金木犀とけむり

笹十三詩情

金木犀とけむり


 俺は何のための生きているのか。そもそも生きているとは何か。考えている。いや、俺とはいったいなんなのか。何とはなにか。生きているとはなんなのか。そもそもなんてなぜ言っちまうのか。生きているとは何かとはなにか。考えているとは何を考えていることを指すのか。それらの思考から始まり、またさらに、それらとは何を指すのかだとか、思考とは何なのかだとか、始まるという言葉の根源的意味はなんなのかだとかいうことを思っていた。 

 世界を変えようとして、変わらないのは分かっている。世界は知ろうとしても全ての、万象が、分かるはずもない。ならば俺は俺を解き明かし、俺以外との境を知ろうと試み、ているような、気がする。大学のトイレに引きこもり、一時間かけて手首を血まみれにしながら考えている。白い便器と透明だった水は、赤黒く染まっていた。だがそれがどうした。俺が手首を切れば世界は何か変わるのか。この際世界など変わらなくてもいい。俺の認識する「世界」が変わって欲しいとも思わない。いや、思わないわけではない。確かに、確かに、思わないこともないのだ。

 しかし、変わらないことはとうに分かっているのだ。ならば俺はなぜ手首なんか切っちまうのか。それすら分からない。分からないが、生きていることを考えるほどに、死についての考えが思考の中で暴れまわる。死について考えるほどに、生についての考えが思考の中を暴れまわる。全てが分からない。不可解である。そう言ってしまうのはあまりにも暴力的で野蛮極まる発想だが、それも含めて訳が分からねえ俺には、全てが分からないから全てが分からない、という一文に帰結してしまう。

 そのためなのか、いやそのため、ということを否定できない俺は、死にたいのか、生きたいのか、分からない。それが全てではないが、明らかに、そうした一切の不可解さが一因となって、訳がわからなくなってくる。死生についてだけではなく、分からないことそれ自体も含めて地獄。地獄。死生に関して言うならば、息をすることも地獄で、自殺する恐怖の地獄もある。そもそも、生と死、死と生、について考えていること自体が地獄。地獄などという言葉では形容できない。絶望などという言葉では形容できない。この地獄が言語化できれば、うつ病などというものはもう少しましな治療がなされるのだろうからな。いや、本当にそうか。そうなのか。そんな単純な話ではないのだ。だが話を難しくしたとて、答えが出る筈も無い。

 そこまで考えて、俺はなぜ生と死などというものについて考えているのか、分からなくなる。ただ、なんとなく、世界なんていうぼんやりとした幻想が、怖いのだ。いや、怖いのではない。世界という幻想への憎しみ、敵意、殺意。ひいては俺という現象への憎しみ、敵意、殺意。いや、俺というものは果たして現象なのか。なにかの幻影ではないのか。俺というもの自体が幻想ではないのか。だがこの際そんなことはもうどうでもいい。ただ、この世の認識されるもの、形而上のもの全てが憎悪の対象であり、畏怖の対象でもあるのだ。

 そうしてそういうものの末に、「ぼんやりとした不安」が俺の認識世界全てにとって代わり、恐怖によって世界が再構築されるのだ。

 そんなことを考えるが、それでも俺のこの異常な精神は「ぼんやり」していて、何を持ってしても表せず、手首切っちまうことしかできない。しかも悪いことに、血と痛みは不幸という恍惚を含有している。「しかも悪いことに世界を花のように信じている」と言ったのはどの詩人だったか。俺は悪いことに、悲劇を花のように信じている。

 トイレのちり紙で傷口を過剰に巻いて、血を止める。まくっていたシャツの長袖を元に戻し、個室を出る。次の講義まで十分もないが、ヤニを吸わなけりゃ体が震えてくるから喫煙所へ向かう。

 喫煙所で、空なんて見上げても仕方がないと思いつつ、することも無いから空なんぞを見上げながら、ぼんやりと煙をふかす。ふかしていると、「あれ? こんにちは」と声をかけられる。少し前から俺が勝手に音信不通にしていた後輩だった。

「お久しぶりです」

 彼女は弱々しく笑う。

「久しぶり」

 俺も同じように力なく笑うしかできなかった。彼女は俺の隣に座り、俺達は生垣の金木犀の花の香りをかぎながら、たばこをふかす。

「ごめん。手首切って自殺一歩手前みたいな状態で、連絡できなかった」

 俺はそう言って謝ると、彼女はまた力なさげに笑って、「私も」と袖をめくって手首の傷を見せてきた。「死にたいね」と言うと「死にたいね」と返ってくる。そんなやりとりが、どちらからともなくなされた。

「理由なんて分からないですけど、何となく死にたいですよね」

 そう言って笑った彼女の顔が、なぜか、とてつもなくいとしくてたまらなかった。

「付き合おうよ」

 そう言えればよかったかもしれない。いや、「一緒に死のうよ」と言いたかったという方が正確かもしれない。だが、俺は、理由なんて分からないが、何も言えなかった。

「死にたいよな」

 チャイムが鳴った後、不毛だと分かっていながらそんなやりとりを何度か繰り返した。恐らく、「付き合おうよ」でも「一緒に死のうよ」でもない言葉が正解であり、俺の無意識はそれに気付いていたのかもしれない。ならば何を言うべきなのか。分からなかった。そもそも俺は全てが分からないから全てが分からないのだからな。分からないことすら分からないことすら分からないことすら、というのを繰り返し、また余計に分からないを繰り返した分だけ分からなくなっていくような俺には、やはり正しい選択などできないのだ。

「また連絡下さいね」

「ああ」

 そうして、引き留めたくもあり、しかし全てが分からないゆえに引き留める気力もない俺の隣から、彼女は去って行った。彼女のためなら、あの弱々しい、いとしい笑顔のためなら死んでもいいと、俺は思ってメールを送ったが、その返事が返ってくることは、無かった。   

 金木犀が咲く頃になると、俺はいつもそのことを思い出す。

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金木犀とけむり 笹十三詩情 @satomi-shijo

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