『正論を絵にしたような姿』

 虚ろな足取りが、止まる。唐突な出来事に見舞われたように動けなくなったが、力が入らなくなるのがとうの昔から決まっていたことのようにも思えた。

 病棟の前で足から根が生えたみたいに、ミゼルは立ち止まっていた。入口を仰ぎ見ると、ダズマールの言葉が頭をよぎった。しかし何を言われたのか思い出すのを拒む自分が、声が言葉を成す前に頭を振っていた。


(オレは、間違ってない)


 ダズマールはいつだって正論を絵にしたような姿でいる。ダズマールは由緒ある将軍家の出身で、誰もに憧れられる存在だ。集まる憧れにも期待にも、応える力を持っている。スカーレットの同期で上司、軍人の鑑。でも、そんなダズマールが正しいとされる世界では、自分は救われない。生きているダズマールは自分とは住む世界が違う。それでいて正論と不条理を併せ持つスカーレットの傍に居るダズマールが憎かったこともある。

 スカーレットは、ミゼルの憧れであった。こう在りたいと思う美しさが、スカーレットの冷静な情熱の内にはある――

 力を込めて開けたつもりの扉は、自分で驚くくらい弱々しく開いた。

 今になって、どうしてバフォメットが一兵卒の自分に王家の秘術を施したのかを疑問に思いながら、バフォメットのいる部屋へ歩を進める。あの悪魔は四年前から自分を利用しようとしていたのかと思うも、当時はほとんど関わりがなかったのだから、自分の存在を知っていたとは考えられない。

 ミゼルは努めて表情を変えた。バフォメットが何を思っていようと、その権力と身分を利用しているのは自分であって、優位にあるのは此方なのだ。父を始末した件さえも、バフォメットの権限があればどうにでもできる。横暴と言ってもいい力を、自分は手に入れたのだ。


「……顔色が悪いですよ、少将」


 病室に入るなり、ミゼルはバフォメットから指摘を受けた。バフォメットはベッドの背もたれに体重を預けて、身体を休めている様子であった。顔は相変わらず失血のために青白いのは否めないが、回復の途中にあるように見える。


「クロード卿を殺してきたのでしょう? やはり父親を殺すのは堪えましたか?」

「まさか」


 ミゼルはバフォメットの問いかけを鼻先で笑った。だが目元が疲れている表情を作ってしまっていたことを繕えない。


「親父を殺せて、せいせいした。あんたの権力を利用すれば、オレがしたことだってどうにでも寛大な処分になるだろうし……感謝してますよ」

「そうですか……わたしの肩書きが役立ちそうなら、この協力にも意味があるということでしょうかね」

「でも、一つだけ訊きたいことができた……感謝ついでにあんたに一つだけ質問しても?」

「何です?」


 ミゼルは一拍の沈黙を飲み込んだ。


「どうしてオレに、王家の秘術を施したんだ」


 バフォメットは青白い顔で、うっそりと微笑んだ。


「あれを使われるべきはアルフレッド先帝陛下だったはずだ。まさかあんたは四年前から……オレを利用して目障りな次席執政官を始末させるつもりだったのか?」

「秘蹟を施せるのがわたしだとしても、王家の血を持つ者の命令のみが施術を決める。まさか少将、わたしの独断だとお思いか?」

「じゃあ、どういうことなんだ」


 バフォメットの表情から得体の知れぬ笑みが消えた。ミゼルとは違う疲弊にやつれた白面には悽愴な青みが漂い、唇の端には底知れぬ哄笑の静かな脈動が含まれていた。


「あなたを生かすことは――姫のご意思だった」


 ミゼルは言葉をなくしてしまった。スカーレットがバフォメットに、戦死した自分への施術を求めたというのか?


「中将が……? 何で……オレはそんなこと聞いてない」

「姫からは口止めをされていましたが、もうその必要もないでしょう」


 ミゼルの狼狽を見て、バフォメットは含み笑いを隠しては悲しげに首を振った。


「自分を庇って落命したあなたを救うことを、姫は泣いてわたしに頼まれました。自分のせいであなたを死なせてしまった――そう、仰って」


 血の匂いがそそがれることのない雨の音が、耳孔の奥で甦る。スカーレットを狙って放たれた弾丸の盾になって仲間の死体と血の海に横たわり、味方だと信じていた存在に陥れられた絶望を噛んだ終戦が、思い起こされる……


「オレは……」


 ミゼルはよろけて、扉に背を打っていた。思考が白く、弾けていく。


「そんなつもりで、中将を守ったんじゃ……」


 覚束ない言葉がこぼれるままに、ミゼルは呆けた顔を強張らせた。自分の罪深さに、目眩がした。


「オレが死んだのは……中将のせいじゃない」


 バフォメットが低く笑っている姿さえ、ミゼルの目には入らない。

 ミゼルはスカーレットを陥れ、その名誉を汚した人々を苦々しく回顧した。スカーレットを血まみれ将校に仕立て上げたのは反王家勢力と公国だ。ミゼルを死へ追いやったのも同じ連中だ。それなのにスカーレットは、ミゼルを死なせた責を自らに感じているというのか?

 冷たい涙に目の前が霞んだ。言いたいことがあるのに、それを伝えたいスカーレットは此処にはいない。


「何でだ……中将が何をしたって言うんだ、中将はこの国に何もかも捧げているのに、何で……」

「姫は……生まれてしまったことが罪だからです」


 バフォメットの台詞は此処にいるミゼルを貫いてなお、スカーレットの存在の是非について言及した。思い浮かべていたスカーレットの姿は意識から遠ざかり、放たれた弾劾だけがミゼルの胸に突き刺さる。

 ミゼルは唇を震わせた。何を否定されているのか分からぬ感情の動きが去ると、怒りがふつふつと湧いて、手のひらが汗ばんでくる。


「姫は先の王アルフレッドから、そういう野蛮な血を引いている……現に、姫のために何人が死んだとお思いですか?」


 目を見開いたミゼルの脳裏に、四年前の戦場の景色が瞬いた。今此処にありもしない血煙と死臭を、深い傷のように穿たれた記憶が呼び覚ました。屍の襲(かさね)の中で、呪われた生涯を嘆くことさえ赦されなかったスカーレットは、血の海についた膝に息絶えるミゼルの頭を乗せて、うろのような目をしていた……


「クロード少将、あなたとて姫の存在によって生じた犠牲者なのですよ」


 ミゼルは気性の荒い蛇のように、低く灼けついた息を吐いた。ベッドの背もたれに寄りかかるバフォメットの襟を、気づいたときには掴んでいた。


「殺されたいのか」


 襟首を掴まれたままのバフォメットの表情は、毫も変わらない。面のような白い顔は、静かに激昂するミゼルを真っ直ぐに見据えている。


「わたしは姫の、最後の味方です。わたしだけが、姫を王にすることで彼女を血の業から救うことができる」


 ミゼルの手から、かすかに力が抜けた。バフォメットは淡々と、ミゼルに語りかける。


「あなたは姫を陥れた反王家を殺した。そして犯行はローランド大将に知れてしまった。あなたの道はもはや、塞がれたと言っていい」


 ミゼルはバフォメットの襟から手を離していた。

 スカーレットを傷つけた人々を殺したい──昏い希望にすがっていた自分を、ミゼルは見つけてしまった。

 救われたがっているのは、自分であったのだ。自分の存在を肯定したくて、スカーレットのためと思っていながらその心に傷を負わせていたのは、他ならぬミゼル自身であった。

 ミゼルの中で、ぽつりぽつりと光が瞬いて、消えていく。歩いてきた道が、顧みても仄暗く、消えた光のように温もりが果てていく。

 希望も退路も、一つ一つ塗りつぶされていた。ミゼルがすがれるものも、帰る場所もなくなっていた。


「わたしは姫が知らないあなたを、あなたが知らない姫を、知っています」


 ミゼルは何も言えなかった。バフォメットの言葉を、眠りに落ちる直前のような態で聞いていた。声が身体に落とし込まれていく感覚があった。数分前に何に対して反感を抱いていたのかが、もう分からなくなっていた。


「あなたは姫に国を捧げるために、甦ったのです。その罪深さは、姫に国を捧げぬ限り贖うことはできない」


 ミゼルはふらふらと立ち上がり、翳りを刷いた顔を俯けた。そして、ミゼルは笑った。

 低いが、気が狂ったような哄笑が、病室に響いた。

 傷をつけられれば血ではなく涙があふれそうな身体の芯が、少しずつ軋んでいく。そんな狂気の音色を聴いたのであった。


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