『もう何も言わないで』


 ミゼルの亡骸をそっと置いて、スカーレットはメリルを顧みた。自分を案ずる姉の表情に、メリルは気丈とは違う強さで苦い笑みを見せる。


「わたくしに……彼を言祝ぐ権利も、資格もありません」

「メリル……」

「彼の死を嘆くことこそ、冒瀆になります」


 スカーレットは数秒黙した。ミゼルが伏せた、濡れた睫毛から沈痛な面持ちで視線を逸らす。それからスカーレットはメリルの手を取った。


「行こう、メリル。この国の未来を、今は考えなくてはいけない」


 ミゼルを殺した罪の痛みを和らげるようにして呟いたスカーレットに、メリルは何も言わずに頷いた。憂いたとき、姉妹の脳裏に黒い陽炎のように躍った影は、一致している。

 公女、大司教が舞台から消え、ミゼルも死んでしまった。此方の味方の方が数では勝っている。しかし、忘れてはならない魔物がまだ、生きている。

 メリルは苦いものを噛んだように、呪われた名を口にした。


「宮廷悪魔バフォメット……!」

「奴はもう首席執政官と見なすべきではない。ボーフォート王朝はじまって以来影の王として中枢にいる魔物、手駒の誰が死のうと……奴は一人でも何かしかけるはずだ」


 ミゼルでさえも盤上の駒として自らの意思で動かせる存在へと堕としたバフォメットの横顔が目に浮かんで、スカーレットは赤い瞳を燃やした。盤上の舞台に臨むことを選んだかつての支配者、その歪んだ本気を思うと、メリルもスカーレットの恐ろしかった。


「奴の目的は私を王にすることだ。私を王にするためなら、邪魔者とみた人間を殺すだろう……例え何人、何十人いようと殺戮と恐怖の血に汚れたところで、奴の名に傷一つつかない。ひとの死は奴に傷をつけられる事象じゃない」


 スカーレットは自嘲めいて溜め息をついた。


「宮廷悪魔、か」

「姉さんの命と名誉だけなのよ、あの方が大切にしているのは」


 そこまで言って、メリルは何か思いついたような表情になる。


「……あの方は姉さんを傷つけることはできないはず」

「それは私も思う。危険なのはメリル、君の方なんだ」

「何処かに姉さんが呼びつければ……交渉を装うの。そこで捕らえてしまえば……」


 スカーレットは賛同と難色を半分ずつ示した。


「仮に、私が心変わりして王位を主張するとして奴に協力を仰ぐ――話には応じるかもしれないが、満足な理由がなければ奴は疑うだろうね。何より、捕らえるだけでは駄目だ。でも現状を考えるといずれにせよバフォメットを引きずり出さないとはじまらない……」


 スカーレットは額を押さえて嘆息した。その傍らでメリルも頭を悩ませる。

 現にスカーレットは血筋と母である元王妃のことを暴かれた際、次の君主に推されたが真っ向から拒絶している。バフォメットは幸運なことに死に損なったが、スカーレットは殺すつもりでバフォメットを撃っているのだ。そうまでして即位を拒んだスカーレットが翻意を装ったところで、俄かには信じ難い。裏があることを怪しまれるだけではなく、自分を殺すためにスカーレットが話を持ちかけてきたのだと疑わないほど、バフォメットは愚かではない。

 メリルはスカーレットこそがこの争いを終わらせる切り札と考えていたが、策が尽きたと思われた。

 メリルはそこで、あることに気づく。バフォメットにとってスカーレットは至尊の座に輝くべき存在。特別な存在のスカーレットを闇の玉座への道に堕とすために不可欠な悲劇が何なのかを悟り、不吉を覚える。

 しかしその不吉な思いは、メリルに活路を与えることとなった。

 国に尽くしてきた姉スカーレットの喪失と使命感、自己犠牲につけ込む悲劇──それはメリル自身の死だと気づいたのだ。もし自分が命を落とすことになれば、優しい姉は己を責め、妹を守れなかった悲しみに引き裂かれる。国を守るただ一人の王族として捨て石となるために王位を選びながら、真相を知らぬ民衆から血まみれの簒奪者と罵倒される苦しみに喜んで身をやつす。バフォメットが望むのは、今やメリルの死という幕引きだ。絶対的にスカーレットを玉座に縛るためには、メリルの死は必須なのだ。


「あの方が葬りたいのはわたくし……わたくしが、餌になればあの方は現れる……」


 メリルが一人言のように呟いた内容を聞いて、スカーレットは動揺する。


「メリル、君が危険を冒す必要はない。下手をしたら殺される」


 メリルはすがるようにスカーレットを見つめた。すがる瞳に弱々しさはなくて、スカーレットは言葉を続けられなかった。信じて、頼ってほしい──そんな想いのこもった力強い光があるだけであった。


 ――執務室まで取りに行かねばならぬものがあった。未だ熱を含む傷を引きずるように戻ると、部屋の扉の横に備え付けられている小さな郵便受けに紙切れが挟まっていた。静かに主張している紙切れに導かれて、バフォメットは静寂を塗り落とした床を踏みしめている。傷を隠したマントの下に、重い害意の鉄塊も忍ばせながら、頭の中では脚本を書き換えて更新していた。

 新しい舞台、神聖な玉座に美しい王を迎えるための飾りは何がふさわしいか。今だけは角と牙がなりをひそめているが、目的地に近づくほどに内側の想いは憎しみに震える。潜むことに飽きたのだと、魔物の白々とした牙が鋭い。

 もはや思い留まらせるものはなかった。

〝これからの話がしたいから、王女の死に場所で会いましょう〟

 紙にはそう書かれていた。煙った言葉と漠然の誘い。バフォメットはテラスへと続くバルコニーの階段下で歩みを止める。仰げば、階段の上のバルコニーにはメリルの後ろ姿がある。テラスにつながるガラス張りの扉は全部閉まっていて、硝子を鏡に自分を見つめながら誰かを待つ風情で佇んでいる。

 王宮のテラスはメリルの立志式が行われ、十六歳の誕生日を国民に祝われて輝かしい姿を見せた場所だ。バフォメットは〝王女の死に場所〟として指定された場の目星をつけて此処まで来て、妙に納得した。


「……確かに、民に言祝がれたこの場所で散ってしまうのは、或いは美しい物語となりそうだ」


 バフォメットが呟くと、薄暗いバルコニーに立っていたメリルが振り返った。バフォメットは一段一段、赤い絨毯の敷かれた階段を上がっていく。口元に漂わせた飄逸を孕んだマントの下で、無骨な殺気が火薬を貪る。


「して、殿下」


 メリルが此方に身体を向ける。その美貌からはすっかりあどけなさが消えていた。感心しつつも思い出されたのはメリルの母親の姿である。メリルは知らない、しかしバフォメットは知っている、隣国の王女であった女。

 子供のような女であった。出会う誰からも愛され、愛されることでのみ生きていたような女が奪ったものは、帝の心だけではない。

 いつしか自分がメリルに向けるようになっていた憎悪は、かつて自分がメリルの母親に向けていたものと同質であった。メリルの母親は自分に怯えて、アルフレッドに自分を中枢から遠ざけるように申し出ていた。何がやましいのか自分の目線を恐れて幼さばかりの瞳を潤ませては、社交辞令の挨拶をしてきたものだ。しかし図々しくも忘れ形見は置いていった――残された娘はこの目の憎悪に微塵も怯まず、何処で捨てたのか母親と同じ計算された弱さはない……

 バフォメットは利き手とは反対の手で、長い前髪を一房、耳にかけた。


「わたしに何か用があるそうですが……これからの話、とは?」


 バフォメットは傷を庇っていることを悟られぬように喋った。ゆっくり吐いた息に、痛みに伴う熱が含まれている。抱えた無理が垣間見えぬように装いつつ、メリルの言葉を待つ。


「姉を、即位するように説得しようと思って」


 バフォメットは黙って聞いた。


「悟るのに遅すぎたと、あなたのいい笑い者ですわ」


 バフォメットはメリルの心境の変化を考えながら、沈黙を続けた。しかるべき理由を聞いてから、嘲笑うのはそれからと決め、唇を結ぶ。


「首席執政官、正しいのはあなただった」


 メリルは毒を飲むような声で呟く。


「王にふさわしいのは姉の方……わたくしが望むのは、王になった姉の傍で小さな花のように咲いて、姉が統べる美しい国を眺めることです」


 バフォメットは驚いてこそいなかったが、面のように乏しい表情を煙らせて目を細めた。メリルの想いをまじまじと見つめることも、二人で話す機会さえも避けていた──正確に言えば機会を持つことをしなかった今までを顧みて、バフォメットには翻意の理由がまだ見えてこなかった。


「何故、そこまで言い切れるのです?」


 自分がメリルを憎むように、メリルもまた自分をよく思っていないことは承知している。そんなメリルが対立する自分の描く未来を違う形であれ望むことに、謎を見たバフォメットは問うていた。


「わたくしが心から〝王位を望む〟と言ったことが今までにあったと思っていらっしゃるの? 王女という生き方しか知らなかったから、わたくしは流されるままに王になるものと思っていました。でも、わたくしは、わたくし。姉が軍人になったように、わたくしにも選ぶ権利があり望まない自由があると知った……それだけですわ」


 バフォメットは再び黙した。確かにメリルがはじめから王位に対して積極的であったか振り返ってみると、メリルが言う通りであったからだ。


「お気持ちは分かりましたが、殿下の選択とわたしの考えが相容れないことには変わらない……そう申し上げておきましょうか」


 少なからず、メリルは国政から遠ざからねばならない。小さな花のように姉の傍で咲くことなど赦さない。美しく偉大なる女王スカーレットの傍に佇むのは、自分だけでいい。

 可憐な唇を結んだメリルを、バフォメットは微笑みにも似た面持ちで眺めた。今まで、生まれてから一度も褒めたことのなかったメリルに、飄々とした口調で語りかける。


「それにしても、殿下の才気と働きに驚かされたのは一度ではない。その天稟と王の気高い血を持つあなたは、まさに白薔薇と呼ぶのにふさわしい」


 悪魔の顔が芯の方から昏い色を落とし、彫り深い顔に不吉な影が落ちた。


「だが此処までだ、小娘」


 メリルが、噛み締めた唇を弛緩させた気配がした。こぼれた吐息が震えている。恐ろしいのであろう、何かに侵略されそうな己の内側を保つように呼吸を整えている。

 バフォメットの白面、機会ながら整った異形はどれだけの時を閲したのか。一体どれほどの侮蔑が込められていたのであろう。言葉以上に、バフォメットは深い蔑みを込めて続けた。


「王家に卑賤の血を混ぜた女の娘らしく……よくやった」


 メリルの顔に表情はない。そんなメリルに、彼女の母親とは違った、しかしそれでいて形を変えて似通う部分を見たような気がして、バフォメットは眉目を寄せる。


「光栄だわ……本当にわたくしが憎くて仕方がないのね」

「いい面の皮だ、その愚かさで身を滅ぼすところまで母親ど同じ……」


 メリルの死は必須であり必定――スカーレットから離れるだけでは生温い。母親から略奪者の血を脈々と受け継いだ生まれついての盗賊の娘。バフォメットはメリルに片手を差し出してみせた。渡すのではなく、何かを受け取る指先をしていた。否、貰い受けることとも違う。返させるのだ。

 その母の代より奪い続けてきた名誉を、身分を、そして命を。

 この存在を、遂に全否定するために傷を負った身体を引きずってきたのだ。これ以上、甘い命を啜らせるつもりは毫もない。花が舞うような誉れ高い名声もこれで打ち止め、マントの内に隠した害意は蠢き、より鋭く凶暴な感傷に変わっている。

 指先の露出した手袋をした片手、指の間から滴る血と幻を見つめながら。


「お前の首はこのわたしが手ずから姫へと捧げよう。その身に余る僥倖と言うべきだ」


 黒の深淵から這い出た黒よりも暗然たる闇が、バフォメットの白面に塗り落とされる。バフォメットはすでに悪魔の相好を喜びに崩す歪みを見せている。


「好きなだけ、呪うといい」


 メリルが呟いたのはそのときであった。


「あなたには待ちくたびれたわ。わたくしは随分と待たされた、分かっていらして?」


 バフォメットが隠すのをやめた殺気と、メリルは対峙する。金の瞳の光がいよいよ引きずりだした魔物を捉える。首席執政官という官僚の形をなくしたバフォメットの悪意を目に焼きつけ、大義名分を得たようにメリルもバフォメットを睨んだ。


「やっと……悪魔に、会えた」


 メリルはピアスを引き千切った。切れた耳から血が滴り、指先を濡らした。


「あなたが作ったのはこの国の歴代の王たちではない」

「何の真似を」

「帝王製造機――あなたが生み続けたものは、王の栄光ではなくただの地獄よ」


 狙いを定めた気配と共に、メリルの細い喉を怒号が迸る。


「姉もこの国も渡さない! 此処はお前の地獄じゃない!」


 血濡れた指が右手の指輪、白薔薇の飾りを撫でると目を灼くような閃光が放たれる。バフォメットは何が起きたのか分からず、父王の言葉を遂行したメリルもまた何が起きるか分からなかった。

 眩惑の光とほぼ同時に拡散した衝撃波にバルコニーの硝子が震え砕け散る。崩れた壁の土煙が、塵が光の下、黄金のように輝いていた。



 石壁が炭化した埃と砕けた硝子の乱反射の中で、メリルは痺れる右手を押さえた。光を放った指輪は、一閃の炎の花を照射すると壊れて砂になる。

 これでやっと悪魔は消える。だがメリルの安堵は一時も保たなかった。


「知らなんだ……歴代の王供は……そのようにわたしを消す方法を隠していたとは……」


 おぞましい一人言は階段が崩れた瓦礫の中から聞こえてきた。メリルは青ざめた。バフォメットは生きている。攻撃を外してしまったのだ。

 王家が自分を切り捨てる手段を隠し続けてきたという失望に似て非なる苛立ちが、瓦礫の中から片腕を覗かせる。メリルは足を竦ませた。今立っているのはバルコニー、テラスに出たところで逃げ場はなく、階下への道はほとんど崩れた上に、階下ではバフォメットまだ生きている。

 逡巡したのが誤りであった。メリルが動く前にバフォメットは瓦礫に足を取られながらも脱出し、マントを翻している。隠していた害意、敵意の顎(あぎと)がメリルに向けられる。

 バフォメットが持っていたのは散弾銃であった。悪魔には無粋ともいえる厳つい死の象徴が選ばれたのには理由があったらしく、バフォメットは嗤った。


「もう何も言うまい、逆賊ならば殺すのみ。罪は全て、父親殺しの罪人のものとなろう」


 銃口が階下から上を向いてメリルを捉える。王家がはじめから自分をいつでも始末できる手段を隠していたこと、歴代の王たちが守り通した秘密を暴き、宮廷の闇の王に反旗を翻した王女への激昂が、引き金を絞る。

 そのとき、カーテンの影からスカーレットが飛び出した。割れたガラスの破片を左手で拾い、右の手袋を取る。叩き捨てて、無造作に指の腹を傷つける。血まみれの右手が取ったのは、メリルの左手である。背後からメリルを支え、スカーレットの血濡れた指先がメリルの指と重なる。


「――姫」


 まさに発砲寸前であった引き金に置かれた指が痙攣した。スカーレットを捉えると、バフォメットの瞳は驚きとも悲しみとも違う色に翳り染まる。嚇怒に見開かれた目が弛緩して、何か言いかけて唇が動く。

 躊躇いの、一瞬。


「何も言うな」


 スカーレットは血の色に染まった指を、メリルの左手に輝く二つ目の指輪に疾(はし)らせた。

 赤薔薇の宝玉から炎の如き赤光が迸る。光を失うような光であった。目が焼けてしまうような炎色が辺りを焼き尽くしていた。

 反動にふらつくメリルを支えながら、スカーレットは何も見えない目の前から目を逸らさずにいた。この終焉を忘れまいと、焼き付けるようにいつまでも赤光を睨んでいた。乾いた瞳が瞬きを求めても、スカーレットは二度と消えない傷を刻むように、光の炎を見据えていた。

 光に包まれる直前、バフォメットの面上をかすめ去ったのは、逆棘のついた純真を喉と心につかえたような微笑みのような気配がしていた。やがて光は消え、轟音は果て、晴れていく土煙――バフォメットの姿はない。メリルはスカーレットを顧みる。


「姉さん、やっと……」


 しかしメリルが言葉を結ぶことはできなかった。指から血を滴らせてスカーレットが見つめる先はバフォメットが立っていた位置──そこには赤い薔薇のコサージュが二つ、炭化し砂となった亡骸に咲くように残っていた。

 スカーレットは末端の激痛など感じていないように呟いた。その声はかすれて、震えていた。赤い瞳は凝然と硬い光を波打たせている。指先から、血が、また一雫こぼれる。

 いなくなったのはバフォメットであるのに、走馬灯を見ていたのはスカーレットの方であった。



『姫には美しいものだけを見ていてほしかった……軍人になるなどと、決めないでほしかった』

 王宮に攻め入った敵を倒し、妹を守ることに運命を見つけた日。軍籍に入ると告げた時の悲しげな顔。

『今日で姫も十六歳、本来ならば立志式をしなければなりませんが叶わぬことをお許しください。臣から花を贈りますゆえ、飾っていただければ幸いです』

 王女として祝われるはずであった十六歳の朝、似合わぬ台詞を添えて渡された花束の鮮やかさ。

『陛下は臣が上申したにも拘らず、公国との戦いの責を全て姫に負わせるつもりです……姫の名誉が汚されていくのを、臣は指をくわえて見ていることしかできなかった……!』

 反王家と公国の結託による紛争で唯一人スカーレットを庇うも、力が及ばなかったことを血の涙を流す激しさを込めて拳を机に叩きつけた姿。

『私を想うなら軍籍に入ることを許して。執政官さま、いいえ、バフォメット……私は私の命を薔薇として輝かせる道を見つけたの。だから私を許してちょうだい、もう我儘は言わないから』

 軍人になることを最後の勝手としたあの日。甘え、助けられてばかりであった悪魔に、親しみのこもった名前ではない呼び方をした。ある種の、訣別。

『お前が花をくれると言うの? 誰の祝福がなくたって、お前は私を覚えてくれている。立志式なんてなくても、それだけで充分よ、ありがとう』

 素っ気なく受け取った花束に添えた台詞。身を翻し、戻った部屋で、誰にも何にも言祝がれない誕生日を祝ってくれた花束を抱きしめて声を殺して泣いた。

『アルフレッドはそういう人間だ。バフォメット、私が分かっていないとでも思っているの? とうに見放した娘なんて、切り捨てられる手足くらいに思っているのよ……お前はよくやってくれた、本当に……私が戦った真実をお前が知っていてくれれば、私は何も望まない』

 殺戮の首謀者に仕立てられた、敗残の身を引きずって事態を嘲笑いながら──遂に泣けなかったあの日。自分の名誉が汚されていくのを嘆いてくれたのは、悪魔だけであった。


 振り返れば、全ては愛であったのだ。

 滴る赤い花が、ひとひら、またひとひらと落ちていくうちに、スカーレットは想いに濡れた手のひらを握りこんでいた。

『貴女だけを唯一の薔薇と致しましょう』


「もう、何も……」


 その先が言葉になることはなかった。

 ずきりとした目頭に運んだ血まみれの手が、白い美貌を覆う。流れているのが血か涙かさえ分からないが、悲しみを啜った睫毛は伏せられたままで、噛み殺した嗚咽が激情という形で佇んでいた。

 終止符の寂寥は自らに深い傷をつけたのであった。

 涙に溶け出した血で白い肌を汚したスカーレットの姿を、かつてスカーレットが悪魔に贈った赤い薔薇が二つ、美しかった日々の象徴めいて見つめていた。





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