19. 闇の中で

 こめかみに疼痛が走った。頭に釘を打ち込まれるような、そんな痛みが。キーン、と耳鳴りがしはじめた。――僕はとっさに頭を押さえた。


 それと同時に、薄暗い社内の一画に気配を感じた。


 そちらを見ると、床の上に妖気が集まってきているようだった。床の一点に、あたりの妖気が渦巻いて、堆積たいせきしていくのだ。


 僕は右手をウェストポーチに伸ばし、霜月を取り出した。――何かが起こる。直感的にそう思った。


 リティはそちらを見ると、二本の尻尾を上げて唸り声を出す。


 妖気はさらに集まっていくと、ぼんやりと、動物の形になっていった。


 黒の声がした。


「なにッ? 鼠か? そいつ!」


 たしかに堆積した妖気の塊は、鼠の姿のようだった。しかし、普通の鼠よりも大きい。中型犬くらいの大きさはありそうだ。


 体は真っ黒で、目だけが赤い。妖気が全身にみなぎり、常に黒いもやを放っている。


 そのとき、周囲の猫がその化け鼠へと飛びかかった。


 ――化け鼠は刹那の速さで猫の爪を避けて、こんどは一匹の猫の肩に食らいついた。


 鼠が離れたとき、その猫は悲痛な鳴き声を上げ、よろめいて退がった。――おそらく肩の肉を食いちぎられたのだろう。


 鼠はおそろしく俊敏だった。暗闇の中を滑るように移動し、猫たちを避け、逆に蹂躙じゅうりんしていった。


 猫たちは噛まれ、引っかかれ、右往左往している。鼠にやられて、何匹かうずくまっている猫もいる。


 そこでリティが鼠へと飛びかかっていった。


 床を走り、低い唸り声とともに跳んだ。


 ――しかし、鼠はその姿を消した。リティはあたりを見回す。その次の瞬間、リティの胴体に鼠が食らいついた。リティは叫び声を上げる。


 真っ黒な鼠の頭が、リティの体に突き刺さるように、密着している。


 僕はすぐに駆け出して、「やめろー!」と声を荒げて、霜月を突き出した。


 すると、鼠は「ギッ」と短く鳴いて、後ろへ退がった。


 僕は床に横たわるリティに声をかけた。


「大丈夫か? リティ!」


 リティは力なく前脚を動かして、よろよろと立ち上がろうとした。しかし、立ち上がれそうもなかった。僕は続けた。


「リティ! 猫たちを連れて、逃げろ! あとは、僕がやる」


 リティは心外そうな表情で僕を見た。


「そんな顔するなよ。リティ。退魔師として、やるべきことを、やる。きみは、よくやったよ」


 そこで僕は黒へと振り返った。


「リティを連れていってくれないか? それに、倒れた猫たちもできるだけ……」


 黒はうなずいて、


「ああ。わかったぜ。――翠、無茶するなよ」

「わかってる。でも、僕がやらなきゃ。僕の試練なんだ」


 そうして僕は黒い鼠を見る。


 鼠は絶えず重々しい妖気を放っていた。体のふちは闇に溶け込んでおり、その体そのものが、暗黒と妖気によって形作られているようだった。


 目の端で、黒がリティを抱き上げたのが見えた。黒は猫を何匹か抱えて、出口のほうへ向かう。僕は鼠を威嚇するように右手に霜月を構え、左手には懐中電灯を持っていた。


 鼠の赤い瞳が、光をいとうように細められた。憎々しげに牙を剥き、僕を睨んでくる。


 僕の背中や脇に汗が滴ってきた。胸の鼓動が激しくなってくる。


 ――目を離しちゃダメだ。相手は影のように素早い。


 そう自分に言い聞かせる。


 額から汗がつたい、目にかかった。僕は右手の甲で目元の汗をぬぐった。


 気がつくと鼠の姿が闇に消えていた。ほんの一瞬で。


 あたりの闇の中には、まぎれもない、鼠の禍々しい妖気が感じられた。その怒りと憎しみが僕に向いている。その気配ばかりがひしひしと、伝わってくる。


「どこだ!」


 思わず声を出すが、その声は虚しく室内に響くばかり。


 そのとき、「ギギッ」と顔の近くで鼠の声がした。


 僕はとっさに霜月を振る。――しかし、空を斬っただけで、手応えはなかった。左手の懐中電灯であたりを照らすが、鼠の姿は見えない。


 さして動いてもいないのに、息切れがして、胸が苦しくなってくる。汗が止まらない。

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