3. 狩りの支度

 しばらくリビングで、今回の試練のことについて黒と話をした。標的が夢魔であること。しばらく情報を集める必要があること。そんなことを。


 それから僕は部屋に行って、今回の相談者の桂木信也かつらぎしんやさんに連絡を取ることにした。


 事前に聞いていた電話番号に電話をかけた。四コール目に出た相手――桂木さんに、僕は名乗った。


「もしもし、僕は橘花たちばなと申します。退魔のお仕事の件で……」

「ああ、ありがとうございます」


 と、男の声がした。


「橘花さんから、連絡があると聞いていました。わざわざ、どうも」

「い、いえ。それでですね。あの。さっそくお話を聞かせていただけないかと思いまして」


 そこで桂木さんは、こんなことを語った。


 桂木さんは二ヶ月ほど前から、妙な夢を見るようになった。眠っているときに黒い影が迫ってきては、手で頬をなでられてくるような感じで、気味が悪いのだと。目を覚ますと、部屋の中になにかがいる気配がするのだが、しばらくすると気配が消えるのだと。


 はじめは夢か幻覚だと思っていたが、あまりに生々しく、ついに鬼梏村きこくむらの退魔師に依頼することにしたのだという。


 ――おおかたは、事前に高木先生に教えてもらったことと一致していた。こうして話の内容を聞き直すのは、念のため、相手が嘘を言っていないかを確認する意味もある。


 最後に僕は、家に行かせてもらえないかと尋ねた。


「え、家ですか?」


 と、桂木さんは聞き返してきた。


「は、はい。抵抗があるかもしれないですが。眠っているときにやってくるわけなので、その横で僕が待機して、確認するのが、一番でして……」


 そう言っていて、僕自身もうんざりとした。なぜ、見ず知らずの男の人の家で、夜の見張りをしなければならないのか。


「わ、わかりました。それですと、明日から出張なので、今日なら……」

「え、今日ですか……」


 そう言ったものの、僕も早いところ済ませてしまいたかった。


 高木先生も、『現場をすぐに見ろ。想像ではなく観測しろ』と言うはずだ。





 僕は出かけるための支度したくをはじめた。


 紺色のウェストポーチを腰に巻いて、黒い漆塗りの短刀を入れた。それに、定期入れに折りたたまれて入っている『刀剣所持許可証』も忘れずに。――退魔師の必需品であり、これがないと、職務質問などを受けたとき、厄介なことになる。



 そのとき、ノックの音がした。


「どうしたの?」と尋ねると、「入るぞ」と聞こえた。


 黒はいつもとは違う雰囲気で、部屋の入り口で立っていた。


「黒……。どうしたの?」


 そう僕がもういちど尋ねると、黒はためらいがちに言った。


「なあ、無茶すんなよ」


 意外なセリフに僕は思わず微笑んで、


「え、どうしたの。やけに、優しいんだね」

「あー。茶化すなよ。はじめての仕事、だろ」

「うん。そりゃ、心臓バックバクだよ」

「だろうな。高木先生たちも、翠にさばける仕事か、ってのを、きちんと考えてると思うけど。……用心するに越したことはない」

「まあね。その点は、信じてはいるけど」


 話をしながら僕は、ウェストポーチをぐっと締めた。ポーチの中で霜月がずっしりと主張していた。黒はそんな僕を見て、


「やれるのか? おまえに……」

「それは、妖魔を倒すことが、ってこと?」

「ああ、そうだ」


 僕はしばらく考えて、


「正直なところ、わからないよ。でも、妖魔は倒さなけりゃならない」

「そうだな。そのとおりだ」

「あと十分くらいで、行くよ」


 そう言って、僕は手首をほぐし、深呼吸をした。身体じゅうに気力を行き渡らせ、右手には霜月を握っているイメージで、手刀を作って構える。


 目の前には悪意に満ちた目をした、得体の知れない女の夢魔――調べたところによると西洋ではサキュバスと呼ばれる――がいる。そいつはたぶん、刃のような爪で襲いかかってくる。僕はためらわずに、霜月を突き出す。やれる。やるんだ。やれるんだ。


 ――――本当に、やれるだろうか?




「おい、顔色が悪いぞ」


 黒の声によって、僕は我に返った。


「……え、うん」

「大丈夫かよ」

「うん。大丈夫。……大丈夫、だよ。それに、今夜は……」

「今夜は、なんだ?」

「今夜はまだ、だよ。たぶん、戦いにはならないよ。――調べるだけだから。桂木信也かつらぎしんやっていう人と会って。その名は、聞いているかもしれないけど」

「いいや、聞いてないさ。それより、そんな簡単に個人情報を漏らしていいのか?」

「そっか。最近きびしいからね、そういうの」

「みたいだな。多少は、気をつけねえとな」

「あ、そういえばさ。明日の朝ごはんは、黒が自分で、ね」

「なに? なんだって?」


 僕はその意外そうな声におどろいて、黒の目を見た。


「え、うん。相手は夢魔だから、桂木さんの、家に行かないと。眠っているときに、見張るんだよ。もしかしたら、朝までかかるかも……」


 すると、黒は頭をかきながら、


「あー、その、桂木って人の住所とか、書いといてくれ。念のため」

「え、個人情報を、教えるってことだよね、それって。よくないんじゃないの?」

「知るか」

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