『消えた王妃の後に』

 いっそ自分が秘密裏に攫って、王家の血を引く者とは無縁の養女として育てようか──バフォメットは思い悩んだが、母である元王妃が自害したとなると、遺された娘を匿うことはできなかった。スカーレットは成人して母の家の家督を継ぐまで、また王城で暮らすことになった。

 スカーレットはバフォメットと共に王宮へ戻ったが、父王は会いには来なかった。宮廷は何やら慌ただしかった。スカーレットの母にゆかりのあった重臣たちは排除されていて、何故か執政官は代替わりしていた。古くから議席を世襲する貴族たちはスカーレットの存在を知っている者もいたが、スカーレットの出自については暗黙の了解として秘密にされた。城の小さな子供部屋に閉じ込められて、外部の者と話すことさえ制限され、軟禁のような暮らしを強いられた。

 スカーレットは日を追うごとに美しく、薔薇のように成長して行ったが、父と同じ赤い瞳は日に日に現実と大人たちの醜い事情に侵されて血色のルビーのような、悲壮な煌めきを増していった。



「髪を結うのは、これで二回目だったかしら」


 スカーレットは大きな鏡台の前に着席したままぽつりと呟いた。長い赤髪をきゅっと凛々しく結わいて赤い薔薇の生花を飾りとして挿しこんだのはバフォメットの手であった。宮中の女官は忙しくて、スカーレットに黒いドレスを持ってきたのもバフォメットであった。

 化粧っ気の欠片もないが、白い美貌は気高い血を感じさせ、目尻のわずかに上がった睫毛の長い大きな目は、嵐が近いときの黄昏の夕刻、その不吉な赤みを思わせた。

 落ち着いた口調、よく言えばそうかもしれないが、大人たちの勝手に振り回されることに疲弊したスカーレットの口調は硬く、老成していて、それでいて大人ぶった強がりがにじんでいる。本当はまだ親に甘えたい年頃であると思われるが、荒野にぽつんと一輪咲いている花のように凛乎とした風情が、事情を知るバフォメットには痛々しく思われた。凛々しく佇んでいるのではなく、放り出された、流浪者のような寂しさが、小さな背中から漂っている。


「お父さまはどうしているの? 新しいお妃が死んで泣いているの?」

「泣いてはいませんでしたが、ただ、お悔やみのようでした……ご自分の、愚かさを」


 喪章のついた黒服を着たバフォメットは、椅子にちょこんと座っているスカーレットに、事務連絡みたいに言った。スカーレットのそれをただ事務連絡として受け取っているようであった。

 連絡を聞いたスカーレットは、頭を飾っていた赤薔薇とヴェールをとった。緩く波を描く赤毛がぱらりと落ちて、花びらがこぼれるようにはらりと広がる。


「それは、よかったわ」


 バフォメットの口の中に、毒を噛んだときにも似た苦味が何処かから現れてじわりと広がっていった。

〝それはよかった〟──物分かりのいいスカーレットがすでに、母の自害という事実と、その原因が父にあることを知っていて、分かっていることを意味した感想であったからだ。枯れた花びらのような、かさついた感情……

 鏡に映った赤い瞳はくらくらと燃えている──スカーレットの子供らしくない賢さに、バフォメットは憐憫にも似た悲しみを抱いた。


(姫は陛下を)

(恨み憎んでいる……)

「侍女たちがお喋りをしているのを聞いたの」

「侍女? 何の話です、くだらないことを喋っていたのならば叱らなければ……」

「前のお妃(私のお母さま)に酷いことをしたから、新しいお妃がすぐに死んだって。天罰だと言っていたわ」

「天罰、或いはそうかもしれませんな」

「ねえ、執政官さま」


 スカーレットは鏡に向かったまま身じろぎもせずバフォメットに背を向けて、映っている美貌をわずかに傾ける。そして背後に映り込んでいるバフォメットに、まるで遠い世界へ声を投げかけるように問いかけた。


「私のお母さまは、どうして死んでしまったの?」


 ――分かっているくせに残酷な質問をするスカーレットに、バフォメットは何も隠そうとはしなかった。六歳だから分からないなどと思わず、理由と答えを大人の口から聞き出して納得しようとしている子供の悲しみを見出して。

 この赤い瞳に、


「陛下、姫の父君に卑賤の女として貶められて捨てられたからです」


 嘘など、つけぬと。


「先の妃、姫の母君は姫の父君、即ち陛下の心変わりで捨てられたのです。戦争でひとを殺して讃えてられることを当然とするくらいですゆえ、英雄は何をしても赦される。例え気分で妃を変えようと、娘の身分を落とそうと……」


 スカーレットは硬い表情を沈黙の中で佇ませている。


「姫は女性ゆえ、汚らわしく思うことでしょう。臣が申し上げたことの意味が真に分かる日が訪れたときに父君を憎むか赦すか……臣はその答えと姫の成長を楽しみに生きていくことに致しましょう」


 スカーレットは低く笑っていた。バフォメットは腕を組んで、スカーレットの笑みの意味を探った。


「こんなことを申し上げて、臣は姫から憎まれますな」

「貴方を憎んだりなんてしないわ、貴方には感謝しているの」



「私は卑しい荊、もうお母さまの天使にも、美しい薔薇にもなれない」



 スカーレットは椅子から立ち上がると、葬儀の後片付けに殺伐とした室外の声に耳を傾けた。


「私は今は子供だけれど、今に父の血の名誉を穢してやるわ。そうやって、お母さまにお祈りをするの」

「それも姫の自由です……地獄へ足を踏み入れる前に、ドレスのすそはしっかりからげることですな」


 スカーレットは薔薇が花開いたように美しく、そして傲慢に嗤った。


「からげるような、すそなんて……刻んで貴方に差し上げるわ」


 皮肉にもスカーレットがはじめて髪を上げたのは母の葬儀で、二度目の今日は新しい妃の国葬のためであった。

 赤い瞳を美しく歪めて、スカーレットはバフォメットの前まで歩を進めると、その手を取った。

 何をするかと思えば、手袋をした手を握りしめて、ただ嗤ったのだ。

 王宮という伏魔殿(パンデモニウム)にふさわしい強かで美しい美貌に、バフォメットは──宮廷悪魔は心奪われる思いでその手を引き寄せ、スカーレットを抱きしめて祝福したのであった。


 バフォメットの追憶を現実へと呼び戻したのは、扉をノックした控えめな音であった。

 バフォメットは瞬きも、返事もしない。入ってきたのはスカーレットで、バフォメットはふっと笑った。スカーレットもつられて口元を笑わせた。それでも、赤い瞳は笑っていない。

 スカーレットは点滴の管につながれたバフォメットを見下ろした。重く伏せていた長い睫毛が、瞳に暗い影を落とした。怒りとも咎めともつかぬ、限りなく悲しみに近い、スカーレット自身でさえ己の内の曖昧を噛み砕けていないような目をしていた。

 理解に苦しむ声が、問いかける。


「どうして……私がアルフレッドん娘だと明かしたの?」

「姫も分からず屋だ。臣の心を奪った罪は、即位でしか贖えない。臣は姫を、愛しているのだから」

「余計なことをしてくれたな、私はもう……」

「姫ほどこの国を想う者はいない」


 場違いな祝福めいた言葉であったが、バフォメットの全ては、手負いの身にも拘らず明晰である。態度、声、意思、そしてスカーレットを見据える目の光、その全て。


「薔薇の玉座は姫のものだ。姫が戦場でその手を血塗らせてこの国を守る間のうのうと暮らしてきた貴族どもや、蝶よ花よと育てられた殿下がその高貴に触れることを臣は赦さない。臣は守るべき本物を、ようやく見つけたのです」

「お前には……何もできない」


 スカーレットはガーゼの上から包帯を巻かれたバフォメットの傷を見た。自分が刻んだ深い銃創をにべもなく一瞥して、バフォメットにそびらを向ける。


「姫はお忘れか? 臣と似た志を持つ者の存在を――しばらくは、彼に代わってもらいますゆえ」

「彼?」


 スカーレットはドアノブに手をかけた手を止めてバフォメットを顧みる。

 バフォメットは不吉に呟いた。


「反王家の粛清と共に」



 病室を後にしたスカーレットは、暗い王宮を静かに歩いた。明かりのない屋内以上に、明日が見えなかった。国民にはまだ自分が王女だということは知られておらず、母である元王妃と共に死亡したことになっているので出自は伏せられたも同然であるが、知れ渡るのは時間の問題だ。

 暗澹と俯きそうになったとき、軍人寮へ続く道に影が二つ見えた。

 メリルとダズマールである。スカーレットは立ち止まり、何か言おうと思ったが、思いが言葉になることはなかった。自分で思った以上に、重い溜め息がこぼれただけだ。


「スカーレット、悪かった。本当に、おれは何てことを……」


 沈黙を破ったダズマールに、スカーレットは拵えた笑みを添えて返した。


「お前はバフォメットに利用されていただけだ。ダズ、気にしないで」

「でも……」

「悪いと思うなら、私と約束してほしい」

「約束?」


 困惑と詫びを言葉にできないダズマールに、スカーレットは踏み込んだ。血のような赤い明眸は同期としてではなく、信頼する相手を見る力強さが光る。凛とした美貌がにじませる気色は、とても強固な気迫を湛えていた。


「私はメリルを王にする。だから、私が何者であろうと、お前もメリルを王にするために励んでほしい――メリルを王にすると、私に約束してほしい」

「…………」

「私は、メリルを愛している」


 スカーレットにダズマールへの怒りなどなかった。ダズマールはバフォメットに利用されていただけだ。スカーレットの出生を暴く公文書を運ばせるために、バフォメットはダズマールを公国に遣ったのだ。

 処分したつもりでいた出生証明だって、バフォメットがスカーレットの血を暴くために本物を隠し持っていたと思えば、ダズマールに感じる怒りは微塵もない。

 ダズマールは頷いた。沈黙があったが、その時間はダズマールがスカーレットの意思を飲み込むのに要した時間であった。ダズマールはスカーレットを尊重することを自らの正義としたのである。


「分かった。スカーレット、おれはお前の意思に従う」

「ありがとう、ダズ。恩に着る」


 スカーレットは短く礼を述べて、メリルを顧みた。メリルはスカーレットとダズマールのやりとりを少し離れた場所から見つめていた。心許なく佇み、下がった眉尻の下で、金の瞳の光が自らの存在を罪と思うような悲しみに昏い。


「姉さん……」


 メリルはダズマールという第三者が居る今、はじめて人前でスカーレットを姉と呼んだ。誰かに対して自分とスカーレットは姉妹なのであると言える嬉しさと、現状の複雑に噛まれているメリルに、スカーレットは歩み寄る。

 スカーレットはメリルを抱きしめた。メリルもまたスカーレットにすがるようにして抱きしめ返す。


「大丈夫よ、メリル」


 スカーレットは目に涙を浮かべたメリルの肩を抱いて、凛然と、しかし優しく言った。


「何があろうと、私はメリルの味方だと誓う。私が、ついているから」


 新たな荊道を遥かに見据える心地で、スカーレットは微笑んだ。妹のドレスのすそに、傷一つつけさせぬと、今一度刻んだのであった。

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