『中和滴定から始まる恋、になるとは限らない』
ヒニヨル
『中和滴定から始まる恋、になるとは限らない』
私は今、昼間だと言うのにカーテンで閉め切った暗い部屋の中にいる。
食欲はとてもあるのに、何を食べても美味しく無い。私は大好物だったはずの、プリンの食べかけをテーブルの上に置いた。
私のベッドの上には、安堵した表情で、眠りにつく“美しい人”の姿があった。
※
“美しい人”に出会ったのは、数日前の深夜に遡る。女性が夜に出歩くのは良くないと知っていながらも、冷蔵庫に入れてあるはずのお酒を切らしていて、コンビニへと向かっている最中だった。
季節が夏から秋へと移り変わる中、衣替えを終えていない私は、部屋の中では薄着で過ごしていた。外に出て、風が思ったよりも涼しくて、パーカーを取りに戻れば良かったかもと思った。
アパートを出て数分、薄暗い街頭に照らされた妙な人を見た。走って通り過ぎようかと思ったけれど、その人が近づくにつれて、私は目が離せなくなった。
長身で、驚くほどに顔立ちが整っている。日本人だと思うけれど——、一瞬で惹き込まれる容姿だった。
肌は夜の闇に発光するかのように白く輝いてみえた。短い髪のせいで、男性とも女性ともつかない。私は思わず声をかけてしまった。
「大丈夫ですか」
虚ろな瞳が私をとらえた。目が合った瞬間、身震いしてしまった——こんな例えが私から溢れるなんて恥ずかしいけれど、静謐な森林から現れた
呼吸する方法を忘れてしまったのか、私は息が上手くできなくなった。胸が締めつけられる。
私を見つめていた視線がそっと足元に落とされた。得体の知れない美しい人は、再び歩き始めたけれど、よく見ればふらついている。私は咄嗟に肩を貸した。
「体調が悪いのですか?」
触れた体は、ひんやりとした冷気を漂わせているかのようだった。麗しい
返答は無かった。一分にも満たない沈黙だったかもしれない。でも私にはとても長い時間に感じて、思わず言葉を続けた。
「私の家はすぐそこです。運びます」
自分の力で歩けない訳ではなさそうだった。もしこの美しい人が、力無く倒れてしまう程であれば、私は支えきれなかったと思う。
数歩進んだところで、耳元に囁かれるような僅かな声で、美しい人が言った。
「人間は儚くて、温かいね」
その声は甘くて、頭の中を痺れさせた。私は一瞬、膝に力が入らなくなってしまう——慌てて支え直すと、早まる鼓動に戸惑いながら、アパートへと急いだ。
※
部屋の明かりはつけたままだった。靴を脱ぐのを手伝って、美しい人を部屋の中に入れる。見ず知らずの人をこんな風に招いた事など、人生に一度も無い。
「ベッドで横になって下さい。必要なものがあれば言って——」
「血」
わずかに開いた口から溢れた言葉は、聞き間違いだろうか。ベッドに座った美しい人が、私の手首を掴んでいる。明るい場所で改めて見ても、整いすぎた顔立ちは人間離れして見えた。ただ、よく見れば目は潤み、頬には涙の跡が残っている。
ただならぬ空気を感じて、私は思わず目を背けた。美しい人は、そっと私の手首を離すと、ベッドの上で仰向けに横たわった。
「しばらく寝かせて欲しい」
自分の部屋に戻ったことで、私はいくらか我に返った。美しい人の声は、男性にしてはやや高く、真っ直ぐな心根を持つ少年のようだった。
若く見えるけれど、私よりはるか年上を思わせる、不思議な落ち着きがある。見た目と漂わせる雰囲気に、明らかな落差を感じるのは気のせいだろうか。
ベッドで眠る姿は、一つも乱れたところが無く、まるで生気のない人形に見えた。
私はベッドのそばで座り込んだ。しばらくの間、現実とは思えない人の存在を魅入るように見つめていたけれど——いつの間にか、そのまま眠りについてしまったのだった。
※
翌日は土曜日。特に予定を入れていない休日だった。立ち上がった私は、思わず「いたた」と声を漏らした。変な体勢で寝てしまったので、腰や背中が痛い。
伸びをすると、カーテンを開けようとして——思いとどまった。私の目下には“美しい人”の姿。昨夜のあの出来事は、夢では無かったらしい。
美しい人は眠ったままだった。寝返りを打つ事なく、昨日のまま、人形のように微動だにしていない。
カーテンは閉めたままにした。そして眠りの妨げにならないよう、室内の明かりを薄暗く調整しておいた。
私はシャワーを浴びる事にした。いつものように、左手首に身につけていたシュシュを外す。シュシュで隠していた肌には、一筋の深い傷がある——でも、もう随分前にしっかりと塞がっていた。時々疼くように痛むことはあるけれど。
私は幼い頃から不器用で、簡単に人と打ち解けることが出来なかった。気の合う同性の友達は少しはいたけれど、異性と話すのは苦手。だから、優しく話しかけてくれて、はじめて私の事を「好き」と言ってくれた彼に、嬉しくてあっさりと心と身体を許してしまった。
遊ばれていると気が付くのに、時間はそれほど掛からなかった。その時から、私は異性との付き合いを避けている——それなのに、性別の判断が付かないような人に話しかけるどころか、自分の家に招き入れるなんて。私は一体何を考えているのだろう。
ここのところ、異性付き合いに忙しい友人が羨ましく思えていたせいだろうか。最近は週末にひとり寂しく、お酒と映画鑑賞をすることで気持ちを紛らわせていた。
浴室から出た私は、身支度を整えると買い物へ出かける事にした。美しい人が起きた時に、何か口にできるものがあればと思った。念のため、テーブルの上には書き置きを残しておいた。
自転車で駅前のスーパーに出かける。あの人は何を食べるのだろう——分からなくて、私は風邪を引いた人を想定するものを購入した。
あまり食欲が無かったので、自分用に大好きなプリンも買っておいた。
帰宅した私は、玄関の扉をそっと閉めた。出かける前と同じ、靴も、部屋の状況も変わりはない。美しい人は静かにベッドで眠っていた。
私は冷蔵庫に、エコバッグから取り出したものをしまっていく。一通りしまい終えて、エコバッグを小さく折りたたんだ時だった。
「おかえり」
急に耳元で声がしたかと思うと、両肩にそっと手が置かれた。全く気配が無かったのに、振り返るとそこに、“美しい人“が立っていた。
私は飛び上がりそうになったのを抑えて、控えめな声で言った。
「具合は、いかがですか……」
まっすぐに見つめられて、私は思わず目を伏せた。やっぱり、昨夜と同じで目を合わせる事が難しい。
「私のことが嫌い?」
急に悲しそうな声で問われて、私は思わず「嫌いじゃないです!」と強く言ってしまった。嫌なら家に入れたりはしない。ただ、好きか嫌いかで言われたら、何も知らない人の事をまだ判断はできない。うっかり、嫌いじゃないと言ってしまったけれど——。
美しい人がこちらを見つめているのが、痛いほどに感じる。このままではいけないと思って、私はおずおずと顔を上げた。
ためらいがちに見つめると、美しい人は言った。
「どうして目を、合わせてくれないの?」
「それは、あなたがとても、美しいからです」
「君はとても可愛いよ」
間髪入れずにそう言ったかと思うと、ひんやりとした手で、
「嫌じゃ、ないですよ」
こんな美しい人に真顔で「可愛い」なんて言われて、戸惑ったとしても、嫌だと感じる人はいるだろうか。両手まで握りしめられて——しばらくこうしていたせいか、いくらか気持ちが落ち着いてきた。
ふと、とても子供っぽいやり取りをしているように感じて、私は少し笑ってしまう。
「素敵な笑顔だね」
美しい人の手が、私の顎をなぞったかと思うと、ふっと視界に影が差した。何が起きたのかわからなかった。薄く開けた私の唇から、冷たい舌が入り込んでいた。ゆっくりと最初は控えめに——私が抵抗しない事を確認すると、次第に、貪るように激しくなった。
唇がそっと離れる。ふたりの間で交わされた余韻が、名残惜しく開けたままだった私の口の端から一筋溢れた。美しい人は、親指で私の口元を拭うと——まるで甘い蜜を舐めるようにその指を自分の口に入れた。
「ごちそうさま」
私は濃厚なキスに、思わずその場にへたり込んでしまった。腰を抜かしてしまったのかもしれない。頭がぼーっとしている。何も考える事ができない。
「唾液には催淫効果があるそうだよ」
美しい人に手を取られて、私はふらつきながら、ゆっくりと立ち上がる。でも力が入らなくて、またへたり込んでしまう。
華奢では無いけれど、細身の身体とは思えない力強さで——美しい人はその胸に私を抱えた。
「私の名前はリズ」
美しい人はそう名乗ると、吐息混じりに言葉を続けた。
「可哀想な私を癒してくれない?」
ベッドのふちに座らせた私の服を、美しいリズが手慣れた様子で脱がせていく。抗えない私はされるがまま、ベットの上に寝かせられた。
私を見下ろしながら、リズも服を脱いだ。胸には男性には無いふくらみがあった。
「女性、だったのね」
片言のように私は呟いた。
「性別なんて、取るに足らない概念さ」
優しく諭すような口調だった。彼女は私の上に跨ると、首筋から耳元に向かって、肌を味わうように舌を這わせた。そして、身体の内側に熱を灯すような、甘い声で囁いた。
「身体を重ねることは相手を知り、慈しむ行為だよ」
身体に愛撫を受けながら、何度も口づけをした。私は彼女に魅了されながらも、心の奥底に隠したはずの、痛くて、惨めな記憶を思い出していた。知らず知らずのうちに、涙が伝う。
「どうしたの?」
彼女は私の涙を舐めた。舌の上で涙を吟味すると、「辛いことがあったんだね、聞いてあげるよ」と微笑んだ。
出会って間もない人に、何もかも打ち明けるなんてはじめてだった。時折目から溢れる涙を、私は手で拭いながら話した。
リズは私の横で、片方の手で頭を支えながら聞いていた。私が話し合えると、少し身を乗り出して、涙で濡れた私の手を舐めた。
「気が済んだ?」
美しい顔で私に問いかける。私はふと思う。彼女の接し方は、人間というよりも動物に近い思いやりを帯びている。昔実家で飼っていたワンコのような……。
彼女が答えを待っているようだったので、私は頷いた。リズは口元に笑みを浮かべると、「次は私の番だね」と言った。
美しい人は再び私に跨ると、左右に首を振った。男性にも見えた短い髪が、みるみるうちに肩よりも長く伸びていく——緩くうねりのある髪をかき上げると、リズは話し出す。
「失恋したばかりでさ」
私の胸をくすぐったく触る。
「お腹も、空いていたんだ」
甘えたような愛らしい声で、私の手を取ると、するりと指の方へと唇を滑らせた。彼女の醸し出す雰囲気にうっとりと見つめていた私は、突然チクっと——縫い針よりも太いものが、私の指先に刺さった感覚がして——声が漏れた。
「怖がらないで、痛いのは最初だけだよ」
彼女の口元に見えた犬歯は、人間のものでは無かった。私の指先を、少し尖りのある長い舌を使って舐めている。
「私の食事は、君の血なんだ」
リゼの唇が、私の血で濡れている。彼女は選り好みするように私の身体中を見回すと、少し後ろに座り込んだ。そして私の左脚に手をかけると、太ももの内側に噛みついた。
太い針のホッチキスで、
彼女が肌に鋭い歯をあてがう度に、私はそこから痺れるような心地よさを感じた。今までに味わったことのないような昂り。時折髪を撫でられ、唇を重ねる。
「可愛い声をもっと聞かせて」
「私をもっと温めて」
段々、声が遠く感じるようになった。
身体の先端から、次第に感覚が失われていく。
「大丈夫?」
耳のそばでリズが問う。自分では確認する事ができないけれど、身体中にあけられた穴から、血を流しすぎたのかもしれない。
「人間のことは好き。でもいつも失恋してしまうの」
私は少し口を開いた。けれど、声は出なかった。
「今日は一滴、減らしてみるよ」
リズの声が、私の顔から離れる気配がした。
「口を開けて——」
言葉を最後まで聞き取ることが出来なかった。ただ、彼女が悲鳴のような声をあげた後、私の口の中に、何か
私は酷く、喉が渇いていた。口の中に溜まっていくものは——次第にジリジリとした熱と、痛みをもたらした。それでも私の飢えは、彼女が私の口の中に垂らすものを求めている。
もっと、もっと頂戴……。
声にならない声は、うめき声となって口から溢れ出た。
体の内側から、自分の意思ではどうにも出来ない何かが飛び出そうとしている。身体が熱い。苦しい——私は次第に抗えなくなって、意識が遠のいていった。
※
誰かが私に頬擦りをしている。
ゆっくりと目を開けると、「おはよう」とすぐそばで声がした。目を擦って声の主を確認する。
「やっと巡り会えた。私の恋人」
美しい人——リズが私に微笑みかけた。
Fin.
『中和滴定から始まる恋、になるとは限らない』 ヒニヨル @hiniyoru
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