第8話 深海


 K県警本部の刑事部は、庁舎の十階から十一階まで丸ごと二階分を占有している。時也は十一階まで降りると、我が物顔で捜査二課室へ足を踏み入れた。デスクの半分ほどが捜査員や管理職らで埋まっているが、目当ての人物は留守だ。隣の会議室も覗いてみたが空っぽで、どうやらこのフロアにはいないらしいと直感する。

 早々に刑事部を後にし、今度は四階の総務部エリアを目指す。総務部は三階から五階までを独占する大所帯の部署で、四階には情報管理課のテリトリーである情報技術推進室が置かれていた。

 今日の日本警察では、すべての捜査資料を紙ベースから電子データに移行しネットワークによる完全管理が導入されている。段ボール箱に入った分厚いファイルを捲り必要な情報を探し出す――という捜査方法はすでに昔話となりつつあった。

 だが、物事に光と闇の部分があるように電子化ならではの弊害も経験している。数年前、北淮道警内で捜査データの流出事件が起きたのだ。原因は職員によるデータのコピーという単純明快なものだったが、この騒動を機に全国の警察機関では情報の取り扱いに関する規則が一斉に見直された。

 K県警察本部庁舎では二年前、入室の際に担当職員が身体検査を行うルールが導入された。ここで筆記用具やメモ帳、携帯電話のほか、USB等の情報媒体が見つかれば即退室を命じられる。検査で問題がなければ、職員から専用のICカードを受け取りようやく使用の許可が下りるのだ。

 さらに、これまでは職員それぞれに専用のIDとパスワードが与えられていたが、今は入室する度にランダムで作成されたパスワードを伝えられる。しかも、一度退室すると二度と使えないという徹底ぶりだ。

 時也が情報技術推進室の扉をゆっくり押し開けると、眼鏡をかけた短髪の男が小ぢんまりとしたカウンターの中でノートパソコンと睨めっこしていた。男はモニターから顔を上げると、「おや」というように片方の眉を持ち上げる。

「新宮さんじゃないですか。相変わらずここがお好きですね」

「別に好きというわけでは……必要あって来ているだけですよ。ちょっと閲覧したいデータがあるのですが」

 総務部情報管理課の横井警部補は、のっぺりとした細面にハーフリムの眼鏡をかけた物静かな刑事だ。最初に知り合ったときは朴訥とした男だなという以外に印象がなかったのだが、話をするうちに彼がとんでもなく記憶力に優れていることが判明し、今では一目置いている捜査員の一人だ。何しろ、K県内のみならず全国のあらゆる事件データを脳内に蓄積し、県警内で「歩くデータベース」の異名を取るほどなのである。

 横井による入念なボディチェックを通過し、渡されたICカードで入室する。小会議室が二つ分収まるくらいの空間にはパソコンとモニターが整然と並び、教育機関にあるようなパソコン室を彷彿とさせた。数名の捜査員や職員が熱心に調べ物をする中、時也は悠然とした足取りで部屋の右奥へと進む。

「市原係長。やはりこちらでしたか」

 ウェーブがかった頭をゆっくり持ち上げ、市原英理子捜査二課警部補は小さく掌を振る。二課に配属されて五年目の彼女は、暇さえあれば二課が過去に関与した事件のデータを眺めるためここに足しげく通っている。時也以上に情報技術推進室の常連だ。

「相変わらず忙しく動き回っているみたいね。さっきもあなたの上司がここへ来たわよ、銀縁眼鏡がお似合いの警部補さんが」

「田端係長ですか」

「ええ。相変わらずジェントルマンね、彼。警官らしくない物腰の柔らかさだわ」

「まあ、警察官の全員が強面で押しが強いわけじゃないですから」

「それもそうね。ところで、あなた達は二年前の事件を調べているの? 立浜市内で連続して起きた、女性をターゲットにした詐欺事件」

「係長から何か訊かれたのですか」

「当時の捜査担当をしていたかって。私は別件で動いていたから直接タッチしていたわけではないけれど……今追っているヤマと関係あるの?」

「いえ、そういうわけでは。ただ、捜査の中で浮上したので概要くらいは把握しておきたかったのでしょう。かくいう私も同じ目的ですから」

「そう。あの事件は当時の二課でも大きなヤマだったからよく憶えているわ。多くの女性が被害に遭って自殺者も出たし」

 市原刑事が素早くキーボードを打ち込むと、ものの数秒で該当データがモニターに表示された。〈立浜市チャタラット連続詐欺事件〉、二〇三二年現在で未解決扱いとなっている。

「二年前の四月から七月にかけて、立浜市内で二十件の詐欺事件が連続して起きたの。被害者はいずれも二十代から四十代の女性で、チャタラットという無料メッセージアプリでやり取りを重ねるうち現金を騙し盗られた。被害総額はおよそ三千万円。主犯と目されているのは男女二人組だけれど、残念ながら未だに逮捕できていない」

「たしか、夫がアメリカ人の夫婦でしたね」

「そこまで知っているのね。でも、それは偽装よ。そのアメリカ人男性から送られた写真をスマホに保存していた被害者がいてね。画像をネット上で検索したら同じものがヒットしたの。事件とはまったく関係のないカップルの画像だったわ」

「なるほど。国際結婚した夫婦と偽って、美人局をしていたのですね」

「まさしくそうよ。ただ、本件の場合は男女の役割が逆転していて、男性側がを誑かす夫役。女性が因縁をつけて金銭を巻き上げる妻役になっていたの。妻役は『夫は日本に来てまだ日が浅く、日本での生活に慣れていない。そんな夫につけ込んで不倫をするなんて』と相手を糾弾し、慰謝料を払えと金を要求する」

「先ほど、被害件数は二十件で総額三千万円を騙し盗られたと話していましたよね。被害者の中にはかなり高額の慰謝料を提示された女性もいたのですか」

 不倫における慰謝料の相場は、一般的に数十万円から三百万円程度だ。全員が同じ額の慰謝料を請求されたとすれば、一人あたり百五十万円。だが、友枝百合が支払ったのは五十万円だったはずだ。

「ご名答。最も高額な慰謝料を請求された被害者は、七百万円を犯人側に支払っていた。二十名の被害者のうち、半数の十名は百万円以上を騙し盗られていたわ。しかも、ここからが肝心なのだけれど」

 椅子をくるりと回転させ、体ごと時也と向かい合う。

「当時の二課が被害者の証言を総合して立てた仮説では、犯人は男女二人組。うち男の犯人は、一人二役をこなす演者ということだったわ」

「一人二役?」

「二十名の被害者はね、全員が同じ人物と繋がっていたわけではないの。ほぼ半数の割合で〈ホセ〉と〈ジェイス〉というハンドルネームをそれぞれ持つ男と関係があったのよ。そして、ホセとジェイスは二人とも国際結婚をしていると被害者に自己紹介していた」

「ですが、それだけで二人が同一人物だという仮説は飛躍しているのでは?」

「複数の被害者の証言によれば、ホセとジェイスのやり取りしていたときの文面や会話の雰囲気が似ていたらしいのよ」

「随分と抽象的な根拠ですね」

「たしかに被害者の主観的な証言は信憑性に欠ける、という意見も多くあったわ。でもね、女の直感も案外捨てたものじゃないわよ。それに、そんな特殊な形の詐欺が同時期に同じアプリの中で発生していたなんて偶然が過ぎると思わない?」

「まあ、いずれにせよ犯人が逃亡中とあってはどう議論しても机上の空論ですね。しかし……こう言っては何ですが、立浜市内という限られた範囲でたった四ヶ月のうちに二十件の被害。犯人もよくそれだけ犯行を重ねることができましたね」

「それは、被害女性たちがいとも簡単に騙されたことを遠回しに批難しているのかしら」

「そんな滅相もない」

 ちらと視線を逸らした時也に、詐欺専門の女刑事は「正直な坊やね」と揶揄う。

「でもね、そこが本件の悪魔的なところなの。犯人は、友人がいなかったり家族と不仲だったり、あるいは仕事が上手くいっていなかったり……要するに、孤独で世間から疎外されている女性ばかり選別していたの。言い方は悪いけれど、そういう女性は大概男に免疫がなく安易に他人を信用する」

「心に隙ができた女性につけ込んで心理的に操り、罠に嵌める。卑劣極まりないですね」

「そう。特にこの手の詐欺では、被害者の恋愛感情が悪用されがちなの。心が弱っているときに素敵な殿方が現れて優しくされたら、どんなに怪しく見えたとしても最後は情に絆され騙されてしまう。まさにうってつけのカモだったってわけ」

 シニカルな物言いの裏に、どこか同情めいた、そして自分に言い聞かせるようなニュアンスが含まれていると感じたのは時也の気のせいだろうか。

「それからもうひとつ、犯行を確実なものにしたのが送金方法なの」

「銀行振込ではなかったのですか」

「被害者の証言によると、犯人は彼女たちに現金書留で慰謝料を郵送するよう指示したらしいわ。現金書留の損害賠償額は五十万円だから、それを上回らないような額で複数回に分けて送ったと。しかも、その送り先の住所が市内の私書箱だったの」

「なるほど。一回あたりの額が十万や二十万程度なら、大金を送るわけじゃないと送金のハードルが下がる。銀行振込は簡単に足がつくから、私書箱を使って住所を特定させないようにするのも賢い……ですが、私書箱はたしか使用請求書を提出しますよね。そこから利用者を割り出すこともできたのでは」

「もちろん確認したわよ。請求書に記載していた個人情報はすべて出鱈目で、しかも憎らしいことに犯人は運び屋を使って郵便物を受け取っていたの。当時の捜査員が特定した運び屋はごく平凡な大学生で、『ネット上で運び屋を募集している裏サイトがあって、そこで依頼を受けた。相手がどこの誰なのか何も知らない』と供述したのよ。私書箱から取り出したブツはある公園の公衆トイレで受け渡しをして、しかも時間をずらしていたから犯人と思われる人物とも接触していない。トイレの中にブツを置いて、しばらく経ってから戻ると報酬が入った袋だけ残されていたらしいわ」

「かなり用心深い犯人ですね。つまり、犯人がアプリにログインしている瞬間を狙って潜入捜査ができれば最良だったわけだ」

「そういうこと。残念ながら事件が明るみになった時点で犯人はアプリを辞めていたから、それも叶わず仕舞いよ。被害女性たちの中には、男性に恋愛感情を利用されて騙されたなんて周囲に相談できず一人で抱え込んでいる人も多くてね。そういう心理を悪用した事件でもあるの」

「人間の心理を熟知した犯行、か」

「素人でないことは確かでしょうね。二年前の時点で余罪があるか、あるいは第三者が裏で糸を引いていたのか……ま、好きなだけ調べていくといいわ。私はそろそろお暇するから」

 腕時計の針は、長針と短針ともに四の位置を指している。「もうそんな時間か」と呟いてから、

「ありがとうございました、市原係長」

「礼には及ばないわ。ただし、私からもお願いがあるのだけれど」

 パソコンの電源を落とし、椅子から立ち上がる。

「もしそっちの事件が二年前の詐欺と繋がるようなら、うちにも情報を回してほしいの。あの事件はまだ終わっていない。必ず犯人を捕まえて落とし前つけてもらうんだから」

「わかりました。お互い持ちつ持たれつですからね」

「そういうこと」

  時也に背を向けた女刑事の、腰まで伸びた長い髪が揺れる。海の中で泳ぎ回る魚の尻尾のように――他愛のない想像をしながら、モニターの電源を入れる。その膨大なデータ量から〈県警の深海〉とも呼ばれる空間に、キーボードを叩く無機質な音だけが響いていた。

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