少年は、必ず来る明日を望む

@puroa

其処に在るもの

 少年は昼の街を、吐き気のするほど猛烈な勢いで走っていた。


 街並みは普段どおりの日常。夏休みを目前にしたこの時期は放課後が少し早く、じりじりと肌を焼く熱気と浮かれた学生の足取りに焦らされる。

 そこかしこから聞こえてくる蝉の声が自分を揶揄っているように聞こえてくる。この時期だけは深夜の冷蔵庫の陰に潜むアイツより、こっちの方が絶滅すればいいのにと切に願った。


 視界が金色に輝き人の輪郭がブレ始めるころ、ようやく目的の喫茶店が目に入る。レトロな門構えの中心にあるシックな扉。その中心にあるノブを飛びつくように捻って扉を開け放つと、中から冷房の空気に晒される。

 助かった。

 血が沸騰しそうな熱中症に晒されていた少年が、頭を押さえて額の汗をグッとこしとりながら、奥へと進む。


 ごく普通の喫茶店。街の喧騒から一歩引いた落ち着いた雰囲気の店内は、いきなり駆け込むように入ってきたものだから、むしろ少年の方が浮いている。


 『一名様ですか』 と聞いてくるウェイトレスに 『待ち合わせですよ、お姉さん』 と息を整える。いくらか昭和な空気感が見て取れる、キザな態度。

 うまく格好つけたつもりだったが、彼女の笑顔が大分引きつっていたのに気づいて少年は肩を落とした。喫茶店の時間は、十六時二十八分を指す。


 そのまま店の奥に歩いていると、陽光の掛かる窓際の席に座った、一人の少女が待っていた。待ち合わせをしていた彼女の雰囲気は想像よりも重く冷たい。


「あら、ナンパは終わったの」


 鉛のハンマーを振り下ろすような視線を浴びせながら、少女は恋人である少年にその言葉を掛けた。普通の男なら委縮してしまいそうな雰囲気。

 だが少年は気にすることなく向かいの席に座り、小鼻を膨らませる、何故か渾身のドヤ顔である。


「そんなのしてないよ。俺の彼女は小春、この世でただ一人しかいない……」

「みたいだね。騒がしく入ってきて汗だくで、みっともなかった」


 小春と呼ばれた少女は、ツンとそっぽを向き真面に答えようとしていない。どうやら自分の彼氏が他の女に鼻の下を伸ばしたのが気に入らなかったようだ。

 自分以外の女に気をやらないでほしい乙女心に、彼氏である少年は深く反省しお詫び申し上げる。


 でもよかったと一度口籠ってから、安心したような笑みを浮かべた。その笑いに籠目られているのは優しさである。


「俺のこと忘れたかと思った」

「忘れてたよ。一瞬ね」


 少女はおもむろに鞄をガサゴソと弄る。取り出したスマホ、本来飾り気のないそれに取り付けたケースの隙間には、小さなメモが入っていた。

 本来は電車の定期などを入れる場所であるが構う必要はない。それをそこに捻じ込んだのは少年自身であるのだから。


 メモを取り出し嬉しそうに笑う少女に、少年は過去に思いを馳せた。


 半年前の雪の降る日、鮮血に赤く染まった銀雪。

 道路の真ん中で倒れた愛する人と、道の果てに向かって伸びる、灼け付くようなタイヤの痕跡。記憶の水底に途方もない白泡とともに沈めた筈の記憶は事あるごとに浮かび上がってくる。

 少女の幸せに満ちた笑顔もまた、多くある前触れ。その一つである。


「これのお陰で迷わないで済んだよ! 頼りになる人がいてくれたから、あ~喉乾いたな、どこかお店入ろうってね」


 少女はそう言って、少年にメモを見せつけてくる。最初から内容を知っている少年は、軽く苦笑いしながら読んだふりをする。


『困ったら、俺か親に連絡すること!』


 相変わらずキザな書き方だが、見ていると途端に恥ずかしくなってくる。『ここに入れたから、忘れそうになったらちゃんと見るんだよ!』 としつこいくらいに説明した事は、もう覚えていないらしい。


「俺は未来が分かるんだ」

「俊斗はすぐ、そうやって茶化して」


 少年の口から、ははっ……と気のない笑い声が漏れた。そんな俊斗の、とくに何の感情も意味も持たないカッスカスの笑いはすぐに空気に溶けて消えてしまうはずだったが、流石に目の前の小春には伝わったらしい。


「んと、ありがと」


 そう小さく礼を言った。たしかにありがたいと思っている筈であるが、俊斗が俯いてしまったのを見て、本当に伝わっているのか不安になる。

 それはそれで、女らしさを言い訳にした身勝手であることは承知している。最近は何度お礼を言ったのか、彼女自身思い出せないのに。


「……別に。そんな暇あるなら自分の事しとけよ。連絡あったらすぐ来るし」

「そうじゃなくてね」


 それでも彼女は伝えたかった。


「私が車に轢かれてからずっと、今日まで面倒見てくれてありがとう。ホントならあの日に別れてくれても不思議じゃなかったのに」


 結城小春は半年前に交通事故に遭って以来、一日しか記憶を保てない。


 ある時間を過ぎれば記憶を失ってしまう彼女には、少年の未来を視えるという小ボケさえ、本当かどうか分からない。




 ***




「もっと早く買っておけばよかったな、メモ帳」


 そう言って小春は小さく笑う。

 喫茶店で俊斗とお茶を飲み、その後の買い物を終えた頃には、辺りは暗くなりはじめていた。


 夕焼けも過ぎ去り藍色が広がる空、此処から一気に暗くなるころだが、百円均一の袋をもった彼女の隣には帰宅ラッシュを迎えた車がビュンビュン通っているのでそうは感じない。当然、植木を挟んだ向こうではあるが。


「……スマホのメモ帳じゃダメだったの?」

「こういうのは、形が残る方がいいの! そもそも記憶ないのにパスワードが意味あると思う?」


 小春の手に持った袋がガサガサと揺れる。今だとちょっと珍しくなった薄っぺらいナイロンは、夕焼けが過ぎ去った街の中では陰に黒く塗りつぶされる。

 風が吹けば飛んでいく薄地に、今日買ってきたメモ帳がなかに入り重しとなる。リングで繋がれているものではなく、糊で纏められた捲れるヤツ。


 不意に、とある小道が目に入った。


 道脇にある上り坂。坂と言っても舗装もされていない上り坂であり、二人の歩く表通りからは一歩引いたところから始まっている。

 普段から歩く通学路。だが小春にとっては昨日までの記憶がない分、ほんの少し目新しく見えたのだ。

 俊斗なら知っているだろうか。


「そういえばこの道ってなんなんだろうね。」

「あー。お前記憶喪失だもんな」

「ずっと暮らしてても、普段使わない道ってあるじゃん」


 ケラケラと笑っている。こういうところは本当に嫌いだ。

 しかし同時に、少し違和感も抱かせた。彼女ら二人は恋人同士にして幼馴染。だから、互いのことは何でも知っている。記憶喪失になっても、生まれてからの全てを失ったわけではないから。

 だから分かる。疑問を投げかけた俊斗がお茶らける時、微かに言い淀んだこと。

 そもそも俊斗はあまりふざける方ではない。たしかに、いつもは馬鹿で格好ツケで、人として大切なものが欠けていると思わせるときも在るには在る。

 だが、疑問を聞いたときには基本的に答えてくれる。知らないなら知らんというし、手にスマホを持っていたら何も言わなくても調べてくれる。彼はそういう男だ。

 だから彼の様子が、非常に不審に思えたのである。


「関係ないよ。この先へは絶対行くな」

「へ? どうして」


 念を押す俊斗に違和感を覚えて聞き返す。だが答えが戻って来ることはない。力関係が小春に偏っている二人の関係において、彼が口を噤むことは稀だ。それこそ、小春の機嫌が本当に悪い時か、喧嘩した日しかない。

 そのままそっぽを向いてしまう。子どものような仕草。


「気になるじゃん」


 そんな俊斗をあやすように言った。なおも前を向いて視線を合わせようとしない彼氏を、肩で軽くどつく。風船の空気が抜けるように、長いため息を吐いた。


「名スポットなんだよ……自殺の。この先に今は使われてない橋があって、そこから何度もそういう人が飛び降りてるから。だから、行くなよ」


 なるほどそういうことか、と小春は彼氏の気遣いに納得して頷いた。

 記憶が一日ごとに消えるというのであれば、小春自身にかかる負担はきっと、計り知れないものだろう。記憶喪失で色々心配や迷惑をかけてしまっている以上、小春にその判断をどうこう言う権利はない。

 というか普通に嬉しくなって、彼女は自分の頬に手で押さえる。道の入り口に掛けてあるチェーンが外れていた。


「……ひょっとして私、前にも同じ質問したことある?」

「ある。こんなちっさい時にな」


 そう言って俊斗は、手の平を下に向ける。当時の背の高さを想像で示すその高さは、おおよそ彼の腰ちょっと上くらいしかない。

 思ったより前の出来事を掘り返されて、小春は前につんのめりそうになる。そんな時期のことは、記憶喪失関係なしに覚えていない。


 こいつ私のこと好きすぎでしょ。そう思って、手で押さえこんだはずの顔がまた熱くなってくる。夏なのにこんな思いをさせられるなんて思わないじゃないか。


「そんなに気にすんなって。忘れっぽさなら俺だって負けてない。なにせ昨日授業で何やったか、既に覚えてないんだからな」

「それは忘れっぽいんじゃなくて話聞いてないだけじゃ」

「お? 何だお前やんのか? 通知簿の二と一の数で俺が負けると思ってんのか。誰が補習の授業を盛り上げてると思ってる」


 馬鹿みたいなことを喋りながら、家への帰路を二人で歩く。

 通り過ぎた街並みにはやがて暗夜が忍び寄り、街頭に明かりが灯る。その陰でどんどん暗く、暗くなっていく、奥の細い坂道。




 ***




「またな。おばさんにも宜しく」

「ん。じゃあまた」


 家の前まで送ってもらった小春は俊斗と幼馴染特有の短いあいさつを交わして、そのまま自宅の門扉を開く。

 仮にも彼女との別れ。玄関を開けて中に入り扉を閉じるまで見守ってやくれないかと期待したが、あいにく奴にそんな乙女心が分かる筈なかった。後ろを振り向くと彼氏の後姿が見えて、男の軽薄さに嗚呼と天を仰ぐ。

 太陽が沈んだ後だと分かりづらいが、今日は月明かりが出ている。在っても無くても変わらない弱々しい光は、今はただ鬱陶しいだけだ。


「ただいま」

「お帰りなさい……えっと、その……」


 心配性でオドオドしている母の風貌は勝気な娘と似ても似つかない。優しさも無くもないのだが、じっとりとした睨むような鋭さを帯びた目線ではそんな感情も鳴りを潜める。

 小春は、俊斗には見せることのない視線を母に浴びせていた。


(なるほど。これが、俊斗の言ってたそれかぁ)


 帰り道の途中、小春は自身の母についての忠告を受けていた。

 彼氏だが幼馴染としていつも一緒にいた俊斗の存在は、母も当然認知していた。それは良いのであるが、小春が考えているのは、小春が事故に遭い記憶喪失を患ってから、関係を強めたこと。帰り道の最中にも、小春は俊斗から伝えられていた。

 心配性の母親が記憶喪失の娘を心配して、居たたまれなくなっているということ。小春からの記憶が消えそうという連絡も、その都度母親にも伝えるよう指令が下っているのだとか。

 小春は母に見えないよう、小さくため息を吐いた。

 心配をかけてしまうのは申し訳ないが、二人の時間にまで口を出してくるのは娘としてどうしても嫌悪感が出てしまう。


「大丈夫だよ。途中で時間が来たけど、俊斗に連絡送って来てもらったから。メモ帳も買ってきたし」

「そうよね。良かった……な、何か食べたいものとかある? 好きなモノ用意するわ」


 キッチンからはぐつぐつと何か煮立つような音と匂いが漂ってきており、もうすぐ出来そうな様子である。それなのに用意するとはどういうことかと、小春は眉を顰める。折角用意した料理を一から作り直すとでもいうつもりか。


「もう、あんまり気を遣うのやめて。私だって事故までの記憶は全部覚えてるから大丈夫だよ! 干渉してこないで!」


 母親の態度に小春は声を上げる。

 べたべた絡みつくようで気持ちが悪い。心配性だなんて、ただの免罪符ではないか。この女は娘を心配するふりをし、ただ自己満足に浸りたいだけなのである――そう自分に思い込ませながら、リビングを飛び出していた。


 母が何か言いたげな顔をしていたが、これ以上話をする気分じゃない。


 二階に上がって自分の扉を開け、背中で押し込むように閉める。夜になり闇に沈む自室は熱気に満ちている。

 嘘のように整頓された部屋。帰ってきてこの綺麗さは、本来であれば心が安らぐものだろう。だが今は、これも自分が学校に行っている間に母が入り、勝手に整理したのだろうかと疑ってしまう。せめて朝の様子が分かれば疑わずに済むのだが、朝の記憶がない小春にはそれさえ分からない。


 子が親に縋るように膝を突き、ベッドに頬を押し当てる。陽が沈んだ後のシーツは、部屋に満ちる熱気の中でも微かに冷たい。だがそれでも小春の冷えた頬には温く感じた。

 小春の視界が歪み、目元がキリキリと痛む。


「俊斗……」


 俊斗は昨日の授業を何したか覚えていないと言っていたが。小春に至っては、今日の授業さえ何か憶えていない。

 今はまだ 『記憶』 と 『知識』 は違うから。今日やったことは忘れても、授業で身に着けた知識は覚えていると言っているが、現実としてそんな夢のようなことは起こり得ない。その日の夕方にはきれいさっぱり忘れている。

 現実の記憶喪失に、ドラマのようなことは起こらない。

 もう幾らか月曜が過ぎれば期末テストが迫っている。今の小春の頭では、どんなに勉強しても高得点は取れない。


 もしずっとこのままだったら。一生俊斗に面倒を押し付けて生きていくのか。親に守られながらこれからもずっと。


「会いたいよ」


 そんなことが敵わないことが分かっていても。アイツの隣に相応しくないと分かっていても。どうしようもない思いからとにかく逃げたくて、小春は目を閉じることしか出来なかった。




 ***




「ん……」


 居心地の悪い微睡とともに小春は目を開けた。時計を見ると小一時間ほど経っており、どうやら少しだけ眠ってしまっていたようだと理解する。

 部屋の中が蒸し暑い。思えば今日の分の記憶喪失を経て家に帰ってきたばかりであるから、服装は学校の制服そのまま。ブラウスが浮いた汗でべっとりと張り付いて気味が悪い。


「うへぇ。こんなの着てられないし着替えようかな……そのついでにお風呂入っちゃうか。もう、まだ晩御飯できてないの?」


 肌の心地悪さに着替えの用意を考えて、風呂に入れば良いという妙案を思いつく。それに付随して夕飯を食べていなかったことを思い出して、先ほど台所で嗅いだいい臭いを思い出す。

 まだ出来ていないのか、喧嘩になって気まずいから呼んでくれないのか。いずれにせよ少し遅すぎないかと、夕飯を作ってくれている母に畑違いなため息を吐く。


 仕方ないから階下に降りて母に夕飯がいつ出来るか質問して、遅いようであれば先にお風呂を沸かしてしまおうと結論付ける。


 どちらのパターンに進んでも、少しの間は汗ばんだ服のままで居る事になるが仕方ない。エアコンも掛けずに眠ってしまった小春が悪い。眠った原因が彼氏の写真に見とれて寝落ちだというのも、中々に情けない話である。


「しょうがないじゃん。自分のスマホでも全部目新しく見えるんだもん」


 誰に聞かせるわけでもない言い訳をぶつぶつ呟きながらスマホを手に取る。

 開いて、何度か画面をスクロールする。部屋中を包む暗がりのなかをブルーライトで照らされ、うんうんと確認するように頷く。

 大丈夫、見覚えはある。

 眠る前の心の奥底にぼんやりと残る記憶の残骸を呼び覚まして、記憶があることを確認する。ふと怖くなったのだ。記憶は無いが恐怖心がある以上、もしかしてこの行動を眠る度にやっているのだろうか。

 同じ行動を繰り返す様はなんだか認知症の老人みたいで、小春は苦笑した。


 笑って、妙な写真が紛れている事に気付く。


「あれ?」


 小春が笑顔を曇らせたのは、俊斗と小春のツーショット。スマホの画面いっぱいに写った二人の表情は幸せで溢れている。場所は恐らく、家のリビングだろう。幼馴染である俊斗が家に来ることは、これまでに何度もあった。

 どう考えてもおかしい場所などあるハズもない、いたって普通の写真であるハズなのだ。それなのに。


「どうしてこの時間に、これが……」


 ため息を吐くように狼狽した。

 いつか確かめようと思い撮影日を確認すると、日付は一か月前。そして時間も今より二時間も前である。おかしい。

 二時間前と言えば、俊斗と買い物をしていた時刻だ。一か月も前なんだから、予定など違って当たり前と思うかもしれない。

 だが、小春は毎日決まった時間に記憶喪失になるのだから、これは異常事態である。


(記憶を失うのは、大体四時半くらい。今日は喫茶店近くで目が覚めてそこで俊斗と合流してショッピング……する前に事件について説明してもらって、お茶飲んで……状況を呑み込むまで喫茶店でいろいろ過ごしてたはずだけど)


 記憶喪失以前の記憶が残っていたとしても、だからと言って直ぐにすべてを呑み込めるわけじゃない。一日分の記憶が消えている、一日後に今の記憶が消えるというのは、言葉にするよりもずっと嫌なものなのだ。

 だから母親にも癇癪を立てたわけだし、俊斗が喫茶店に来てくれたときは、もの凄く嬉しかった。


 だからこそ、記憶を失った直後であるこの時間に笑っていられる写真の中の自分の神経が分からない。

 記憶喪失直後であるはずなのに、そんなに笑えるものだろうか。そこはもっと、不安に押しつぶされそうになっているものではないのか。


「……何か知ってるの」


 写真の背景に映っている、この家のリビング。母ならばこの写真を撮った時の事を何か知っているかもしれないと、小春は低い声で呟いた。

 二人が写った写真なんて、二人以外の誰かが撮らないと写せないんだから。


 照明も点けない暗い廊下を小走りで進む。階段まで来ると足取りは次第にゆっくりになり、リビングへと繋がる扉の前まで来たときには、もうほぼ忍び足になっていた。

 先刻母と喧嘩して開け放った扉もいまは閉じられ、見慣れた筈の門構えはどこか物々しい雰囲気を帯びているようだ。

 奥から母の声が聞こえてくる。何を話しているのかはよく聞こえないが、母の声に合の手を入れるように、低めの男声も聞き取れる。


(お父さん、帰って来てたんだ……)


 目の前では飽き足らず、壁に顔を近づけて隙間から覗いてみる。

 父親の平均帰宅時刻が二十時であるらしいから、七時半を過ぎた今なら、まぁ妥当ではある。別に娘の小春がいることも不思議ではないから、突入してしまっても問題はないのだけど。


 壁に顔を密着させている事で、リビングの会話が聞こえてくる。

 扉の向こう側には、重苦しい雰囲気が溜まっている。外に娘がいることに気付かぬまま、真っ先に口火を切ったのは母であった。


「もう無理よ。これ以上、一緒に暮らしていける自信がないわ」


 主人が帰った夕飯時。ダイニングテーブルであるそこには料理は並んでおらず、キッチンから立ち上っていた湯気はしばらく前に見えなくなった。

 妻と夫はテーブルを挟んで向かい合い、重苦しい空気の中心にいた。元々思い込みの激しい母は天板に肘をついて頭を抱え、此処には居ない誰かへ向けた言葉を宣う。

 それが親として言ってはいけない事だったとしても、吐き出したい感情があると言わんばかりである。

 だが吐き出したところで、それを宥めるのは旦那である。

 仕事から帰って来ても夕飯が出なくても怒らず妻の相手をしているのは、違うベクトルで時代に適応していると言えるか。


「落ち着いて。気をしっかり持とうよ。娘だろ? 事故の後遺症は、あの子が一番しっかり向き合ってるんだからさ」

「だからって、一緒に暮らしてたんじゃどうしたって隠しきれないわよ!」


 だが妻の方は、旦那の説得を語勢のある言葉で突っぱねる。旦那の言葉が癪に障ったのか、頭にやっていた手のひらをテーブルの天板に叩きつけて吼えた。

 中途半端な水では消えることのない炎は、きっかけを見つけてますます勢いを強める。


「もう四時台になったのよ!? 前までは六時……ううん、最初は七時だった! もうこれ以上時間が早くなったら、学校にまで影響が出ちゃう! 勉強だって、今まで頑張ってきたのに――」

「静かにしろ! 小春に聞こえる」


 烈火のごとく吼える妻に、今度は旦那が𠮟る番だ。

 稲妻のようにぴしゃりと叱られた妻は肩を落としてがっくりと項垂れ、ぽろぽろと涙を流し始める。


「ずっとそうなのよ。少しずつ、少しずつあの子の記憶が消える時間が早くなっていってる。機嫌にしたってそう。少し前まではもっと優しくて明るい子だったのに、いまじゃ我儘ばっかり」


 今までの苦労を言葉にしながら、溢れ出す涙をを自分で拭うことなく机や腕に伝わせていく。その声と身体は旦那にも分かるほど、これ見よがしに震えている。

 一日ごとに記憶喪失を重ねる娘や、昼間家にいない旦那には分からない苦労。もうくたびれたと言わんばかりである。


「もう施設探しましょう? 最近は障がい者や老人ホームもたくさんあるし、きっとどこかに入れるところがあるわよ」


 バタン!


 だが母の決意は、思わぬ場所に表れる。リビングの外で扉を開ける音が聞こえた。此処から外に繋がる廊下ではない。廊下の外にある扉、玄関だ。

 母の気持ちと秘密を盗み聞きしていた小春は、気付けば外に飛び出していた。


 夕暮れ時とは様変わりした不気味な風景に暗闇に野生的な恐怖を感じながらも、小春は夜の街並みを忙しなく縦に揺らす。


「は……はぁ……なんで」


 小春の胸に渦巻くのは、ひたすらな不条理。好きで事故に遭ったわけじゃない。好きでこんな頭になったわけじゃない。それなのになんで家族に拒絶されて家から追い出され、好きな人とも離れ離れにならなければならないのか。

 そんな不条理の渦から逃れるように、小春は走った。走っても行くアテなんてないのに。


(なんで、なんでなんでなんで! どうして!)


 とりとめもなく溢れ出す不安と絶望を纏めきれないまま、小春は熱帯夜の街を走る。夜で視界が利かない。車や街灯などの照明もない。

 それでも行き先も決めきれないままがむしゃらに進み続けて、最後には何だか広い場所に出ていた。


「あれ、ここ何処」


 見覚えのない広場を見て小春は呟いた。ただ一つの車も街灯もなく、暗い場所。道路わきの歩道、ちゃんと整備された所を走っていたはずであるが、いつの間にか砂利道に変わっている。

 幼いころからこの街で暮らし、事故以前の記憶はちゃんと有る小春でもこの場所は知らない。何だか不気味なところだ。


 暗いと言っても、さすがに黒闇というわけではない。

 月明かりも出ているし、かなり遠くではあるが街の明かりがこちらまで届いている。目下に広がる夜景はここが小高い丘の上であることを示していた。そういえば足がむくんだように痛む。無我夢中で走ったから、上り坂だろうと気付かなかったらしい。

 砂利の広場を照らす仄かな光は走り過ぎて激しく息づく小春に、その全貌を見せる。


「……何これ、沢? この街にこんな場所があるなんて聞いたことも――」


 崖の下からはかすかに水音が聞こえてくる。故に小春は沢と言ったのだが、下は真の暗黒。水面なんて見えないし、音の位置からして相当な深さがあるらしい。

 崖の下を覗いた小春の足元から砂利が幾らか落ち、闇のなかに行けば音さえ消えた。


 その切り立った崖を結ぶ橋の正体を、小春は既にある人物から聞いていた。


『名スポットなんだよ……自殺の。この先に今は使われてない橋があって、そこから何度もそういう人が飛び降りてるから。だから、行くなよ』


 俊斗の言葉が脳裏を過ぎる。

 見れば、崖際を少し歩いたところに橋があるのが見えた。昭和の威信を結集して作られたような橋。無骨で屈強そうに見えて、老朽化の波は譬え闇に紛れても隠せない。おまけに、転落を防ぐ柵の一部が壊れている。橋の中心、丁度半ばあたり。

 その下に広がるのは、言うまでもなく果てなき闇。

 まぁ、自殺のための飛び降り用としてはおあつらえ向きだ。今の小春には雰囲気があり過ぎて、逆に見ただけで足が竦んでしまう。


 橋の上には人が立っていた。


「やっぱり来たな。来るなって言ったのに」


 小春にそう声を掛けたのは、雨頼俊斗。普段はいけ好かない小春の彼氏は、約束を破った恋人に怒気を滲ませながら其処に居た。




 ***




 自殺の名所と呼ばれた崖。その眼前で小春と俊斗はしばらく向き合っていた。

 二人の間に言葉はなく、そこにはただ、暗闇に似合う無言が広がるだけ。互いが互いに対して此処には現れないと高を括っていただけに、掛ける言葉が見つからないのだろう。少なくとも小春にとっては、正にその通りであった。

 自分が上だとばかり思っていた上下関係は、今だけは在って無いようなもの。女の小さな口をあんぐりと開けてパクパクと動かしている。

 言葉が出ない。駿との放つ男性特有の威圧感は、あの父親とともに暮らしていて中々感じられるものではないから。


「なんで、ここに」


 そんな口を何とか動かして、小春は俊斗に質問する。言葉の震えはこの際気にしない。そんなことを気にする余裕がないくらい、彼が怖い。

 月明かりに微かに崖の上でも俊斗は月に対して背を向けているから、表情が分からない。黒塗りになった顔の影は、覆面を被った強盗みたいにおどろおどろしかったのだ。


「こっちの台詞すぎ。言っただろ、俺は未来が分かるんだって。お前こそ彼氏に来るなって言われて、その日の夜に来るか普通?」


 そう言い終わった後、はぁ~と大きなため息を吐いた。歯や舌を中心として口元の様子がよく見える。それに付随して彼が自身に抱いている感情の種類を必死に突き止めようとする。

 呆れのような、虚しさのような。自分のことで精一杯の小春には、それがなんであるか判別が付かない。

 だが俊斗がそれを待つことはなく、一歩一歩、砂利を踏みしめながら小春の下へとやって来る。

 小春の足元の砂利が一瞬だけ音を立てる。


「説明したよな。自殺の名所だって」


 だが詰問されるようなことは特になくて、優しい響き。とは言っても、慈愛というよりかは気の抜けたという方が正しいかもしれない。

 空気の抜けた風船のようなため息交じりの声は、有無を言わなぬ迫力があることに間違いない。


 そのままくるっと前後転換して小春の隣にやって来た。どさっと音がしてなにかと思えば、砂利が敷かれた地面にお尻をつけた俊斗が、自分の隣の地面を叩いている。

 隣に来た今、そこは小春が腰を下ろせばそのままお尻が付けることになる位置だ。


「ん」

「え、あ……ありがと?」


 どういえば正解か分からないが、一先ずお礼を言ってから腰を下ろした。


 どこまでも果てしなく続く空には、星が見える。月明かりさえわずかしか届かない天候、さすがに満天の星空というには及ばないが、街の明かりが届かない丘の上の空気はいくらか澄んでいた。

 そんな夜空を、彼氏の隣でぼんやりと眺めている。だが俊斗にそんなつもりはないらしく、彼は二人だけの静寂をぶち破っていった。


「で、なんで?」


 うへぇ、と声が出そうになって、小春は口元を手で押さえる。

 この状況について、小春の方こそ説明しなければならない。だが、そう簡単には説明し辛いのも本当だった。


 仮にも、記憶喪失の自分を今日まで支えてくれた人。仮にも此処が自殺の名所だと教えてくれた人。駿とが教えてくれなければ、夢中で走るまま、足を滑らせて崖から落っこちていたかもしれない。

 行くなと言われた場所に来て何も話さない訳にはいかないのは、分かる。

 でもこっちにもタイミングとかあるし。理由だって、にっちもさっちもいかなくなったから家を飛び出してきたのに、無理矢理言えってのもおかしいと思う。


「……言わなきゃ駄目かな」


 無駄だと分かりつつ、ささやかな反抗を試みる。

 女は男とちがって、言われたからはい分かりましたと腰を振るわけにはいかないのだ。


「当たり前だろ。まさかこのまま星を眺めて幻想的な時間を過ごそうとしてんのか? 念のためにと思ってたことを現実にしやがって……こっちはクソ寒いんだぞ!」


 苛立ちを帯びた強めの口調で言い返された。

 そっちがその気なら、といつも通りの不毛な争いに発展しそうになり、あることに気付く。


(……ん、寒い? こんな夏の夜に、寒いって何だ?)


 どのくらいかというと、ずっと居ると服の下が汗ばんで気持ち悪くなるほど。小春なんて直前まで走っていたから、体中が放熱して汗びっしょり。

 出来るなら今すぐにお風呂に入ってさっぱりしたいくらいであるが、それでも汗をかいていてちょうどいいくらいなのだから、寒いはずがない。


 『寒い』 と言っていたのが最近のことじゃないと気付いて額に手を当てる。

 小春は不意に、俊斗が昨日の授業で何を学んだか覚えていないと言っていたのを思い出した。


「ひょっとして、ずっと居たの? 夏も冬も、私が事故に遭ってからずっと」


 あまりに突拍子もない事を小春は聞く。そのあり得なさが、様々なことに一致してしまう。たとえば、俊斗がお馬鹿であることとか。

 実際、彼は寒いと言っているのだから、もし発言が本当なら冬――半年前には居たことになる。ちょうど、小春が事故に遭った時期。

 そんな偶然も、言葉の信憑性を上げていたのだ。


 彼女の問いかけに、俊斗は首をひねった。

 バレたかという子ども染みた表情と、言っていいのかという気遣いが出来る大人な表情が重なり合って、複雑な顔をしているのが分かった。


「ずっとじゃないな。日付が変わるまでに帰ってるし、明日の課題もしなきゃだからな」

「そういう意味で聞いたんじゃ……」




 ***




「……あ~。おばさんがそんなこと言ってたんだ。そりゃまぁ、嫌になるわな」


 理由を話し終えて、俊斗は納得したように頷いた。暗闇のなか、あれだけ恐ろしかった顔色がかなり爽やかになっている。

 対して小春の方は鬱蒼と暗い。自殺の名所と呼ばれた周囲と溶け込んでしまいそうなほど顔を曇らせていた。昨日のことも分からない彼女が未来に希望が持てるかと言われれば、それは皆目無理な話で。

 それでも会話を途切れさせたくなくて。彼氏とのこの時間を壊したくなくて。見捨てられたくなくて。小春は喉が痞えたように笑う。


「あはは。だけどまぁ、喧嘩し始めたのは私だしね。私が悪いんだよ」

「やめろよ」


 俊斗の方に会話を続けるつもりはない。思えば、俊斗は話題らしい話題を振っていないように思える。

 それらしい瞬間と言えばこの場所に来てしまった彼女に理由を催促するときがそれらしいが、それも話題を振るという行為には不適当なものである。

 だが、小春はそれを無視して続けた。胸元が焼けつくような気配を感じながら、何を話すかも考えずに喋り始める。


「でも仕方ないじゃん? 親がそう言った以上、介護される側の私が何言ったって無駄だし。そもそも、明日になったら忘れてる……よくよく考えて、悲しいことなんて何もなかったんだよ」

「やめろって」


 そもそも、理由を話すよう迫ったのは彼自身ではないか。だが、俊斗の静止は止まることなく、小春の心をチクチクと刺し続ける。


「もういっそ、全部やり直せたらいいのに……昨日までのことなんて、いっそ全部なくしてさ」

「もう、無理に笑わなくていいから」


 ぴしゃりとそう言われて小春の口が止まる。半ば現実逃避の手段として使っていた言葉の数々が消えると、途端に小春は胸を、吐き気のような感覚に襲われる。

 彼女の壊れかけた心が絶望に憂う。こいつはもう、私のことを好きではないのかと。


「……なに? 嫌なことがあったから忘れたいと思うことの、何がいけないの? それとも、毎日記憶喪失になる女はそんなこと言う資格も無いってわけ」

「馬鹿が。そんなこと言ってねぇだろ」


 


「明日に希望も持てないのに、昨日ばっかり無くなって! 楽しいことなんて、ひとつも覚えてないのに!」


 言いたくもない事を並べてしまう。彼に言いたいのはそんなことじゃないのに。どうして 『助けてよ』 『何とかしてよ』 の一言が言えないのか。言ったからと言って、どうなるわけでもない。小春の運命が変わるわけでも、何かの魔法で記憶を戻してくれるわけでもない。

 ただ安心できるから。心が安らぐから、彼女はいま俊斗の隣に居るんだろう。


「楽しいことはたくさんあった。今までのことを忘れたくないから、お前はいつも事あるごとに写真を撮ってたんだろ。だから忘れたいだなんていうな」


 記憶を失う時間が短くなってきていると気付くきっかけになった写真。俊斗とのツーショット写真で、写真の中の彼女は笑っていたから。


「でも施設に入ったら学校にも行けない。家は経済状況も普通だから、高額なことろはきっと無理だし部屋の中で付きっきりで介護だよ。俊斗とだって、離れ離れになるし……」

「なら、見つけてやるよ」


 諭されてなお我儘を並べ連ねる小春に、俊斗は宣言する。。

 そういうことを当たり前に言えるんだから、本当にズルい。


「見つけたって意味ないし。結局明日になれば全部忘れる」

「だったらその度に見つけてやるよ。今までずっとそうしてきた」


 そう言って俊斗は、今まで弄っていたスマホの画面を小春に見せる。映っていたのは、二人の通話履歴。特定の相手との履歴を出すよう設定すると、その相手と会話した日付と時間が出てくる。

 一番上にあったのは今日の日付。時間も長くないし、タイミング的に喫茶店に呼び出した時のである。

 その下にあったのは、昨日の日付。時間は今日のと大体同じくらい。内容は覚えていないが。

 その下には、一昨日。その下にはその前の日、その下にはまた前の日と、一日おきに日付が並んでいる。すべて、小春が俊斗を呼び出したときのものだ。毎日毎日呼び出されて、その度に来ていたというのか。

 小春だってわざとやったわけではないが、鬱陶しすぎるだろう。


「忘れたこと、ないの? 別れたいと思うことだってあったでしょ」

「あったらこんな場所来てないよね。大好きな女もいないのに、こんな寒くて暑苦しい場所にいるのヤダよ」


 会話らしい会話は、そこまでだった。

 二人で星空を眺めていた。途中、ぽつぽつと言葉を交わしたような気がするけど、適当な言葉を二、三度行き来しただけの短い会話だ。

 なにがきっかけだったか、俊斗に 『帰らなくていいの』 と聞かれて立ち上がり、丘を降りた。普段ならイラついて一人で帰るとか言い出しそうなものだったのが、不思議とそうはならなくて、帰りは行きとちがい、二人で一緒に降りて行った。


 もう車も疎らになった通学路を、二人で歩く。夕暮れ時とはずいぶん違った道を歩いて小春の元まで辿り着くと、母が待ち構えているのが見えた。

 勝手に出て行ったのだから、きっと怒られるだろう。別れ際、背中を向け去っていく彼氏に向かって手を掲げる。


「俊斗」


 そして一瞬だけ振り向いた彼に、小春は下手くそな笑みで言った。


「……また明日」

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少年は、必ず来る明日を望む @puroa

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