2ー3

 夕方になるにつれて、家の中は宴会の準備で慌ただしくなっていく。気の早い客も何人か到着して、ホールに飾られている調度品を眺めたり、応接室で談笑したりしていた。

 客に混じって並木慎太郎の姿もあった。将来を有望視されているので、招待されたのだ。稲も客の出迎えなどで、忙しく家の中を行き来していた。

「稲、倉庫室から例の皿を持ってきてくれ」

 応接室で談笑していた嘉門が、稲を呼び止めて鍵を渡した。倉庫室の骨董品は女中には触らせないのだ。稲は時折、嘉門と一緒に倉庫室に入り、コレクションの自慢を聞かされていた。例の皿というのは、嘉門が最も大切にしている唐の時代の大皿だ。

 皿は倉庫室の一番奥の棚に桐箱に入れられ置いてある。色のあせた茶の紐が十文字に掛かっている。側面には「南京呉須 平鉢 染付け花鳥紋」と掠れた墨で書かれた黄ばんだ紙が貼ってある。

 この皿のことは稲もよく覚えている。一尺ほどの大皿で、鳥や花がきれいな青い染料で染め付けられ、縁には鳳凰の羽が優雅に舞っているという美しい皿だった。

 粗相がないように慎重に持ち上げ、胸に抱えて応接室に持って行った。

「おお、これこれ」

 そばにいた客に自慢するのだろう、さっそく紐を解いている。

 嘉門は客たちにさんざん大皿の自慢をすると、稲を呼びつけた。

わしはこれから大切なお客を迎えに行かにゃならん。みなさんが皿をご覧になるまで、おまえはここで見ているんだ。万が一にも皿が割れるなんてことのないようにな。それで頃合いを見計らって、もとの所へ仕舞っておけ。鍵は儂が帰ってくるまでもっているんだぞ。ちゃんと持っていろよ。いいな」

 まるで子供に言い聞かすようにくどくどと念を押した。

 嘉門は呼んであった人力車に乗って出掛けて行った。人力車の車輪の音が遠ざかっていく。稲は疲れを感じて深いため息をついた。

 客たちは美しい大皿がよほど気に入ったようで、人の輪はなかなか崩れなかった。稲は少し離れたところで、言いつけ通りそのようすを注視していた。

「奥様、お疲れでございましょう。お顔の色がよくありませんもの」

 女中のお志津だった。手に湯気の立った湯飲みを持っている。

「これをお飲みになってください」

 受け取って中を覗くと、白濁した液体が入っている。甘酒のようだ。稲は酒は飲めないが、甘酒くらいだったら飲める。あまり好きではないが、せっかく持ってきてくれたので飲むことにした。

 ほんのりと甘いが、舌に苦味を感じる。お志津がそばで見ているので、仕方なく全部飲み干して空の湯飲みを返した。

「ありがとう。体が温まったわ」

 応接室に日出雄が入ってきた。すごむような目つきでお志津と稲をにらみ付けている。お志津は日出雄に気が付くと、そそくさと部屋を出て行った。どうやらお志津も日出雄が苦手なようだ。

「まるで親父の人形だな」

 馬鹿にしきった口調だ。

 稲は自分の着物を見下ろして唇を噛んだ。

「嫌だ、って言ったらいいじゃないか」

「そんな……言えません」

 日出雄とこんなに近くで言葉を交わすのは久しぶりだ。あのことがどうしても心に引っかかって言葉尻が消えてしまう。

「この家で親父に逆らえる人はいないからな、今までは」

「え?」

「俺は出かけるよ。もう親父の言う通りにはならない」

 見れば遊びに行く時のいつもの格好をしていた。白い背広を着て、二重回しは羽織らずに手に持っている。

「いけません。今日はあなたをお客様に紹介すると言ってました。あなたが出かけてしまったら、私が叱られます」

「あんただって、ここにいなくてもいいだろう。親父のことを嫌ってるんだろう? 出て行けばいいじゃないか」

 皿を囲んでいた客の一人が面白い話をしたようで、わっと歓声が上がった。稲はそちらに目を向けながら言った。

「あなたのお父さんと別れられない理由があるんです」

「へえ?」

「私の父が病気で、その薬代を出してもらっています。それに妹の縁談の世話も。私はここで辛抱しなければならないんです」

 そんなことはとっくに知っていると思っていたが、日出雄は初耳だったようで、ひどく驚いた顔をしていた。

「悪かったよ。この間のこと」

 ぶっきらぼうな言い方だが、本心のようだった。

「日出雄さん。それじゃあ今夜は家にいてくれますね」

「いや、約束があるから」

「お願い。たまには私の言うことを聞いて」

 稲は日出雄の腕を掴んで揺すった。だが、日出雄はその手を乱暴に振りほどいて出かけてしまったのだった。

 しばらくして客の興味が、ある紳士に移っていった。菊五郎と友だちだとかで、裏話を手振り身振りで話すので、客たちは大いに湧いていた。

 稲は客にすっかり忘れられてしまったテーブルの上の皿を、桐の箱に仕舞い。元の通りに紐を掛けた。

 慎重に持ち上げ倉庫室へと向かう。嘉門から預かった鍵を取り出し、鍵穴に差し込もうとするが、どうしたわけか上手く行かない。

 なぜか鼓動が早くなり、指先が痺れてくる。左の腕に抱えた桐箱が耐えがたいくらいに重くなる。

 このままでは落としてしまう。

 そう思った時、ふと自分の目に異常を感じた。もともと廊下はそれほど明るくない。だが、贅沢が好きな嘉門は廊下の天井にも電灯を付けている。日が落ちてしばらくたっているので電灯をつけていたはずだが、なぜか真っ暗だった。首をまわして応接室のほうを見たが、やはり暗い。

 冷や汗が出てくる。

 頭がくらくらして、廊下がぐにゃりと歪んだ。

 遠くでなにかが割れる音がする。

 だがそれは、稲の足元に落ちた大皿の木箱だった。落下の衝撃で皿が割れたのだ。

 稲はそれに気づく暇もなく、後ろからやって来た黒い影によって倉庫室の中へと引きずり込まれて行った。

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