上で行動することを厳守してくれ――それから新宮は、葉桐部長と最後に接触していることから、身の安全を確保するため今日は自宅待機だ。くれぐれも外に出ないように」

 上司二人の命で出勤早々に辻馬車通りの自宅へ強制送還されることになった時也だが、帰り間際に眼鏡の警部補がこっそりと耳打ちしたところによると、

「さっきの落合さんの言葉は、彼なりの優しさですよ。新宮部長が出勤する前、葉桐部長のことをどう伝えようかとずっと頭を悩ませていたんです。新宮部長を誰よりも認めているからこそ、今はしっかり休んで万全に近い調子で戻ってほしいのでしょう」

 そう言って時也の肩に置いた手からは、部下を気遣う温かさが滲み出ている。それでも時也は、自分が捜査の足を引っ張ってしまったという罪悪感を拭い去ることができないまま、鬱々とした気分で帰途に着いた。

 玄関ホールの郵便受けを開けると、朝刊と一枚の封書が投げ込まれていた。時也は一瞬首を傾げてからすぐに思い至る。今朝は朝刊に目を通さないまま出勤したのだ。今までどんなに寝起きが辛くとも、朝刊を読まず登庁することなどなかった。今日、警察官になって初めてそのルールを破ったことになる。

 のろのろとした足取りで何とかリビングまでたどり着き、椅子にどかりと座り込む。テーブルに放った朝刊は今さら読む気にもなれないが、その上に乗ったもう一つの郵便物が気にかかった。定型サイズの茶封筒だが、消印もなければ宛名も差出人の記載さえない。封を切ると、中身はたった一枚のメモ用紙だけだった。表にひっくり返し、時也は思わず目を瞠る。

「葉桐、部長」

 彼の筆跡を直に見たのはたった一度。恵比寿通りの中華料理店で注文票を書いたときだ。それでも、ひどく右上がりで癖のある字体は記憶に残りやすい。正方形のメモ用紙には、走り書きのような文字で次の言葉が認められていた。


 神は、人間が何度罪を犯してもそれを赦す

 では、その罪は誰によって裁かれるのか

 grafqcjcdmkenav


 メモを見て一分後には、ソファに脱ぎ捨てていたジャケットを拾い上げマンションを飛び出していた。信号待ちの時間さえもどかしく感じながら県警本部庁舎へ到着すると、十階フロアの鑑識課室を訪れる。作業をしていた数名の鑑識官がぱっと顔を上げ不意の訪問客に訝しげな視線を投げたが、時也は構わずに証拠品を収めている棚へ大股で歩み寄った。

「公安課の葉桐部長の遺留品は?」

 棚の近くでパソコン操作をしていた捜査員が、椅子を鳴らして立ち上がる。

「そっちの、奥の棚です。まだ作業が終わっていない物もありますが」

「葉桐部長はスマートフォンを所持していたはずだが」

「現場にはありませんでした。犯人が持ち去ったと思われます」

 軽く舌打ちし、棚に並んだ遺留品を一つひとつ検分する。車の鍵、煙草の箱、ライター、警察手帳、ボールペン。殉死した僚友の所持品はそれだけだった。警察手帳のすべてのページや煙草の箱の裏まで検めたが、何の変哲もない手帳と箱でしかない。

 疼くこめかみを指で押さえながら、二度、三度と遺留品に目を通す。三回目に煙草の箱に触れたとき、ふと中身の煙草が気にかかった。二十本入りの箱に残った煙草は一本だけだ。

 時也と車中で内談していたとき、葉桐は「最後の一本」と言って煙草を吸っていたはず――だとすれば、今目の前にあるのは別物ということになる。

「すみません、この煙草を分解してもらえませんか」

 近くにいた若い男性鑑識官が、カッターとピンセットを手に慎重な手つきで煙草に切れ込みを入れる。手術室で患者の体にメスを入れる医者のようだ。鑑識官は作業中に一瞬だけ手を止めて、

「これ、おそらく手作業で巻いたものですね。市販物に似せて作っていますが、形が歪だし紙に皺ができている。売り物ならこんな雑な巻き方はしないですから」

 分解はものの数十秒で終わった。手のひらよりやや小さいサイズの紙から、煙草の葉とフィルターが現れる。だが、それよりも時也の目を惹いたものがあった。煙草の葉の下に、米粒のような小さい字で何か書かれていたのだ。

「十一桁の数字……電話番号か」

 時也の頭の中で、点と点が一本の線につながった。ポケットから封書のメモ用紙を取り出すと、煙草のフィルターと一緒に鑑識官の胸に押し付ける。

「大至急、これの筆跡鑑定を頼む。結果が判ったら真っ先に連絡してほしい」

 鑑識官の返事も聞かぬまま、急いた足取りで部屋を出た。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る