『中和滴定から始まる恋、になるとは限らない』

ヒニヨル

『中和滴定から始まる恋、になるとは限らない』

 私は今、昼間だと言うのにカーテンで閉め切った暗い部屋の中にいる。

 食欲はとてもあるのに、何を食べても美味しく無い。私は大好物だったはずの、プリンの食べかけをテーブルの上に置いた。


 私のベッドの上には、安堵した表情で、眠りにつく“美しい人”の姿があった。



 “美しい人”に出会ったのは、数日前の深夜に遡る。女性が夜に出歩くのは良くないと知っていながらも、冷蔵庫に入れてあるはずのお酒を切らしていて、コンビニへと向かっている最中だった。


 季節が夏から秋へと移り変わる中、衣替えを終えていない私は、部屋の中では薄着で過ごしていた。外に出て、風が思ったよりも涼しくて、パーカーを取りに戻れば良かったかもと思った。


 アパートを出て数分、薄暗い街頭に照らされた妙な人を見た。走って通り過ぎようかと思ったけれど、その人が近づくにつれて、私は目が離せなくなった。


 長身で、驚くほどに顔立ちが整っている。日本人だと思うけれど——、一瞬で惹き込まれる容姿だった。

 肌は夜の闇に発光するかのように白く輝いてみえた。短い髪のせいで、男性とも女性ともつかない。私は思わず声をかけてしまった。


「大丈夫ですか」


 虚ろな瞳が私をとらえた。目が合った瞬間、身震いしてしまった——こんな例えが私から溢れるなんて恥ずかしいけれど、静謐な森林から現れた一角獣ユニコーンに出会ってしまったような心地がした。

 呼吸する方法を忘れてしまったのか、私は息が上手くできなくなった。胸が締めつけられる。

 私を見つめていた視線がそっと足元に落とされた。得体の知れない美しい人は、再び歩き始めたけれど、よく見ればふらついている。私は咄嗟に肩を貸した。


「体調が悪いのですか?」


 触れた体は、ひんやりとした冷気を漂わせているかのようだった。麗しいかんばせを仰ぎ見る自信は無い。私は俯いたままでいた。横顔に視線を感じる。

 返答は無かった。一分にも満たない沈黙だったかもしれない。でも私にはとても長い時間に感じて、思わず言葉を続けた。


「私の家はすぐそこです。運びます」


 自分の力で歩けない訳ではなさそうだった。もしこの美しい人が、力無く倒れてしまう程であれば、私は支えきれなかったと思う。

 数歩進んだところで、耳元に囁かれるような僅かな声で、美しい人が言った。


「人間は儚くて、温かいね」


 その声は甘くて、頭の中を痺れさせた。私は一瞬、膝に力が入らなくなってしまう——慌てて支え直すと、早まる鼓動に戸惑いながら、アパートへと急いだ。



 部屋の明かりはつけたままだった。靴を脱ぐのを手伝って、美しい人を部屋の中に入れる。見ず知らずの人をこんな風に招いた事など、人生に一度も無い。


「ベッドで横になって下さい。必要なものがあれば言って——」

「血」


 わずかに開いた口から溢れた言葉は、聞き間違いだろうか。ベッドに座った美しい人が、私の手首を掴んでいる。明るい場所で改めて見ても、整いすぎた顔立ちは人間離れして見えた。ただ、よく見れば目は潤み、頬には涙の跡が残っている。

 ただならぬ空気を感じて、私は思わず目を背けた。美しい人は、そっと私の手首を離すと、ベッドの上で仰向けに横たわった。


「しばらく寝かせて欲しい」


 自分の部屋に戻ったことで、私はいくらか我に返った。美しい人の声は、男性にしてはやや高く、真っ直ぐな心根を持つ少年のようだった。

 若く見えるけれど、私よりはるか年上を思わせる、不思議な落ち着きがある。見た目と漂わせる雰囲気に、明らかな落差を感じるのは気のせいだろうか。


 ベッドで眠る姿は、一つも乱れたところが無く、まるで生気のない人形に見えた。

 私はベッドのそばで座り込んだ。しばらくの間、現実とは思えない人の存在を魅入るように見つめていたけれど——いつの間にか、そのまま眠りについてしまったのだった。



 翌日は土曜日。特に予定を入れていない休日だった。立ち上がった私は、思わず「いたた」と声を漏らした。変な体勢で寝てしまったので、腰や背中が痛い。

 伸びをすると、カーテンを開けようとして——思いとどまった。私の目下には“美しい人”の姿。昨夜のあの出来事は、夢では無かったらしい。


 美しい人は眠ったままだった。寝返りを打つ事なく、昨日のまま、人形のように微動だにしていない。

 カーテンは閉めたままにした。そして眠りの妨げにならないよう、室内の明かりを薄暗く調整しておいた。


 私はシャワーを浴びる事にした。いつものように、左手首に身につけていたシュシュを外す。シュシュで隠していた肌には、一筋の深い傷がある——でも、もう随分前にしっかりと塞がっていた。時々疼くように痛むことはあるけれど。


 私は幼い頃から不器用で、簡単に人と打ち解けることが出来なかった。気の合う同性の友達は少しはいたけれど、異性と話すのは苦手。だから、優しく話しかけてくれて、はじめて私の事を「好き」と言ってくれた彼に、嬉しくてあっさりと心と身体を許してしまった。


 遊ばれていると気が付くのに、時間はそれほど掛からなかった。その時から、私は異性との付き合いを避けている——それなのに、性別の判断が付かないような人に話しかけるどころか、自分の家に招き入れるなんて。私は一体何を考えているのだろう。


 ここのところ、異性付き合いに忙しい友人が羨ましく思えていたせいだろうか。最近は週末にひとり寂しく、お酒と映画鑑賞をすることで気持ちを紛らわせていた。


 浴室から出た私は、身支度を整えると買い物へ出かける事にした。美しい人が起きた時に、何か口にできるものがあればと思った。念のため、テーブルの上には書き置きを残しておいた。


 自転車で駅前のスーパーに出かける。あの人は何を食べるのだろう——分からなくて、私は風邪を引いた人を想定するものを購入した。

 あまり食欲が無かったので、自分用に大好きなプリンも買っておいた。


 帰宅した私は、玄関の扉をそっと閉めた。出かける前と同じ、靴も、部屋の状況も変わりはない。美しい人は静かにベッドで眠っていた。

 私は冷蔵庫に、エコバッグから取り出したものをしまっていく。一通りしまい終えて、エコバッグを小さく折りたたんだ時だった。


「おかえり」


 急に耳元で声がしたかと思うと、両肩にそっと手が置かれた。全く気配が無かったのに、振り返るとそこに、“美しい人“が立っていた。

 私は飛び上がりそうになったのを抑えて、控えめな声で言った。


「具合は、いかがですか……」


 まっすぐに見つめられて、私は思わず目を伏せた。やっぱり、昨夜と同じで目を合わせる事が難しい。


「私のことが嫌い?」


 急に悲しそうな声で問われて、私は思わず「嫌いじゃないです!」と強く言ってしまった。嫌なら家に入れたりはしない。ただ、好きか嫌いかで言われたら、何も知らない人の事をまだ判断はできない。うっかり、嫌いじゃないと言ってしまったけれど——。


 美しい人がこちらを見つめているのが、痛いほどに感じる。このままではいけないと思って、私はおずおずと顔を上げた。


 ためらいがちに見つめると、美しい人は言った。

「どうして目を、合わせてくれないの?」

「それは、あなたがとても、美しいからです」

「君はとても可愛いよ」

 間髪入れずにそう言ったかと思うと、ひんやりとした手で、おもむろに私の両手を握った。しばらく握り続けたところで、「本当に嫌じゃない?」と美しい人が尋ねてくる。


「嫌じゃ、ないですよ」

 こんな美しい人に真顔で「可愛い」なんて言われて、戸惑ったとしても、嫌だと感じる人はいるだろうか。両手まで握りしめられて——しばらくこうしていたせいか、いくらか気持ちが落ち着いてきた。


 ふと、とても子供っぽいやり取りをしているように感じて、私は少し笑ってしまう。

「素敵な笑顔だね」

 美しい人の手が、私の顎をなぞったかと思うと、ふっと視界に影が差した。何が起きたのかわからなかった。薄く開けた私の唇から、冷たい舌が入り込んでいた。ゆっくりと最初は控えめに——私が抵抗しない事を確認すると、次第に、貪るように激しくなった。


 唇がそっと離れる。ふたりの間で交わされた余韻が、名残惜しく開けたままだった私の口の端から一筋溢れた。美しい人は、親指で私の口元を拭うと——まるで甘い蜜を舐めるようにその指を自分の口に入れた。


「ごちそうさま」


 私は濃厚なキスに、思わずその場にへたり込んでしまった。腰を抜かしてしまったのかもしれない。頭がぼーっとしている。何も考える事ができない。


「唾液には催淫効果があるそうだよ」


 美しい人に手を取られて、私はふらつきながら、ゆっくりと立ち上がる。でも力が入らなくて、またへたり込んでしまう。

 華奢では無いけれど、細身の身体とは思えない力強さで——美しい人はその胸に私を抱えた。


「私の名前はリズ」

 美しい人はそう名乗ると、吐息混じりに言葉を続けた。

「可哀想な私を癒してくれない?」


 ベッドのふちに座らせた私の服を、美しいリズが手慣れた様子で脱がせていく。抗えない私はされるがまま、ベットの上に寝かせられた。

 私を見下ろしながら、リズも服を脱いだ。胸には男性には無いふくらみがあった。


「女性、だったのね」

 片言のように私は呟いた。

「性別なんて、取るに足らない概念さ」

 優しく諭すような口調だった。彼女は私の上に跨ると、首筋から耳元に向かって、肌を味わうように舌を這わせた。そして、身体の内側に熱を灯すような、甘い声で囁いた。

「身体を重ねることは相手を知り、慈しむ行為だよ」


 身体に愛撫を受けながら、何度も口づけをした。私は彼女に魅了されながらも、心の奥底に隠したはずの、痛くて、惨めな記憶を思い出していた。知らず知らずのうちに、涙が伝う。

「どうしたの?」

 彼女は私の涙を舐めた。舌の上で涙を吟味すると、「辛いことがあったんだね、聞いてあげるよ」と微笑んだ。


 出会って間もない人に、何もかも打ち明けるなんてはじめてだった。時折目から溢れる涙を、私は手で拭いながら話した。

 リズは私の横で、片方の手で頭を支えながら聞いていた。私が話し合えると、少し身を乗り出して、涙で濡れた私の手を舐めた。

「気が済んだ?」

 美しい顔で私に問いかける。私はふと思う。彼女の接し方は、人間というよりも動物に近い思いやりを帯びている。昔実家で飼っていたワンコのような……。

 彼女が答えを待っているようだったので、私は頷いた。リズは口元に笑みを浮かべると、「次は私の番だね」と言った。


 美しい人は再び私に跨ると、左右に首を振った。男性にも見えた短い髪が、みるみるうちに肩よりも長く伸びていく——緩くうねりのある髪をかき上げると、リズは話し出す。

「失恋したばかりでさ」

 私の胸をくすぐったく触る。

「お腹も、空いていたんだ」

 甘えたような愛らしい声で、私の手を取ると、するりと指の方へと唇を滑らせた。彼女の醸し出す雰囲気にうっとりと見つめていた私は、突然チクっと——縫い針よりも太いものが、私の指先に刺さった感覚がして——声が漏れた。


「怖がらないで、痛いのは最初だけだよ」


 彼女の口元に見えた犬歯は、人間のものでは無かった。私の指先を、少し尖りのある長い舌を使って舐めている。


「私の食事は、君の血なんだ」


 リゼの唇が、私の血で濡れている。彼女は選り好みするように私の身体中を見回すと、少し後ろに座り込んだ。そして私の左脚に手をかけると、太ももの内側に噛みついた。


 太い針のホッチキスで、躊躇ためらいなく、身体に穴を開けられたような感覚だった。私は思わず声を上げたが、リズの冷たい舌の感触がした途端、嘘のように痛みが引いた——むしろそこから熱を帯びるように、全身に快感が広がる。


 彼女が肌に鋭い歯をあてがう度に、私はそこから痺れるような心地よさを感じた。今までに味わったことのないような昂り。時折髪を撫でられ、唇を重ねる。


「可愛い声をもっと聞かせて」


「私をもっと温めて」


 段々、声が遠く感じるようになった。

 身体の先端から、次第に感覚が失われていく。


「大丈夫?」


 耳のそばでリズが問う。自分では確認する事ができないけれど、身体中にあけられた穴から、血を流しすぎたのかもしれない。


「人間のことは好き。でもいつも失恋してしまうの」


 私は少し口を開いた。けれど、声は出なかった。


「今日は一滴、減らしてみるよ」


 リズの声が、私の顔から離れる気配がした。


「口を開けて——」


 言葉を最後まで聞き取ることが出来なかった。ただ、彼女が悲鳴のような声をあげた後、私の口の中に、何かしずくが落ちた。それは舌の上を滑ると——喉の奥へと流れていく。


 私は酷く、喉が渇いていた。口の中に溜まっていくものは——次第にジリジリとした熱と、痛みをもたらした。それでも私の飢えは、彼女が私の口の中に垂らすものを求めている。


 もっと、もっと頂戴……。


 声にならない声は、うめき声となって口から溢れ出た。

 体の内側から、自分の意思ではどうにも出来ない何かが飛び出そうとしている。身体が熱い。苦しい——私は次第に抗えなくなって、意識が遠のいていった。





 誰かが私に頬擦りをしている。


 ゆっくりと目を開けると、「おはよう」とすぐそばで声がした。目を擦って声の主を確認する。


「やっと巡り会えた。私の恋人」


 美しい人——リズが私に微笑みかけた。



     Fin.





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