第二章 猫を見つけたら

1. 高木先生がやってくる

「ねえー、起きなよー」


 と、僕は黒の部屋のドアに声をかけた。


 七時五十分のアラームはすでに鳴って、自分で止めたのに、やはり起きない。


 なんどか呼ぶと、やっとドアが開いて、のそりと黒が姿をあらわす。あくびをしながら、


「あー、眠みいい」


 とぼやき、冬眠から醒めた熊のように洗面台に行く。



「そうそう。大変なんだよ」


 僕はそう切り出した。


 黒が食パンをかじっている手を止め、


「あー? さっきまた、電話してたな」

「うん。してたけど、寝てるのか起きてるのか、どっちなの? いつも……」

「基本的には寝てる」

「そっか。眠りが浅いのかな? まあいいや……」

「で、大変ってなんだよ」

「そうだ! きょうね、高木先生が来るって」


 すると、黒は「なにっ……」とうなった。


「俺は、用事があって戻らないって、言っといてくれよ」

「高木先生はたぶん泊まりだから、じゃあ次の日ね、とかってなるよ。十分くらいは時間あるだろう、とか」


 黒は右手で額をおさえて、


「なるな。そうなる!」


 それから黒は、あきらめたようにため息をついた。




 学校が終わった夕刻、僕は帰途についた。


 駅からしばらく歩き、住宅地に入る。やがて僕らのアパートが見えてくる。


 そのアパートの前に、白いジャージ姿の女性がいた。


 思わず僕は姿勢を伸ばして、いつもそんなふうに、シャキッと歩いてます、という顔をした。


 その女性――高木先生は僕を見つけると、白い歯を見せて、活発そうな笑顔で近づいてきた。背中には灰色のリュックがあった。


「おかえりー! 待ってたよ! 翠」


 僕は引きつった笑顔で答える。


「すみません。お待たせしました……」



 高木先生は部屋のテーブルに座って、僕が久々に淹れた緑茶に口をつけた。そこで、ふうとひと息ついて、


「どう、こっちの生活は。慣れた?」


 僕はその声を聞いて、妙な安心感を覚えた。


 やはり高木先生の声は、心の中にすとんと入ってくる、あたたかさと強さがあった。芯のある鈴の音みたいな。


「ええ。そうですね。慣れてきたかも。ちょっとずつ、ですが……」


 そこでまた高木先生はお茶をすすると、


「そういえば、あの、夢魔の一件」


 僕はぎくりとした。シズクを倒せなかったことを、怒られるかもしれない。


「あ、はい。あの、聞かれてますよね、すみません」


 すると、高木先生はきょとんとして、


「おや。どうしたの? ――ははあ。あんなことになって、怒られると思ったんだね。翠。あんたって子は……」


 そう言って、にっ、と笑う。


「わたしはね、これを言いに来たんだ。……翠、がんばったね、って」


 僕は驚いて、「え?」と高木先生を見た。高木先生はうなずいた。


「たしかに、あの妖魔を。――夢魔を退治する仕事だったよ。けれど、翠。あんたが、そうしたいと思ったんだろう?」

「は、はい。そうです。あの二人を見て、なんとか、桂木さんとシズクに、幸せになってほしい、って……」

「そうか。それが、翠の『素直』だとしたら、わたしはそれでいいと思うよ」


 僕は顔を上げた。


「え、あ、ありがとうございます」

「うん。だけど……」


 そこで高木先生の顔色が変わった。


「それはね、退魔師として、報告すべきでしょ?」

「ああー、すみません。怒られると思って……」

「あのさ、わたしの性格、知ってるだろう? 失敗や、都度判断はいいよ。でも、嘘とごまかしは、素直じゃない。……ちがうかい?」


 僕はなかば悲鳴のような声で、


「おっしゃるとおりです……!」


 高木先生は立ち上がって、右手の指先をぴんと伸ばして僕をさすと、


「腕立てふせ五十回!」

「はいッ」


 そうして僕は両手を床についた。



「四十……九。ハァハァ、ご、ごじう…………」


 その声とともに僕は、プルプルと震える腕をつっぱり、体を持ち上げた。


 床には汗が滴っていた。


 顔を上げると、高木先生は言った。


「それでよしっ。よくやった、翠。汗を流せば、もう終わりだ」


 そうして、白い歯でにっ、と笑う。


 不思議なことに、僕の中に残っていたわだかまりは、ほとんどなくなっていた。バカげた体育会系的なノリだ。――けれど、僕はこれからも、この人に学ぶのだろう。そう思った。



 水を飲んで呼吸を整えてから、僕は椅子についた。


 すると、「さて」と高木先生は言った。


「あらためて、翠。あんたのはじめの討伐は、その汗に免じて、成功と考えよう」

「やったっ!」


 と、僕は思わず拳を握り、歓喜の声を上げた。


「ただし、責任をもって、夢魔のことを監視しなさい」

「わ、わかってます……」

「よし、それじゃ続いて、次の標的について伝える」


 そこで、高木先生は鋭い目つきになった。僕は口をつぐんで、


「は、はい……」

「よし。しっかりお聞き。二体目の標的の妖魔は、猫又ねこまただ」

「え、猫又?」

「そう。そいつは、ある人物になりすまし、人に害をなしているらしい。翠、それを討つんだ」



 僕はノートを持ってきて、いろいろとメモをとった。


 それから高木先生は、「少し、見てみよう」と言った。


 僕はきょとんとして、


「見る? な、なにをでしたっけ?」

「あんたが、なまってないかって。まだまだ、大変な試練が続くだろうからね。さて、このあたりで、動けそうな場所はある?」


 そうして高木先生は、肩を回しはじめた。


 まだ、一日は終わらなそうだった。

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