第2章 3話「難波高津宮」

 成人を迎えると正式に髪長媛を妃とし、大鷦鷯は誉田宮を出て難波に移った。

 父上の命により淀川、大和川を航行する船と、難波津を発着する船の管理を任されたのである。

 聞くとわれの幼い頃よりそう決めていたという。さらに、われもそのつもりで答えていたのだという。そんな記憶はなかった。たしかに幼い頃に河内湖を望んだ記憶はあったが…。

 片足羽を去るときは、今度こそ本当に多くの民が誉田宮の前に訪れ、その別れを惜しんでくれた。


「でも、戦地にいくわけではないしなぁ」


 と民がいうと一斉に笑いが起こる。


「大層令しい妃さまをもらったらしいな。御子様にはもったいない」


 民は好き放題言ったが、大鷦鷯はただただ満面の笑みでその様子を眺めていた。

 誉田真若が最後に、


「どうなるかと心配したが、おぬしは、もしやしてのう…」


 と感慨深そうに髭をなでて言った。


「もしやしてとはなんや?」


「うむ。おまえの兄の大長守がこの宮を出るときは、こんな騒ぎにはならなかった。民に慕われるおぬしは、はてはこの倭国を率いるのやもしれぬ」


「われが倭国を率いる…」


 スメラミコトになるということか。


「それは勘弁してほしい」


 大鷦鷯はぶるぶると顔と手を振った。



 

 難波の高津宮で髪長媛が出迎えた。


「待たせたな」


「はぁい。お待ちしておりましたぁ」


 髪長媛は大鷦鷯の姿をみとめるや、喜んで殿上から階段を下った。

 大鷦鷯は嫌な予感がした。そして案の定、髪長媛は最後の一段で足を踏み外すと、豪快にドサッと音をたててこけた。

 すかさず鹿男の舎人が駆け付ける。髪長媛は抱えて起こされて、


「慣れないのでころげてしまいましたぁ」


 と半泣き笑いのような顔をして言った。

 大鷦鷯と共に、誉田宮からやってきた舎人と女孺は唖然としてその様子を見ていた。


「妃さまは大丈夫でございますか?」


 女孺が心配そうな顔をして大鷦鷯に言った。


「うむ。まぁ、こけるのには慣れているようなのでな」


 大鷦鷯はそう言って笑ったが、舎人と女孺は笑わなかった。


「われが桑津で初めて会った時もあのように豪快にこけていてな。澄ましている時では想像もできない姿やろう」


 舎人と女孺が、うんうんとうなずいた。


「でもわれは、そこが余計に好いたのや。透きとおるような娘や、外も内も」


「大鷦鷯さまにお似合いな方と思います。妃さまも、大らかな大鷦鷯さまに召されて幸せなことでしょう」


 女孺が感慨深く言った。

 その後、皆で高津宮からの景色を眺めた。

 高津宮は、大鷦鷯のために新たに設けられた宮であった。

 難波の海原と河内湖を一望でき、東には生駒山麓がそびえるのが見える。海原の向こうには淡路島も望めた。

 しかし、その雄大さとは裏腹に、今だ難波は不毛の地であることは認めざるを得なかった。河内湖は台地の北方の開口部からだいぶと排水が進み、かつてより陸地となった場所もあったが未だ湿地も多く、わずかな平野に集落が点在しているだけである。いずれ、この難波にも広大な農地を築ければ、より大和と河内も豊かになるであろうと、そんな姿を思い浮かべてみたが、すぐに頭を振ってかき消した。

 そのためには、一体どれほどの年月を重ねればよいのか、想像すらつかない。少なくともわれの生きている間ではないであろう。

大鷦鷯は自分の無謀な妄想に苦笑するしかなかった。





 しばらくは平穏な日々が続いた。

 はじめは誉田宮に比べて不便なことも多々あったが、何気ないことで歓喜の声をあげる髪長媛と一緒にいては、退屈することがなかった。


「ほら、あなた雨が降りましたわぁ」


「陽が今日も沈みますねぇ」


「今、船が一気に三艘も行きましたわよ」


「鳥の群れを見ていると心が休まりますのぉ」


「こないだは見たことない虫を見ましたのよ」


 しかし、大鷦鷯のそんな浮かれた気分も、半島から負傷した兵を乗せた船が難波津に着くようになっては、眉間に皺をよせる日が多くなった。

 そしてある日のことであった。高津宮に平群木菟(ヘグリノツク)が訪ねてきた。

 久しぶりに再会した大鷦鷯と平群木菟は固く握手を交わした。


「立派になったな木菟」


「大鷦鷯も見違えて…、いやそれほど変わらないか」


 しばし二人で笑い合う。

 平群木菟は武内宿禰の孫にあたり、葛城氏を筆頭とする平群氏の子息であるが、木菟が大鷦鷯にとって特別だったのは、生まれた日が同じだったからである。

 大鷦鷯の産殿に木菟(ミミヅク)が飛び込み、木菟の産殿には鷦鷯(ミソサザイ)が飛び込んだ。それで互いに鳥の名を交換したのが名付けの由来になったというが、そんな因縁もあってか、幼い頃には事あるごとに顔を合わせ、野を駆け回り遊んだこともあった。今思えば平群木菟と顔を合わさなくなったのは父と武内宿禰の確執があってのことであろう。

 平群木菟は背も伸び(はるかに大鷦鷯をしのいでいた)、衣の袖から覗く腕もたくましくなっていたが、顔つきだけは以前とは変わらない様子で、ただ再会を喜んでいるように見えた。


「まぁ、あがれや」


 大鷦鷯は宮殿の中へ案内しようとしたが、平群木菟は手を振り、


「いや、おれはこのあとすぐの船で出ないといけない。おまえの顔を一目見れたらいいかなと思って寄ってみただけなんだ」


「そうか。どこまで行くんや?」


「任那(みまな)までだ」


「任那?なにも木菟が戦地に出向かなくとも」


「スメラミコトの直々の命なんだ」


 平群木菟の説明によると、百済から亡命しようとしている弓月君(ユヅキノキミ)の一族が、新羅の兵によって足止めを食らっているらしく、護送の役目を担い向かった葛城襲津彦も戻らなくなった。現地の情報がなく、視察および加勢も想定し、平群木菟を含む兵団が半島に向かうことになったというのだ。


「そうか。くれぐれも気をつけろや」


「あぁ、帰ったら今度はゆっくり来させてもらおう」


 平群木菟は微笑んだが、大鷦鷯はわざわざわれに会いにきたというのは、もしや死も覚悟しているのではないかと思い至った。戦はついにわれの幼馴染さえ奪おうとするのか。しかし、そんな不安を口にすることは憚られた。不吉なことは口にすれば、それが現実になる。


「うむ。必ずな。待っておるぞ」


 平群木菟は手を振り去って行った。

 その姿が見えなくなっても、大鷦鷯はずっと見送り続けた。





 百済から亡命してくるものも難波津に到着するようになった。

 連日ぎっしりと人が乗り込んだ船が桟橋に着く。中には百済の阿花王(アカオウ)の王子、直支(トキ)の姿もあった。人質として連れてこられたのだ。

 大鷦鷯が一番驚いたのは、見たこともない動物が船に乗せられてやってきたことだった。大きな犬かと思ったが、違うという。馬(うま)という動物だと教えられた。

 見た目よりは大人しい動物であったが、高句麗はこの馬を戦に使っているのだそうだ。騎兵といい、この馬に兵が騎乗して攻めてくるという。倭国が苦戦している理由がわかる気がした。今度、倭国でも馬を繁殖させ、戦に使うことになるであろうとのことである。

 年が明け、葛城襲津彦が率いる弓月君の一団を乗せた船団がようやく帰国した。

 その一団の人数は、いくつか集落が作れるのではないかというほどであった。難波津は一時騒然となった。未だかつて一度のこれほどまでの異国人の渡来はなかったであろう。人並みの中に、大鷦鷯は平群木菟の姿を見つけては安堵した。

 葛城襲津彦は大和に入り、スメラミコトに報告を済ませると、またすぐに難波津を発った。高句麗の大軍が新羅に向かっているという情報が入ったからであった。葛城襲津彦は大鷦鷯の姿を見つけては、


「ほう。おまえがあの大鷦鷯か。立派になったのう…でもないか」


 と見下ろして言った。

 大鷦鷯が圧倒されていると、


「そんな顔をするな。まぁ待っとれ。新羅高句麗なんて早々に蹴散らして帰ってくるゆえにな」


がはははっと、葛城襲津彦は蓄えた髭を空に突き立て豪快に笑った。


「ぜひ、ご武運を…」


 大鷦鷯が葛城襲津彦に圧倒されたのは、ただ単に大声だからとか、体つきが岩壁のようなだからとかではない。まるであの吉野の山で感じたような畏怖する感覚が伝わってきたからであった。これが戦を、つまり死を掻い潜ってきたものだけに宿るなにか…とでも言うのであろうか…。

「ぐはははっ」と、船に乗り込んでも葛城襲津彦の笑い声が聞こえてきた。

 そんなに戦とは楽しいものなのだろうか…。そんなはずはない。

 海原に徐々に見えなくなっていく船を見送りながら、大鷦鷯は寒気がするように顔を振った。

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