2.疲れた人が来る場所でした
眩しい光が消え、目を開けた二人の目に飛び込んできたのは、朱色の鳥居が目立っているだけののどかな風景だ。鳥居の両端には、瑞々しい緑の葉をつけた木々が立ち並んでいる。足元は湿り気のある薄茶色の土で鳥居の向こうには玉砂利が敷いてあり、薄くもやがかかっているため、神聖な雰囲気も感じられる。
「らっしゃぁせー」
レンタルDVD店の店員よりやる気のなさそうな子供っぽい声が、二人の耳に届く。声は鳥居のすぐ向こう側から聞こえてきたようだ。目を凝らして見ているとその部分のもやがだんだん消えていき、ちょこんと地面に座ってふさふさの尻尾を振る、細い目の小型犬が現れた。そのポメラニアンのような狐色の毛は触ったら柔らかいのかなと、伊織はやや現実逃避気味に考える。
「お待ちしてやしたー」
「……伊織、ポメラニアンってしゃべるのか……?」
「……ファンタジーとかSFの世界なら……?」
今いる場所がどこだかもわからないまま、二人はふらふらと鳥居の中へ足を運び始めた。視線は目の前のポメラニアンのような小型犬から片時も離すことはない。一般的なポメラニアンは丸くかわいらしい目が特徴なのに、細い目を持つうえに人間の言葉をしゃべっているらしい小型犬が気になって仕方がないからだ。
「えっと……、けっこうかわいい……ですね」
「おう……、巨乳のおねえちゃん程じゃないけど……」
「もしかして僕、褒められた?」
「あの、ここは……?」
首を横に倒し照れてみせる目が細いポメラニアンに、伊織は顔のマスクを外して尋ねた。特に巨乳好きというわけではなく、どちらかというと貧――好みは置いといて、と、伊織は頭の中を整理する――目的は、あんな女性やこんな女性がひしめき合っているであろうアダルトコーナーなのだ。ここのように清涼な微風が吹く場所とは、正反対の。
「ここは、なごみ神宮だよ。祀られている神様は
「目が細いポメラニアンが神様のお使いやってる神宮って、あるんだな」
「同じイヌ科ならいいっていう、心が広い神様なんですよ、きっと」
「……僕も、狐なんだけど……」
「えっ、狐なの? 色と目だけはそう見えるかもしれないけど。野間さん、狐って見たことあります?」
「テレビとネット画像でならあるぞ。あ、あと、獲物めがけて深い雪にダイブする動画も」
「それ、僕も見たことあります。……本当に、狐……?」
「きみたちがどう言おうと僕は狐なの! もういいよ、疲れてそうだから癒やしてあげようと思ったのにっ! 帰れば!? 無理だと思うけど!」
まじまじと目の前の
「よし、伊織、帰ろう」
「はい」
「巨乳が俺を待ってる」
「僕は巨乳じゃなくてもいいです」
二人はくるりと方向転換して来た道を引き返そうとするが、そこには鬱蒼と茂った深そうな森があるのみだ。
「……この森、入ったら迷いそう……」
「伊織、コンパス持ってるか?」
「持ってるわけないし、持ってたところで役に立たないでしょ」
「……ってことは……」
「帰れません、ね」
再びくるりと方向転換して瑞雲を視界に入れると、伊織は言った。
「どうやったらあの店に戻れるの?」
「疲れが取れたら戻れるよ」
「疲れって、僕、そんなに疲れてないんだけど」
「そんなことないでしょ、疲れてる人しか入ってこられないんだもん。だから無理だって言ってるのに」
伊織が「疲れてる人……」とつぶやいて野間を見ると、野間も伊織を見ている。並んだ二人がお互いの顔を見て目が合う形になり、次の瞬間、喧嘩が始まった。
「野間さんが疲れてるからでしょ! 僕は巻き添え食っただけで!」
「おまえこそ、受験だの何だのの疲れが取れてないんだろ!」
「残念でした、僕は推薦で去年のうちに大学合格してたんですぅー! 野間さんがそんなにくたびれた格好だから!」
「んだと!? 今日は半休使って午後からわくわくどきどきアダルトタイムの予定だったんだぞ! 疲れなんて感じてねえわ!」
「はっ! わくわくどきどきアダルトタイム……!」
「お、おう」
「僕も、わくわくどきどきしたかった……十八歳になったんだから……」
「おう……」
「それが、どうしてこんなことに……」
「そ、そうだな……何か俺が悪いような気がしてきた……。瑞雲、ここ喫煙所ある?」
威勢よく始まった喧嘩が急に終わりを迎え、野間が戸惑いながらタバコを吸う仕草をしてみせると、瑞雲から「あるよ」という答えが返ってきた。
「お、あるんだ。どこ?」
「あの奥の、本殿っていう建物の裏」
「さんきゅ。んじゃちょっと行ってくるわ」
「ま、待って待って、ポメラニアンと二人きりにしないでよ、野間さん」
「おまえも来るか?」
さっさと歩き出した野間を、伊織は「吸わないけど行く」と言いながら小走りで追いかける。
「……僕、そんなにポメラニアンに似てるのかな……」
瑞雲は狐色のふわふわの毛をそよ風になびかせ、しょんぼりした声を出しながら天を仰いだ。
◇◇
喫煙所は
「なーんか、変なことになっちゃったな」
「ううっ……今日中に帰れるかな……」
タバコを吸いながら話し始めた野間に、ベンチの隣に座っている伊織が答える。
「疲れ、か」
「疲れてるんでしょうか、僕たち。自分では気付きにくいだけで」
「あ、わりぃ、煙そっちいった」
ぱたぱたと手で扇いで伊織のそばから煙を逃がそうとする野間がおもしろくて、伊織はふと微笑んだ。
「お、おまえ笑うとかわいいな」
「……かわいい? 今、かわいいって言いました?」
途端に伊織の表情が険しくなる。伊織にとって、「かわいい」は褒め言葉ではなく地雷なのだ。
「言ったけど」
「もう二度と言わないように!」
「うわ、怒った? ごめん」
ぷんぷん怒りながらベンチを立った伊織を、野間はスモーキングスタンドでもみ消したタバコを横目で見ながら必死に追いかけた。
「悪かったって」
「もう二度と言わないなら許します」
「言わないって。俺、謝ってばっか……」
どすどすと音を立てるように歩く伊織の半歩後ろを、野間が付いていく。
「……ま、お年頃だもんな」
「はぁっ? 何か言いました!?」
「……何でもない……」
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