みーむ

大藤晴希

みーむ

「少子化は素晴らしいことです。増えすぎた人類が自分達の過ちに気が付いたから、少子化になったのだと思います」


 田中君の朗々とした声が教室に響き渡り、先生の顔が硬直した。先生だけじゃない。クラスの皆も固唾をのんで、彼を凝視している。


「だから、少子化は悪いことと決めつけているこの授業に対して、僕は疑問を感じます」


 さらに言い募る彼に、先生が困った様に苦笑いを浮かべた。何かを言いかけて口を開け、また閉じる。まるで金魚みたいだ。


「えっと、田中君は皆と意見がちょっと違うみたいね。ところで白鳥しらとりさんは、さっき何て言ってくれたかしら?」


 名前を呼ばれて、咄嗟に元気よく返事をしてしまう。

 授業中に白羽の矢が立つことは往々にしてあるから、多少驚きはするもののしっかりと答えられた。


「少子化はよくないことです。なぜなら人が減ってしまったら、今私達が生活している社会が立ち行かなくなるからです。だから国がきちんと対策をするべきです」


 先生の顔が、あからさまに柔らかくなる。田中君が転校をしてきてから、ずっと彼に悩まされ続けているのだろう。彼が少しずれた発言をする度に、学級委員の私に必ず話題を振ってくる。脱線した話を「正解」に戻してくれると、私に期待しているに違いない。


「ありがとう。今日の道徳の授業も、色んな意見が出たわね。ただやっぱり、少子化はなんとか食い止めないといけないって意見が多かったですね。それじゃあ区切りが良いので、今日はここまで」


 チャイムが鳴るまであと数分あるのに、先生は授業をそそくさと切り上げてしまった。

 皆は授業が早く終わったことを素直に喜んで、ガチャガチャと支度を始める。部活がある子達は我先にと廊下に飛び出し、掃除当番の子達は小声でヒソヒソと話しながら掃除用具入れに向かう。私の席は教室の一番後ろなので、彼女達の密談が耳に入ってきた。


「田中君ってさぁ、やっぱり浮いてない?」

「一か月経っても、ぜんっぜん馴染んでないよね」

「そもそも夏休み前までいた中学校って、頭の良い私立なんでしょ?」

「あーね。あたしらのことバカって思ってそう」


 クスクスと忍び笑いをする彼女達。肌がぞわぞわと震えるような、なんだか嫌な感じだなぁと思い振り向くと、中心にいた女の子と目があった。小学校からの友達の、瑠紀るきちゃんだ。

 悪口を言っている最中に私と視線がバッチリと交わったことに少々怯んだようだが、すぐに笑顔を浮かべてすり寄ってきた。


美衣夢みいむも可哀そう。学級委員だからってなんでも当てにされて、困っちゃうよねぇ」

「うーん、まぁ、そうだね」


 言葉を濁して曖昧に笑う。瑠紀ちゃんは私の肩を抱きながら、あれこれと言葉を続ける。首に彼女のツインテールが当たり、少しくすぐったい。


 確かに田中君は彼女達の言う通り少し変な男の子だ。社会の授業で戦争の話をしたら「この時に人類は滅ぶべきだった」とか言うし、国語の授業で小説を読んだら「安楽死制度があればこのようなことにはならなかった」とか言う。

 その度に先生達は戸惑ったような表情を浮かべ、授業が一瞬止まる。はっきり言って、迷惑だと思う。


「中二病って言葉があるけどさ、まさにそんな感じじゃない? あれじゃあ三年生になっても変わらなそうだけど」


 瑠紀ちゃんの言葉に頷きつつ、頭の中ではちょっと違うんじゃないかと否定する。彼は理路整然と言葉を巧みに操って、持論を展開している。自分が闇の大王であるなど、大それたことは言っていない。ただ、現実と地続きなことを述べているのだ。

 だから誰も田中君をイジメたりしない。彼をいじっても面白い設定や話が飛び出すことはなく、つまらないからだ。ただ皆、こうやって遠巻きに彼を観察している。


 だけどその雰囲気はどことなく気持ちが悪い。決してイジメは起こっていないが、田中君が来てから教室の空気が張り詰めて澱んでいる気がする。それを是正せず、傍観者という立場にいる自分のことも、私は嫌だった。


「あのさ、私、田中君とちょっと話してみるよ」

「え、マジで言ってる?」

「いくら孤立してるからって、美衣夢がそこまでしてあげる義理ないって」


 目を見開いて止めてくる瑠紀ちゃん達を振り切って、私は椅子から立ち上がった。

 これ以上彼女達の陰口を聞くのが、正直な所かなりしんどかったのだ。そして純粋に、田中君がどういった気持ちであんな発言をしたのかが気になる。


 田中君は黒板正面の自席にポツンと座って、帰り支度をしていた。まだどの部活にも所属していないから、真っ直ぐ家に帰るのだろう。長いまつ毛を伏せながら淡々と手を動かす彼に声をかけるのは腰が引けたが、勇気を振り絞って手を振った。


「た、田中君。今から帰るところ?」


 なんと平凡な挨拶だろうと自分でも呆れたが、彼はピタリと動きを止めて視線だけ私に寄越した。ハッとするほど透き通った、ガラス玉のような瞳に見つめられて、思わずドキリと心臓が鳴る。


「うん、そうだよ」


 他の男子とは比べ物にならない程、澄んだ声だ。田中君の声変わりは、まだ始まっていないのかもしれない。


「そっか。えーっと、その、さっきのことなんだけど」


 自分から話しかけに行ったのに、上手い言葉が見つからない。長く伸ばした髪を指先で弄びながら、必死に考える。


「なんであんなこと言ったの? 少子化は大変だって、思わないの?」


 私の疑問に彼はゆっくりと、目を瞬かせる。そのまま返事を待つが、彼は緩慢な動作で再び荷物をまとめ始めてしまった。

 無視されているんだ、と気が付いて頬が熱くなる。皆から孤立して可哀そうだと思って、クラス全体のことを思って、声をかけたのに。こんな蔑ろにされるなんて、酷いじゃないか。


「ごめんね、答えたくないならそれでいいよ」


 ショックを受けつつ声を絞り出すと、田中君がスッと立ち上がった。そして私を見下ろすと、細くて綺麗な指を窓の外に向けた。


「ううん。ここだとうるさいから、帰りながらでいい?」

「えっ、帰りながら?」


 想定外の言葉に面食らっていると、田中君はスタスタと歩いて行ってしまった。置いていかれまいと、慌てて自分の荷物を引っ掴んで追いかける。遠くから瑠紀ちゃんが私を心配そうに見つめる視線を感じたが、構っている時間もなかった。


 田中君は背が高い。だから、歩くのもとても速い。追いついたのは校門を出てからで、その時には既に私の息は軽く上がっていた。


「金曜は、部活ないからいいけど、田中君って家、どっちなの」

「僕の家のことは気にしないでいいよ。行こう」


 そんなことを言われても、ここの学区は広い。家が真反対だったらどうするのだ、と言いたいのを堪えて着いていく。幸いにも、彼が足を進めた方角は、私の家がある方面だった。

 肩を並べた途端、ふと頭に心配事が過る。一緒に帰っているのを他の人に見られたら、付き合っていると勘違いされないか。そんな私の邪な考えを見抜いたように、田中君は口を開いた。


「年頃の男女が一緒に歩いているだけで、やれ付き合ってるだなんだ、大変だよね。今の状況も白鳥さんとしては、まずいのかな」

「いや、まずいってことは別に……」


 尻すぼみになる私を、チラリと彼が横目で見てきた。

 この距離で田中君ときちんと会話することは初めてだが、よくよく顔を眺めると端正な造りをしている。日本人離れした高い鼻に、血の気を全く感じさせない程白い肌。思春期特有のニキビは、一切ない。

 思わず見惚れそうになるが、幻想を砕くように田中君が言葉を続ける。


「何が楽しくて、そんなに繁殖のことを考えていられるんだろうね。それなのに少子化だなんて、矛盾していて笑っちゃうよね」

「繁殖って、そんな言葉」


 出てきた単語の威力が強くて、思わず反芻してしまう。


「そんな言葉、人間じゃなくて動物に使うものじゃないの」

「何を言っているの、白鳥さん。人類だって動物じゃないか」


 私が考えこんで出した返答に、淡々と田中君は言い返す。


「それなのに他の動物を虐げて、自分達は特別だと勘違いしている。傲慢だよね」


 冷え冷えとした物言いに、背筋が凍った。

 右手側に見えてきた田んぼに、トンボが飛んでいる。カエルの鳴き声も、少しだけ聞こえる。彼はこのトンボやカエルと、私達は何も変わらないと言いたいのだろうか。

 確かに理科の授業で、私達は哺乳類という動物の一種だと学んだ。それと同時に、他の動物達を食べて生きている事実に感謝しなさいと諭されている。だからご飯を食べるときは毎回、いただきますと手を合わせる。

 きちんと感謝しているのに、ここまで言われる筋合いがあるのだろうか。


「田中君が言う程、人間って傲慢なのかな」

「白鳥さんはそう思わないんだね。地球のリソースを食いつぶして、自分達さえ良ければそれでいいって態度を取っていると僕は思うけど」


 彼の言葉は、正直難しくて完全に理解できない。ただ、田中君の話し方はずっと一定の温度を保っていて、私を馬鹿にしているわけではなさそうだ。必死に足を動かして歩調を合わせるけど、横顔からは何も読み取れない。


「資源以外の話でもそうだよ。例えば、戦争」


 軽々しく口にされた単語が、心の中にずっしりと沈み込んでくる。


「ここは平和だから実感がわかないだろうけど、人類は誕生してからずっと戦争をしているよね。しかもその規模はどんどん大きくなっている」


 実際、隣の国も戦争をしている。

 今朝も出勤前のお父さんが、しかめっ面でテレビを見ていた。爆撃で何人も子供が亡くなったらしい。


「そこで少子化の話に戻るんだけど」


 田中君はスイッと一歩前に進み出て、私の前に回り込んだ。逆光で彼の顔が黒くぼやけて、どんな顔をしているのかがわからない。


「人類が増えたらその分、君達が漫然と使っている地球の資源が減るよね? そうすると、少なくなったエネルギーが争いの火種になって戦争が増えるって考えられないかな」


 足を止め、口の中で彼の質問を復唱する。

 田中君は身じろぎせず、夕焼けの中で私の答えを待っている。表情が見えなくとも、真っ黒い両眼で私を捉えていると、本能が感じ取る。

 数秒沈黙し、リーリーと虫が鳴く音を聞く。何か反論したかったけれど、結局私は頷いてしまった。


「……考えられる、と思う」

「そうだよね。あとさ、白鳥さんにとって戦争は嫌なものだよね?」


 この質問に対しては、すぐに首を縦に振れた。私だけじゃなく、誰にとっても戦争は嫌だろう。


「うん、戦争は嫌。痛いし、悲しい」

「じゃあなんで、戦争を起こす原因の人類を増やそうとするの? そこが僕はわからない」


 歌うように、田中君は奇妙な抑揚で言葉を紡いだ。止めていた体をクルリと回転させ、足を再び前へと突き動かす。

 やたらと長い彼の影を踏みながら、私は考える。

 ここで田中君に対して、道徳の授業で答えたことと、同じことを言ったらどうなるのだろう? きっとさっきのように「傲慢だ」と言われるのではないか。自分のことしか考えていないと、糾弾されるに違いない。

 でも、人間が増えたからって必ずしも戦争が起こるなんて決めつけるのは、よくないことだと思う。

 根拠はないが、なんとなくそう感じる。


「田中君が言うような可能性もあるけどさ、人間は考えられる生き物だし、話し合いで解決できることだって、きっとあるよ」


 自分の出した返事が、彼の求めているものではないと薄々とわかる。わかっていても、私にはこれしか言葉がない。

 彼は前を見たまま、無機質な声で「ふぅん」と鼻を鳴らした。


「君にとって戦争は遠い話だもんね。じゃあ身近な話をするけど、最近ここら辺で虐待の事件があったよね。

あんな状況でも、話し合えば誰も殺されずに済んだのかな?」


 ザリッと、靴が土を踏みしめる音が鳴る。自分の両足に、意図せず力が加わっていた。

 田中君が口にした事件は、私にとってはセンセーショナルな話題だった。何しろ通っていた小学校で起こったものだったから。

 小学校一年生になったばかりの男の子が、ゴールデンウィークを境に学校に来なくなった。訝しんだ担任の先生が家に行ったが、親が出てきて物凄い剣幕で追い返されたらしい。それからしばらく経って、近所の河原で変わり果てた姿で、男の子は見つかった。


 何も言うべき言葉が見つからず、黙って私は歩く。田中君の発言は、死者に対する冒涜なのではないか。彼に悪気はないのかもしれないが、弄ぶような態度にだんだんと腹が立ってきた。

 私の沈黙をどう解釈したのか、彼はなおも言葉を続ける。


「虐待だけじゃないよね。この世の中には不幸な事件が沢山起きているし、小さなものを挙げ始めたらキリがない。

若者の自殺率の高さ、是正されないブラック企業、あまりにも低い女性の人権、加速する資本主義による格差。

こんな忌まわしいものばかりの世界に、どうして新しい命を産み落とそうとする?」


 限界だった。

 彼の話す内容はあまりにも私の考え、ひいては今まで学んできたものとかけ離れていた。私にとっては家と学校が全てだが、誰もそんな悲観的なことを言ってこなかった。どんなに悲しいことがあっても努力は報われて幸せになれると、先生もお母さんも言っているのに。

 大きな背中を睨みつけ、私は彼に対して声を張り上げた。


「田中君が言っているのって、全部キベンだよ。そりゃあ不幸なこともいっぱいあるけど、幸せだって数えたら沢山あるよ」

「それじゃあ君は、これから死ぬほど不幸な目に遭って、それでも最後に生きててよかったって言える自信はあるの?

自分の子供が自殺したいほど苦しんでも、そう言う?」


 最近覚えたばかりの単語を突きつけたのに、田中君は全く揺らがなかった。

 教室で受け答えしていた時と変わらない速度で言葉を吐き続ける。まるでこの世の真理を全部理解しているかのような、神様にでもなったような話し方だ。


「少子化は、事前に悲劇を防ぐ為の最高の手段なんだよ。だって人類がいなければ、あらゆる不幸は存在しないからね」


 ゆっくりと前髪をかき上げながら、田中君は私を振り返った。

 ゆらゆらと、長い体が空に溶けていくように揺れて見える。気のせいだろうが、彼の周りに薄暗い靄のようなものも見えて、慌てて目を擦る。だが何度も目を拭っても靄は消えず、次第に辺りも暗くなってきた。最近めっきり日の入りが早くなったが、今日は特に日没があっという間に感じる。


 ふと、視界の右端に違和感を覚えた。田んぼの中に、ひょろりとした案山子が埋まっている。顔にへのへのもへじが書かれ、頭に古い麦わら帽子を被っている、何の変哲も無い案山子。毎日の登下校では気にすることもない存在だが、さっきからずっとこの案山子が右手に見えている気がする。

 ハッとして顔を左に勢いよく向ける。そういえば、左奥に見える団地の給水塔もサイズが変わっていない様に思える。


「どうして昔から、君達はずっとそうなんだろうね。自分達のことばかり考えて、心底くだらない諍いを起こして苦しみの再生産をしている」

「どういうこと?」


 揺れていたはずなのに、まるで時間が止まったように田中君は同じポーズで固まっている。体を僅かに斜めにして、顔は俯いていて表情が窺えない。

 もしかして案山子みたいに顔がなくなったのではないのかと、子供じみた発想をしてしまうほど、何も読み取れない。

 意味不明な言葉を、夕闇の中で呟き続ける同級生。そしてなぜか、いつもよりも家が遠く、歩けども辿り着かない。状況を整理した瞬間、ようやく私の中に危険信号が灯った。

 こわい。私は、田中君が怖い。


「……ごめん、私、忘れ物しちゃったみたい。学校戻る」


 面白い位、自分の声が震えた。だが取り繕う精神的余裕はなく、とにかくこの場から逃げ出したいという思いが急速に胸に広がる。彼に声をかけたことを、全身が後悔していた。

 学校に戻って、瑠紀ちゃん達と一緒に帰ろう。それで田中君がどれだけヤバい人物なのか、教えてあげないと。

 足をクルリと反転させ、彼に背を向ける。その途端、ナイフで胸を刺すような、冷たい声が後ろから投げかけられた。


「自分から近づいたのに、逃げるんだ。人類は向き合って対話するって言ったばかりなのに、無責任だね」


 グッと足が止まった。蛇に睨まれた蛙のように、動けなくなる。そんな私に、田中君は言葉を投げ続ける。


「君達に思考能力を与えたのはやっぱり失敗だったよ。何もかも中途半端で滅茶苦茶で。やり直そうとしても、歯向かってくるし」


 さっきから彼は何を口走っているのだろう。振り向いてそう叫びたいのに、両足が地面に固定されてしまったみたいだ。

 それに、頭の中でアラートがガンガンと鳴り響いている。きっと振り向かない方がいいよ、と。


「やり直すって、何?」


 やっとの思いで乾いた声を出す。聞きたいこと、聞くべきことは山ほどあるはずなのに、たった一文しか口に出せない。


「平準化だよ。他の生物と君達を全て等しくするんだ。そのために温度を上げたり地面を揺らしたり、調整して頑張ったんだけどうまくいかない」


 足音がしなかったのに、すぐ真後ろから田中君の声が聞こえた。声だけじゃない。首筋に彼の息がかかるほど、近くにいる気配がする。

 それなのに全く人の体温を感じない。

 学校に続く道を、真っ直ぐに見つめる。暗くてぼんやりとした輪郭しか見えないが、いつもの見慣れた景色だ。田んぼと、木と、まばらに建つ家々。何も恐れることはないのに、絵画のようにのっぺりとした二次元空間にいるようで、寒気が止まらない。


「最近ようやく気が付いたんだ。悲劇の元凶になると忌み嫌っている、人類の思考を逆手に取ればいいんだって」


 私の気持ちに気が付かないのか、田中君は変わらず喋り続ける。

 凛とした声は、直接脳内に響くようだ。


「思考能力は僕達だけの専売特許だって考えに縛られるから、成功しないんだ。人類自身で、反出生を広めてもらえればいいんだよ。それだけで人類は激減して他の生物とつり合いが取れる。皆ハッピーになるんだよ」


 この不可思議な状態で「ハッピー」なんて明るい単語が出てくることに、顔が引き攣る。だが一瞬だけ気持ちがほぐれたのをいいことに、私は首を少しだけ右に捻った。


 すると想定していたよりも遠くに、田中君はポツンと立っていた。とっぷりと日が暮れたのに、なぜだか彼の顔は光り輝くように闇の中に浮かんでいた。真っ白な顔だけがあぜ道に急に現れ、首から下は捉えられない。

 そして彼の笑顔は、清らかな天使のような笑みを浮かべていた。この世の物とは思えない程、慈愛に満ちた微笑みだった。


「……田中君は、一体何なの?」


 ここから逃げるべきだという考えは、変わらない。それでもこれだけは、どうしても聞きたかった。もう私にとって、田中君はただのクラスメイトの領域を凌駕している。


「さぁ。好き勝手に色々言われているから、僕の方こそ君達に聞きたいくらいだよ。でもとにかく、あらゆる幸福を願っているよ」


 ゆったりとした動作で、彼は首を傾げる。彼の周囲の暗闇も一緒に、ぬるりと彼にまとわりつくように見えた。気のせいだと必死に言い聞かすが、田中君自身はなんとも思っていないようだ。

 真っ暗な深淵を従えながら、彼は柔和な顔で再び口を開く。男の子にしては珍しい、真っ赤な唇はよく熟れたリンゴのようだ。


「白鳥さんにここまで話したのは、君の名前が懐かしかったからだよ。僕達と君達が、近かった頃によく耳にした単語」

「私の名前って、美衣夢ってこと?」


 可愛いと褒められることの多い名前で、自分でも気に入っている。それを田中君に言及されるとは、思ってもみなかった。


「そう、ミーム。模倣して、人類の脳から脳に、ある思考が増殖すること。これから僕達がやろうとしていることに、ピッタリだった」


 私の名前にそんな意味があるなんて、聞いたこともない。棒立ちのまま目を丸くすると、彼は少しだけ不満そうに顔を曇らせた。


「ただ、発想が柔軟だろうと子供に混ざってみたけど、あまり馴染めなかった。次は大人でやってみるよ」


 彼に纏わりついている黒の量が、さらに一段と増した。田中君の煌々と輝く顔が、徐々に暗闇の中に飲みこまれていく。不思議なことに、さっきまで感じていた恐怖が、彼が消えそうになるにつれて薄れていく。


「次って……というか、田中君はさっきから何を言っているの?」


 久しぶりに、きちんと喉が仕事をしてくれた。だが薄く微笑むだけで、田中君は私の問いかけにはもう答えなかった。


「ねぇ、君達って、僕達って、誰のこと?」


 悲鳴を上げるように声を張って、足に力を入れる。すると突然、台風のような強い風が私に向かって吹き荒れた。思わずギュッと目をつぶり、手で髪を抑える。

 しばらく経ってからゆっくりと瞼を開くと、田中君はどこにもいなかった。




「突然のことですが、田中君が転校になりました」


 ホームルームで先生が告げた瞬間、教室中にどよめきが走った。ざわざわと皆が喋り出すのを一喝すると、コホンと咳払いをして彼女は再び口を開いた。


「ご両親の都合で、挨拶もできずに残念がっていました。手紙とかメールとか出してあげたら、田中君も喜んでくれるから、連絡先を知りたければ私まで言ってね」


 知りたがるやつなんていないだろ、という声が耳に入ってくる。私もそう思いつつ、先週末に体験した出来事に思いを馳せた。


 あれは一体何だったのだろうか。白昼夢でも見たのかもしれない。

 そう自分に言い聞かせるけれど、間違いなく田中君は忽然と姿を消した。そしてさっき先生が言っていた、急な転校。彼は二度と、私の前に現れることはないのだろう。

 ホームルームが終わっても、ぼんやりと頬杖をついて考えに耽っていると、瑠紀ちゃんがやってきた。彼女は目をキラキラと光らせながら、私にこう尋ねてきた。


「田中君いなくなっちゃったけどさ、最後に会ったのって美衣夢じゃない? 何か言ってた?」


 彼女の声に反応し、周りの席の友達も寄って来た。面白いことが起こったとばかりに、全員が聞き耳を立てている。

 あの現象をそのまま伝えたら、きっと頭がおかしくなったと言われてしまう。

 それは避けたいので、私はへにゃりと笑いながら慎重に言葉を選んだ。


「いや、特に転校のことは言ってなかったよ。人間の在り方とか、そんなことしか喋ってない」

「なーんだ、やっぱりそれかぁ。本当に変な男の子だったよね」


 ため息を吐きながら、瑠紀ちゃんは呆れたように肩をすくめる。私もぎこちなく、頷く。


「でも、別に悪い子ではなかったよね」

「えぇ、そうかな? いるだけでなんか空気がどんよりしてたじゃない?」

「そうだよ、瑠紀の言う通りだよ。いなくなって平和になったって感じ?」

「あー、マジでそれ。ぶっちゃけさぁ、先生もいなくなって助かってるでしょ」

「何が人間は滅亡すべきだった、だよ」


 口々に思いのたけを述べるクラスメイトを見回しながら、咄嗟に思ってしまった。

 醜い。

 自分達を棚に上げて、他者を攻撃する。いつもなら笑って流すことができた、とりとめのない会話の一つだ。それなのに、なぜか今は彼女達が汚らわしく思える。同調したくもないし、関わりたくないという思いが心の底から湧いてくる。田中君の話をずっと聞いていたからだろうか。


 そもそも彼は、彼女達にここまで言われるほどの何か酷いことをしたのだろうか。

 他人を傷つけるようなことを平気でのたまうような彼女達よりも、幸福を望むが故の人類削減の発想は、かなり筋が通っているのではないか。

 だんだんと思考が明瞭になるにつれて、目の前の彼女達の姿がぼやけてくる。全員が、顔のない案山子に見えてくる。

 そうだ。田中君は間違っていない。

 間違えていたのは、今までの私だ。

 頭の中で、火花が弾け飛んだような気分になる。気が付いたら私は、彼女達に対してゆっくりと口を開いていた。


「ねぇ、でもさ」


 視線が集まる。黒い目が、何個も私を射抜いている。だけどそれが何だというのだ。私のこの考えには、関係がない。

 スッと息を吸い、一気に私はこう言った。


「少子化は素晴らしいことかもしれないよ」

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みーむ 大藤晴希 @mentailover

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