黒い闘魚とジュブナイル。

 ひぐらしの鳴く大禍時おおまかどき

 彼女との待ち合わせ場所は、いつものゲームセンターだった。


 腕時計を見やって、時間を確認する。待ち合わせの時刻は既に過ぎ去って久しい。

 花火大会の会場からそう遠くないゲームセンターの前の通りも、だんだんと人気が多くなりつつあった。


「——葛谷君」


 人の流れの隙間から。不意に声が向けられた。

 耳を塞いでいたイヤホンを取り、携帯の液晶に向けていた視線を持ち上げる。

 そこに立っていたのは、


「小鳥遊さん。東雲さんまで……」


 浴衣に身を包んだ小鳥遊さんと東雲さんの姿があった。

 歩道を埋め尽くす人混みの中から無理矢理抜け出してきたのだろう。小鳥遊さんの浴衣は形が崩れていて、それを東雲さんが整えていた。

 視線が合い、東雲さんはばつが悪そうに口を開く。


「ごめんね。一応止めたんだけどさ……」

「あのっ……」


 俯き加減に小鳥遊さんが声を放った。

 彼女がどんな表情をしているのかは、薄闇のせいで把握出来ない。

 けれど次いで放たれた声で、彼女の胸中の想いはいとも簡単に理解できた。


「やっぱり、私じゃだめですか……?」

「ちょっと小鳥……!あんた昨日は納得してたでしょ……!」


 昨日。

 ゲームセンターで小鳥遊さんから受けた誘いを、僕は断った。

 花火大会に行く気がなかったとか。小鳥遊さんと行くのが嫌だったとか。

 そんな理由ではない。

 もっと我が儘で自己中心的なものが、僕に彼女の誘いを断らせていた。

 それを彼女に伝えたつもりはない。伝える気だって甚だ有りはしない。

 だのに、小鳥遊さんは僕が何故昨日の誘いを断ったのかを言い当てた。


「黒井さんを待ってるんですよね。葛谷君は」

「うん。そうだよ」


 隠す必要はないと思ったし、隠し通すこと自体が難しいと判断して即答した。

 躊躇いひとつなかった僕の返答に、小鳥遊さんは俯いていた顔を初めて持ち上げた。見開かれた目尻には、涙が浮かんでいた。

 返答を噛み砕いて、反芻して。やっと飲み込めるだけのものにしてから、彼女は閉ざしていた唇を動かした。


「そっか。じゃあ、楽しんでね。行こっか、春ちゃん」

「うん……ちょ、小鳥!?手、痛いんだけど……!」


 東雲さんの手を引きながら、小鳥遊さんは人の流れに戻っていった。

 二人の背中を見送って、またイヤホンで耳を塞ぐ。

 メッセージアプリを開いて、黒子さんに送ったメッセージが未だに既読にすらなっていないことを確認する。

 日頃から連絡がそれほどマメではないことは知っていたが、ここまで連絡が一切つかったことはこれまでにない。

 余程身支度に手間取っているのか。あるいはこの混雑に巻き込まれてしまっているのか。理由はどうあれ、こうも遅いと何かあったのかと不安を禁じ得ない。

 催促のメッセージを送ろうと打ち込んだが、送ることなく削除する。

 通話ボタンをタップして、彼女の番号に発信した。

 二、三コール……。と不安を煽るようにコールが重なる。

 四、五……六コールが目が鳴り止む直前に、発信音は中断された。


『もしもし?ロウガ君?どうしたの?』


 平坦な調子の黒子さんの声がした。

 その背後からは、何故か祭囃子と雑多の喧騒が聞こえてくる。


「どうしたのって……待ち合わせしましたよね?」


 少し腹が立っていて、放った声は鋭く低かった。

 彼女が自由奔放なことは重々承知しているつもりだったが、今回はいくら何でもひど過ぎる。待ち合わせまでして、普段は着ない甚平だって着てきたのだ。気持ちを無下にされた気がして、無性に腹立たしかった。

 苛立った声音を聞いて、黒子さんは暫時沈黙していた。

 彼女の声が聞こえなくなる。喧騒が浮かび上がって、彼女の存在が感じられなくなる。

 

「……黒子さん?」


 こわくなった。

 独り取り残された気がして、気が付くと彼女の名前を呼んでいた。


『ごめんね。待ち合わせてたのは分かってたんだ。少し野暮用があって、先に来てた。こっちで合流しようよ。待ってるから』


 深い後悔の込められた声に、小言を返す気にはなれなかった。

 彼女にも彼女なりの事情があったのだと思う。

 そう割り切って怒りを飲み込む。喉につっかえながらも無理やり飲み込んだ感情は、胃に落ちると強烈な違和感を抱かせた。

 けれど、切り替えなければいかない。

 意思を強く持って、彼女の声に返答する。


「待っててください。すぐに行きますから」


 ―――


 それから程なくして、花火大会の会場に到着した。

 祭囃子が愉快に響き、屋台の香ばしい香りが鼻腔をくすぐる。老若男女が入り乱れて出来上がった人混みの中から、たった一人の人物を探すには随分な苦労を強いられることだろう。

 考えるだけで気が滅入る。

 億劫な眼差しのまま辺りを見回した。右に、左に。視線は右往左往する。

 やがて人混みの表面が何度か入れ替わった時。

 屋台の並んだ通りの真ん中を、こちらに向けて歩いてくる人影があった。

 黒子さんだ。

 人混みの中。手を上げ、彼女の名前を呼ぶ。


「黒子さ……」


 どうしてか。

 声が出せなくなった。


 なぜ。

 疑問を脳で処理しようとしてしかし、僕はそれを諦めた。

 考えなくても理解出来たからだ。今の自分が、何を思っているのかを。


 僕はこの時、生まれて初めて、誰かの美貌に見惚れていた。


 人並みを掻き分けることなく通りの中央を独り優雅に歩く様は、さながら満月の尾を揺らして泳ぐ熱帯魚のようだった。となれば、屋台の灯りは灯篭で、行き交う人並みは彼女の美貌を際立たせる為の端役だ。

 深い黒地の中を金魚が泳ぐ、長い袂が優美に揺れる浴衣。いつもは下ろしているだけの黒髪も後ろで結いて。花飾りと一体化した黒いヘッドドレスが妖艶で。

 一歩歩く度、辺りの視線は彼女のものになっていった。


 僕はどれくらい、彼女の姿に言葉を失ってしまっていたのだろう。


「ごめんね。勝手なことして。……聞いてる?ロウガ君?」

「えっ、あっ……はい」


 直接その姿を視界に入れることすらままならなくなって、僕は思わず彼女から視線を逸らした。顔も伏せて、耳まで赤くなっていることを悟られないように努める。

 怪訝な声と共に黒子さんの甘い香りが、鼻腔を刺激した。


「どうしたの?」


 彼女が僕の顔を覗き込んでくる。

 視界の端で、深紅の口紅が引かれた唇だけが卑しく動く。

 なんでもない。

 声にしたはずなのに、言葉は声にはなってくれない。

 屋台で泳いでいる金魚のように、口をぱくぱくさせただけの僕に、彼女は更に疑念を大きくしていた。


「本当にどうしたの?なんか様子おかしいよ?」

「なんでも、ないです」

「そっか。じゃ、行こっか」


 言った黒子さんの手が、僕の前に差し出された。

 脳処理がまるで追いつかない。

 意図を何一つ汲み取れないまま黒子さんに視線を返すと、彼女は明後日の方向を見やっていた。

 ほんのり、その顔を赤くしながら。


「さっきから妙に声かけられるから。手、繋いでて」

「……はい」


 断ってはいけない気がした。

 差し出された白くすらりと長い指に、恐る恐る手を重ねた。

 重なった手を握り締めたのは彼女で。ぎゅっと固く握られた手は、僕のことを離してくれそうにはなくて。

 ほんのすこし気恥ずかしさとの葛藤の果て。

 僕も、彼女の手を握り返した。


 花火の打ち上げ時刻になるまで、屋台を散策して回ることになった。

 わたあめを頬張って、りんご飴を咥えて、口直しにたこ焼きを分けあった。

 金魚をすくって、射的でまたぬいぐるみを取って。


 知らぬ間に、手を繋ぐのは当たり前になっていて。


 楽しかった。

 もっとこの時間が続けばいいのに。

 もっと彼女と居られたらいいのに。

 気が付くと、僕はそう思うようになっていた。


 設営されていた野外ステージの最後の演目が始まると、花火の打ち上げに向けて一斉に人の流れは切り替わった。

 花火をすこしでも綺麗な場所で見たい、と皆口々に言いながら河川敷や街を横断する橋に向かって歩き始める。

 僕と黒子さんは人気の少ない場所を求めて人の流れに逆らいながら、会場からは離れた場所を目指して歩くことにした。いつものゲームセンターの向かいにある運動公園なら距離も程よく人気もないだろうと言う彼女に、僕は何の反論もしなかった。

 公園に向かう道中だった。

 コンビニの前に屯する数人の若者を見やって突然。黒子さんが歩くのを止めた。


「黒子さん……?」


 問いかけると、彼女は顔を伏せている。目も合わせてくれない。

 理解が追い付かないまま僕が困惑しているのを他所に、黒子さんは僕の手を引いて通ってきた道を引き返そうとした。


「黒子さん!?なんで……っ」

「ばかっ!……なまえは——」


 その場を立ち去ろうとする彼女を制止しようとして声を上げると、彼女がらしくない悲鳴のような声を上げた。

 何かまずいことをしてしまったのだと、向けられる視線で直感した。

 だが、それはもう手遅れだった。


「もしかして、黒井?」


 声がした方には、一人の若者が立っていた。仕事帰りに仲間と集まっていたのだろう。襟の緩んだスーツ姿すら似合う高長身な男だった。

 声を掛けられて、しかし黒子さんは沈黙を貫いている。

 男は再三彼女に訊ねた。


「黒井だよね。君。久しぶり。大学以来じゃん」

「……っ」

「反応悪いなぁ。その子供はだれ?弟?」

「人違いです。……行こ」


 彼女が吐き捨てるように答えた。

 けれど、それが男にとっては宣戦布告と同義の意味を持った言葉で、彼の内にある疑惑を確信に変えさせるものだったのだろう。

 踵を返して立ち去ろうとする彼女の手を、男が掴んだ。


「待てよ。黒井だろ。やっぱり。会いたかったんだよ。大学卒業するなり連絡取れなくなるからさ」

「……もう関係ないでしょ。私の人生に入ってこないで」

「あ?」


 男は豹変した。

 はじめは物腰柔らかな印象を受けた真っ当な大人に見えたはずなのに、気が付くと学校でよく見るクラスの奴らと同じ目を男はしていた。

 男の腕を払って、黒子さんが言う。


「勝手に付き合ってたって勘違いしてストーカーみたいなことまでして。そんな人間と金輪際関わる気はないって、私言ったよね」


 黒子さんが憤慨していた。

 初めてみる彼女の鋭い視線に、僕も男も一瞬呼吸を忘れていた。

 だが、男は乾いた笑みを浮かべるとまた彼女の手を掴んだ。


「あの時先に俺の手を握ってきたのはお前だったろ……?お前が俺を誘ったから、俺もそうしなくちゃって思ったんだ。それに、お前は俺からは逃げられない。知ってるんだよ。お前のことは全部」


 この男に関わってはいけない。

 悪寒がして、黒子さんの手を引いた。

 彼女も逃げようと踏み出したが、男は僕と黒子さんの間に割って入ってきて、彼女の肩を何の了解もなしに抱いた。


「なんで逃げるんだよ。お前がどうしてほしいのか、どこがいいのか。この世で一番それを知ってるのは俺だけなんだぞ?俺なら、そこらへんの男よりもお前を満足させてやれるのに」

「——斎藤……なんでそれを」

「言ったろ?全部知ってるって。お前がいつ仕事に行かなくなったのかも、このガキといつから会うようになったのかも。自分より弱い奴を嬲るのは、キモチいいよな……」


 斎藤。黒子さんが言ったそれがこの男の名前なのだろうが、どうでもよかった。

 男の肩を掴んで、吐き捨てる。


「おい。その人から手を離せ。嫌がってるだろ」

「……」

「離せよッ——」


 瞬間、視界に男の握り拳が飛び込んできた。


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