僕による哲学思想の歴史

すけだい

第1話

『僕による哲学思想の歴史』

 人類の歴史は階級闘争の歴史である、と偉い人が言っていたらしい。マルクスがヘーゲルの理論を部分的に拝借したように、その言葉を部分的に拝借しよう。哲学思想は現実と非現実との歴史である。

 一種の歴史観によると、哲学思想の歴史は個人と社会との歴史である。演繹法に代表される個人、帰納法に代表される社会。またはその2つを繋げる関係性や間柄や弁証法。

 たしかにそれは大きく間違っていないだろう。しかし、大きく踏み込んでいない。それは現実非現実の問題だ。

 根本的なことを言うと、個人や社会というものは意識によって創られたものである。非現実だ。想像上のものだ。

 ここで話は逸れるが、英文法で学ぶ時制を思い出す。時間の概念として存在するのは現在・過去だけであり、未来はない。未来とごまかされているものは、推量という想像上のものでしかない。

 時間の概念でも、現在・過去という現実と、未来という非現実の関係がある。数学でも実数という現実と虚数という非現実がある。あらゆる分野で非現実というものが顔を出す。

 その理由は便利だからだ。その非現実があると想像したら説明できたりするのだ。だからあると仮定する。

 哲学思想だってそうである。個人・社会があると想像した方が説明などで便利なのだ。便利なものが生き残るのだ。

 合理論も経験論も、結局のところは理論と現実を照らし合わせることで同じだ。いや、『論』や『法』という枠組みの段階で非現実だ。カントやヘーゲルがどんなに2つを結びつけようと、非現実の枠の中の話。

 それはその延長線上の理論全てに言えることだ。実存?構造? 意識すればあるし意識しなければないのだ。

いや、有史以降の学問全てだ。どこまで行っても現実なんかありゃしない。学問は全て非現実だと暴論を投げつける。

だから学問を離れて市井の人々に求める在野の思想が現れる。しかし、それらも学問と名付けられた瞬間に非現実になってしまう。それの繰り返しが歴史だ。

弁証法で説明するとこうなるのだろうか? 非現実の哲学・思想がある。それに対して現実の非学問がある。その2つが弁証法的に発達して何かが生まれる。

生まれた段階で非現実な何か。そこに次々に現実を注ぎ込んで学問は発達してきた。それは人から独立して孤立させる。

ありていの孤独論に到達した。孤独は哲学思想の根本問題とよく言ったものだ。昔から答えが出ているではないか。

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