もうゲーセンに用はない。
放課後。
帰宅しようと昇降口に向かっていると、背後から相も変わらず忙しない足音がこちらに迫ってきた。
下駄箱に先回りして、靴を履き替える。
イヤホンを鞄から引っ張り出して、片耳だけに差して音楽を再生すると、僕のことを後ろから追ってきたらしいその人物は、肩を激しく上下させながら昇降口に飛び込んできた。
「もう朗河君ってば待ってよ!今日は帰りにゲーセンに寄ろうって、私のことを誘ったのは君の方だよ?」
先に靴を履き替えてしまった僕のことを呼び止めたのは、艶やかな黒髪をゆったりと下ろした清楚で気品のある顔立ちの女子生徒——小鳥遊小鳥で、あったはずのあどけなさは一年という長い歳月の中で面影程度のものになってしまっていた。
肩掛けの鞄を持ち上げ、ため息混じりに答える。
「今日は生徒会の用があったって言ってなかった?小鳥さん」
「大丈夫だよ。そのことは優秀な後輩ちゃんたちに任せてきたから」
「そっか」
納得して、歩き出す。
隣に駆け足で小鳥さんが並んできて、僕たちはまだ夏の気配が微かに残る空の下、肩を並べてバス停に向かった。
定刻通りに到着したバスに乗り込み、最後方の席へ。小鳥さんが窓際に座って、僕はその隣に腰を下ろした。
バスが走り出してしばらく読書に勤しんでいると、不意に肩を突かれた。
見やると、イヤホンを差していたはずの小鳥さんが僕の方を向いている。
「アシカンの新曲、もう聴いた?」
言いながら差し出されたのは、彼女が右耳に差していたはずのイヤホン。
首を横に振ると、ほんのちょっぴり不服そうにしながらも彼女は解けるような笑みを浮かべてイヤホンを差し出してきた。このところの彼女はいつもそうだ。アシカンの新曲が出る度に僕にも当日に聴けと半ば強制してくる。彼女にこのバンドの存在を伝えたのは、僕の唯一の失敗と言えた。
受け取ったイヤホンを耳に差し、流れてきたメロディに僕は浸った。
あの日から一年の歳月が、僕の世界には流れた。
色々なことがあった。
冬には生まれて初めてクリスマスパーティーと称して小鳥さんの自宅に招かれたし、春には彼女と二人でピクニックにも行った。それから彼女と二人で過ごす時間は次第に増えていって、今ではすっかり放課後は毎日のように街に繰り出して遊ぶほどの中になっていた。
僕は、一人ではなくなっていた。
ゲーセンの近くのバス停で降りると、まるで一年前の夏に僕のことを散々振り回した誰かさんのような爽やかな笑顔で、小鳥さんは僕の手を掴んできた。
「早く行こ!時間がもったいないよ!」
駆けだした彼女に連れられて、僕はあのゲーセンに向かった。
ゲームセンターに入ると小鳥さんはさっそく両替機に向かって行って、僕は店内を散策することにする。
一年前と変わり映えしない店内——厳密に言えばクレーンゲームの景品などは入れ替わっているのだろうが、僕はそれに気づけなかった——は相変わらず騒がしくて。けれど、底の深い物足りなさを僕にだけ感じさせた。
二階に上がる。
この一年で変わってしまったものがあるとするならば、二階の格闘ゲームの空間が丸きりなくなってしまったことだろう。
いまでは子供向けの大型コインゲームの筐体が並んでいて、あの夏は成人女性の悲鳴が響き渡っていた空間も、今や子供たちの和気あいあいとした歓声に変わっていた。
これこそがゲームセンターという娯楽施設の本来あるべき姿なのだろう。
思いながら。けれど、フロアのどこかにいないはずの彼女の姿を探しながら。
一階に向かおうとしていると、辺りをきょろきょろ見回す小鳥さんが歩いて来た。手を上げて呼ぶと、すこし不安げだった彼女の表情はいとも簡単に晴れた。
その日は、日が暮れるまでクレーンゲームで遊んだ。
落日が迫り始めるとどちらからともなく店を出て、僕たちは帰路に着く。
「ねぇ、朗河君。この前の返事、聞きたいんだけど……だめかな」
歩いていると背後からそんな問いが飛ばされてきた。
彼女は質問を曖昧にぼかしているが、合点がいった。
つい先日の花火大会の日。僕は一日、小鳥さんと二人で居た。勿論友人としてだ。他意はない。
けれど、花火が打ち上がり始めると感情が高ぶってしまったのか、それとも焦燥に駆られてしまったのか。
小鳥さんは、僕に想いを告白した。
友人としてではなく、恋人として付き合ってほしいと。
僕はまだ彼女の告白に、何の返事も返していなかった。
普段は生徒会の仕事に追われているはずの彼女が今日ここにいるのも、考えればあの日の答えを聞きたかったのかもしれない。
だとすれば悪いことをしてしまっているな。
ほんの微かな自己嫌悪が胸を掻き、僕は帰りのバスを待つなか。傍らの彼女を、横目に見やった。
逡巡して。思考して。もう何十回も悩んできた答えを、心の奥から絞り出すようにゆっくりと口を開いた。
「ごめん。小鳥さんとは友達のままで居たい。告白してくれたことは嬉しかったし、その勇気はすごいと思ってる。……それは、一年前の僕にはなかったから」
「……そっか。ありがとう。本当の気持ち、教えてくれて」
帰りのバスの中。
彼女は、イヤホンで耳を塞いだ僕には悟られまいと、景品のぬいぐるみに顔をうずめて静かにすすり泣いていた。
―――
一人でいるのが好きだった。他人と関わる必要がないから。
一人でいても娯楽には事欠かない。
ゲームに漫画、本にアニメ、映画も、ドラマもある。
どれもこれも他人と関わりも持たずとも、一人で存分に楽しむことが出来る。けれど、
「朗河君!昨日の最終回見た!?トウテイテイオーちゃん!かっこよかったよね!」
「うん。見たよ。昨日はリアタイしてた」
「最後感動して泣いちゃって、画面が見れなかったよぉ……」
こうして、誰かと物事を共有してみるのも、存外悪くなかったりする。
一年前までの僕の世界は、とても小さくて、そして狭かった。
他人と関わるのがきっと怖かったのだと、今ではそう思っている。
他人と関わることで、この心が傷つくことが。
他人と関わることで、一人の時間が失われることが。
他人と関わることで、自分が『独り』であることを自覚してしまうことが、僕はこの上なく怖かったのだと思う。
他人を突き放すことは簡単だ。
はじめから何の期待もせず、拒絶を示せばいいのだから。
例えば、見た目が好みではないとか。口調が気に入らないだとか。趣味が合わないからだとか。並べればきっと、きりがない。
けれど、それと同じほどに。
人はきっと、些細なきっかけひとつで、関わり合うことができるはずだ。
例えば、同じバンドが好きだとか。同じゲームが好きだとか。同じ飲み物が好きだとか。通っているゲームセンターが同じだとか。並べればきっと、無限にあるだろう。
だからこそ、いまこの瞬間を。
誰かと共に過ごすこの時間を、僕はかけがえのないものだと思いたい。
この時間を守るように。
この思い出が褪せぬように。
僕は、人と関わる時間のひとつひとつを、大切に生きていきたいと思う——。
夏の終わりに、あのゲームセンターは閉店してしまった。
もう訪れることはないであろうその場所に思いを馳せながら。
僕は独り、ゲームセンターの前を通りかかった。
からころ、と。
サイダーの空き缶がひとつ、足下に転がってきた。
拾い上げて、転がってきた方に視線を向ける。
「ねぇ、そこの君──」
これからその口は、またろくでもないことを言い出すのだろうな。
そんな予感と共に。
僕は、彼女の屈託のない笑顔を見つめて、零れそうなる涙を誤魔化すように笑ってやった。
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