『悲しまずにいられるように』

 メリルはハンカチをグリノールズの傷に当てた。自分を庇って傷を負ったグリノールズの止血をしながら、メリルは沈痛な面持ちでいた。

 行き先さえも決められずに議場を飛び出した二人は、ミゼルから遠ざかりながらスカーレットを探すしかなかった。同じ無力を噛む二人には、言葉を必要としない悲しみがあった。血が止まった傷に包帯代わりのハンカチを巻いて、メリルはグリノールズのそでをそっと握りしめる。


「殿下、お心を強くお持ちください」


 傷が痛むであろうに、グリノールズはメリルに呟きかける。ミゼルの武力蜂起をメリルが恐ろしく思っていると感じたのであろう。

 しかし、メリルの思いは恐怖とは違っていた。ミゼルが父である次席執政官を手にかけた理由に、メリルは姉スカーレットの存在をみていた。

 ミゼルはダズマールに〝ダズマール自身もスカーレットを王にしたいはず〟だという旨の発言をしていた。この言葉から、ミゼルがスカーレットを王にしたいと思っていることが分かる。スカーレットを、ミゼルの父である次席執政官クロードはかつて公国と結託して陥れている。父の罪深さを、ミゼルは身を賭して清算したいということなのであろう。一連の殺戮はミゼルの身をも焼き尽くすと分かっていながら、スカーレットのためにメリルの反旗を翻したのだ。ミゼルもまた、器用とは程遠いやり方で、スカーレットを愛している……


「公子……あなたはどうして、わたくしを支持してくださるのですか」


 包帯代わりのハンカチを傷に巻き終えて、メリルは切り込んだ布の端をぎゅっと結んだ。グリノールズは真摯な眼差しでメリルを見つめ、質問に答える。


「殿下は、異母姉ロックハーティアの権力欲のために死ぬところだったぼくを、救ってくださった……今度はぼくが、殿下をお守りすると決めました」


 グリノールズを救ったのは本当に自分なのであろうかと、メリルは淡い疑問を抱く。


「姉さんは……わたくしを憎く思ってはいないのかしら……」


 誰からでもいいから、メリルは父王がスカーレットの母を離縁した理由を聞き出したくて呟いていた。答えを持つはずのないグリノールズが困った顔で自分の言葉を聞いているのを分かっていながら、細い声は涙の気配に震えて、グリノールズを置き去っている。


「わたくしがいるために……姉さんを愛している方たちが争っている」


 血が通っているものに愛されたことがなかった自分に、メリルは気がついていた。王女という身分、権力、財産の冷たさに、心の芯が凍える。

 自分に群がる人々は、メリルという個人に集まっているわけではないのだ。彼らは王女という身分に目眩を起こしているにすぎない。そして姉スカーレットは虚栄などにではなく、血の通った心ある人々から慕われ、愛されている。

 ずっと、姉が王にふさわしいと思っていたが、自分の判断は正しかったのだ。姉と違って自分は虚飾にまみれている──白いドレスのくすみが硝煙によるものではなく、別のもののように思える……


「わたくしがいなければ……よかったのかもしれない」

「殿下、落ち着いてください」


 メリルは俄かに苛立って、手のひらを握り込んだ。自分が平常心ではないことから目を背け、眉を吊り上げる。


「充分落ち着いていますわ……あなたに何が分かると言うの、責められずに存在を否定されるわたくしの何があなたに」

「メリル!」


 グリノールズがはじめて声を荒げた。メリルはびくりと肩を震わせてグリノールズを仰ぎ見る。

 何を言われたのか、はじめメリルは分からなかった。スカーレットと死んだ父王以外の者から名を呼び捨てられたことがなかったからだ。自分を一喝したグリノールズへの驚きは勿論であるが、このときのメリルはグリノールズが自分を王女ではなくメリルという一個人として呼んでくれたように思えた。吐き出しかけた弱音が、細霧のように何処へともなく消えてゆく……

 グリノールズの呼びかけで我に返ったメリルは、継ぐべき言葉を失い、何かが切れたように大きな金の目に涙をにじませる。対してグリノールズは眉を寄せて、怒りと心配をない交ぜにしたような表情を瞳に宿している。

「自分の破滅か姉君を選ぶかは極端が過ぎる……メリル、君は今他の道があることが見えていないだけ。一時の悲しみで道を誤るな」

 メリルの瞳から、静かに涙がこぼれていった。泣いてはいけないと言い聞かせるほどに涙は止まらなくて、震える声を噛んでも嗚咽は殺せない。

 メリルは泣いた。無様だと思った。自分が今まで強く在れたのは、姉スカーレットがいてくれたからであったのだと思い知らされていた。

 小さな手で涙に濡れた美貌をくしゃりと覆う。乾いた唇から、ずっと抱えていた非力な自分への呪いが落ちる。


「何が王女よ、何の力もない身分に……何の意味、が……」


 しゃくりあげたメリルを、グリノールズはそっと抱きしめた。見た目より逞しい腕と優しい胸の温もりを、今のメリルが拒む力はなかった。


「姉君のいない君は……孤独だと、思うんだ」


 グリノールズは呟いた。顔をあげたメリルの頬を伝う涙を指先で拭い、真剣な眼差しで続ける。


「メリル、君は偉大で由緒ある王家に生まれてしまった。君が生まれ持つ高貴は、君の人生をメリルという個人のものではなく国のものにしてしまう……ぼくは公国の王子にすぎないけれど、自分の人生を自分だけのものにできない苦しみは、共有できると思ってる」


 メリルは濡れた睫毛を瞬いた。見据えるべき未来を見失いかけて彷徨っていた瞳に、安堵の色が戻ってくる。

 メリルは思い返していた。グリノールズもまた、公国の子息として生まれたばかりに権力争いに巻き込まれたのだ。


「他の道を探そう。君や君の姉君が、悲しまずに終わる方法が必ずあると、ぼくは思ってる」


 グリノールズがメリルを解放しようとしたとき、メリルは離されることを拒否していた。もう泣いてはいなかったが、グリノールズの服の襟に、細い指を絡めていた。


「すぐ前を向きますから……あと少しだけ、このままでいさせてくださいませ」


 グリノールズは何も言わなかった。何も言わずに、もう一度メリルに胸を貸した。

 ずっとスカーレットだけが自分の頼りで、拠り所であった。その姉が自分に向けられるものとは違った愛に包まれていることに、メリルはいつしか自分は邪魔者なのだと失意のままに自分の責め立てていた。

 境遇を分かち合える存在が傍に居てくれることに、張り詰めていた気持ちは遅すぎる安心に包まれる。

 自分の命も、姉の名誉も、国だけに捧げるつもりはないのだと、メリルは目を閉じて誓ったのであった。

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