『王女の真実』
議会が急遽散会になり、スカーレットに射撃されたバフォメットは王宮の病棟で夜を迎えていた。壁に掛けられた執政官の紋章がついたマント、そこに飾られている赤薔薇のコサージュを、見つめていた。痛みに眠りもせず、思い馳せた過去を休みもせずに……
「スカーレット姫……」
うわ言のように呟いて、バフォメットは暗い病室の天井を仰いだ。
思い返していたのは、十五年近く昔のことであった。バフォメットにとっては十五年など、短いと言ってもいい期間であったが、メリルが生まれる前の一年半ほどの期間は、〝帝王製造機〟として〝宮廷悪魔〟として国政の傍らに長居するバフォメットにとっても密度の高い時間であった。
そして何より、苦かったのである。
王家に生まれた子供が男児の時は生後すぐに披露されるが、女児の場合は明確な決まりはなく、スカーレットの国民へのお披露目を控えた一年前のことであった。スカーレットは五歳になっていて、六歳の誕生日に両親である皇帝と妃と共に都で華々しいパレードを行い、国民の前にはじめて立つ予定であった。
「内密に……離縁の準備、ですと?」
内側から施錠された皇帝の執務室にて、呼び出されたバフォメットは温かみに欠けた目を見開いていた。だが驚きに声をうわずらせなかったのは流石と言うべきか、苦い顔をしてゆるりと長い脚を組む。
その首席執政官バフォメットをもってして頭痛をもたらせる発言をしているのは、向かいに座る皇帝アルフレッドそのひとだ。皇帝は明日の予定を確かめるような事務的な口調で言った。
「今の妃を離縁して隣国の王女ヴィヴィアンを妃に迎えようと思っている」
「隣国のヴィヴィアン王女? 確か四年前でしたか、パーティーでお会いした……」
「そうだ。遠征や合同演習を口実にたびたび会っていた」
バフォメットはばさばさの黒髪を掻いて嘆息した。皇帝の強かさに狡さ、そしてあまりの自分本位ぶりに頭からも口からも窘めの言葉なんて清々しいくらいに霧消してしまう。
「アン王妃でさえ後ろ盾のない没落貴族の娘だったのを無理を通して妃にしたというのに、陛下は我々が他の高位貴族たちに示しをつけるのに骨を折ったのをお忘れか?」
「勿論、貴官には大恩を感じている。バフォメット、貴官こそこの宮廷の歴史……祖父の代より以前から戦の技術と繁栄を授けれくれたこと、感謝している」
「陛下、今は臣に礼を言っている場合ではありません」
主席執政官の不揃いな前髪の間で、昏(くら)い灰の瞳が閃いた。歪んだ口元からは、帝の勝手を釘で打ち殺すような低い声が軋る。
「妃と離縁など……国教が、信仰が赦さない。赦すはずがない」
バフォメットの発言は尤もであった。この国が長年信仰の対象としてきた国教は、離婚をよしとはしていないのだ。バフォメットは遠回しであれ、アルフレッドに離婚などはありえないと伝えた。信仰と神を掲げれば、自分の訴える正当が響くと思った。
しかしアルフレッドは身を翻すように鮮やかな次の手を切り出してきた。それはバフォメットの予想の遥か上を行くものであった。
「ならば改宗する、国教そのものを改める」
「か、改宗!? 陛下、正気で――」
「離婚の可不可のみを変えてしまえばいい」
バフォメットは低く呟いた。面妖で中性的な顔には濃い影が落ちていた。冷静を装っていたが、大恩があると言っておきながら恩知らずな考えを展開するアルフレッドに対して、知らず知らずのうちに手のひらを握りこんでいた。そう、今の妃との結婚だって、宮廷で勢いのある権力者の娘との縁談を全て蹴った末の結婚であったから、買った不興と後処理を執政官たちが押し付けられた記憶が苦々しい。
今の妃の肩を持つつもりもなかったが、バフォメットは苦い表情のまま、アルフレッドに問うた。
「アン王妃には何の後ろ盾もありません。父親の伯爵も、母親の未亡人も亡くなっている……陛下の庇護だけが彼女の頼りだというのに」
「貴官にしては珍しいことを言うな? 宮廷悪魔の名が泣くと言うものだ。私の心はもう、アンから離れただけの話。愛というのは残酷だ」
「……そのような愛などを語った日には、陛下は世界中の女性から八つ裂きにされましょう。お心変わりされたのならば、最初からそう言った方が見苦しくない」
アルフレッドははじめて赤い瞳をぎらりと剥いた。横暴な光が焼灼されて、めらめらと燃えていた。
「そのような皮肉を次にまた言ってみろ、悪魔……例えそなたであろうと生きたまま火あぶりにしてくれる。そなたら執政官の仕事は国教を改めることだ!」
軽く唇を噛んだバフォメットに、アルフレッドは最後の一撃を放った。
「改宗は今月中だ、次の妃の子供を、私生児にするわけにはいかない」
「次の妃の、子供?」
アルフレッドの発言にバフォメットは瞬く間もない刹那のうちに最悪の状況と、帝が妃との離縁を急ぐ理由を悟った。白面が、霜が降りてしまいそうなくらいに、褪めていった。
「まさか王女は身籠って……」
「そうだ、私の子供だ。血筋も申し分ない」
「………………陛下、あなたは英雄だ」
心変わりして妻を変えようと、そのために信仰をねじ曲げようと、誰も文句は言えない――そう含んだ敗北の台詞を残して、バフォメットは席を立った。
「何てことだ」
後ろ盾のない王妃の生家を黙らせることも、アルフレッドの弟が大司教を務める国教を改宗することなどきっと造作もない。
だが、あの母娘はどうなる? あのいたいけな王女はどうなる? アルフレッドは彼女らの、特に王女の処遇をどうするつもりか?
帝に何かあったときにこの国が揺れることは確実であると、バフォメットはみた。そして何より、あの美しい王女の内に、次なる次期君主の素質を〝帝王製造機〟の瞳は見通していた……
(今の年齢の王女に言ったところで事情など分かるまい、だが)
(彼女が将来、今件の真相を知ったとき、何を思うか……)
思えばアルフレッドは王太子時代から、否、生まれる前から英雄になることがバフォメットには分かっていた。別に傀儡がほしいわけではないのだ。ただ国という生き物の生き死にを、成り行きを楽しみたくて長年執政官という立場に甘んじてのらくらとやってきた。
しかしアルフレッドは自分が玉座につけた王だとはいえ、
(英雄になれば横暴が許されることを分かっている……まるで)
「執政官さま?」
「!」
まるで、確信犯――険しい顔を保ったまま廊下を歩いていたバフォメットはぎょっとした。赤い薔薇の花を無造作に抱えたスカーレットが、きょとんとした顔をして立っていたからだ。
「スカーレット姫……」
今までの、帝とのやりとりが生々しく頭をかすめて、バフォメットは柄にもなく動揺した。何の罪もないスカーレットは一日一日と母妃のように麗しく、父皇帝のように凛とした美貌に成長していて、悪魔呼ばわりされている自分でさえもスカーレットの運命を思うと胸がずきりとした。
バフォメットはスカーレットの前に跪いてしゃがみ込んだ。
「姫、その薔薇はどうされたのです?」
スカーレットは微笑んで答えた。笑顔も気品を帯びていて、すでに薔薇の王家の娘として充分な品位が漂っている。
「中庭で摘んできたの、お母さまに差し上げようと思って」
「そうですか……」
「執政官さま、どうしてそんなに暗いお顔をされているの?」
「……」
帝との話の内容は口が裂けても言えないが、子供というのは大人の表情に敏感なことをバフォメットは忘れていた。心を透かされてしまうほど取り乱していたことを恥ずかしく思いながら、適当なことを言って濁す。
「先程、少しばかり陛下からお叱りを受けまして」
「お父さまから?」
するとスカーレットは赤い薔薇の、二番目に大きな花をつけたものを一本差し出してきた。バフォメットは驚いて、垂れ気味だが温かみのない目をしばたたく。
「執政官さまにあげる。一番綺麗なのはお母さまのだけれど、これはあなたにあげる。だっていつも、お国のために頑張ってくださっているんでしょう?」
震える息をついて、小さな手が差し出した赤薔薇を受け取る──何と言えばいいものか、此処まで迷ったことはなかった。だからせめてもの礼として〝帝王製造機〟としての祝福を、バフォメットは幼い王女に贈った。
「……臣はこれから何人の王子や王女が生まれてこようと、貴女だけを唯一の薔薇と致しましょう。スカーレット姫、今後臣が姫とお呼びするのは――」
バフォメットはよく分かっていない風情のスカーレットの美貌を毅然として見つめ、賜った薔薇を胸に当てた。
「スカーレット姫、貴女だけです。貴女以上の者は、現れないと申し上げてもいい」
小鳥みたいに首を傾げたスカーレットの前で立ち上がり、バフォメットは言った。眉山のない鋭い眉が、日頃の飄逸さを嘘のように消し去っていた。
「お心を強くお持ちください、姫。今は不可能ですが、いつか必ずや臣が」
バフォメットはそこで言葉を留めた。廊下の先で、王妃が怪訝そうに此方を見ていたからだ。胸に薔薇を挿して、スカーレットの肩に手を置く。
「スカーレット姫、後ろに母君がいらっしゃいます……花を差し上げるのでしょう?」
「あっ、お母さま!」
不審げに見つめてくる妃に会釈して、バフォメットは身を翻した。首席執政官の紋章が入ったマントをひらりとはためかせる。
(帝は何と言ってあの二人を切り捨てるおつもりか……)
棘は切ってあるはずの薔薇が、胸を刺して血を滴らせる心地がした。
(次の帝が決まるときには荒れることだろう、必ず、荒れる)
(姫はどんな未来を望むのだろうか、そして、わたしは――?)
非情にもアルフレッドの帰依する宗教は陰謀めいた早さで改宗され、帝国の国教そのものが改められたのはわずか一週間後──期日よりも三週早かった。
改宗したその日にアルフレッドは王妃アンに一方的に離縁を言い渡した。愛人を捨てるでもあるまいに、多額の手切れ金と共に……
突然切り出された離縁、離婚のために国教を変えるという横車を押したこと、すぐに結婚した新しい妃が四年前に自分も知り合っていた隣国の王女で、その胎に子がいること――何もかも全てが、夫であるアルフレッドを信じていた王妃に一生消えない傷をつけた。何の後ろ盾もない没落貴族令嬢でしかなくなった元王妃を見放すことで文句を言う者は誰一人いなかったが、元王妃は一つだけ、周囲の貴族やアルフレッドに譲らなかったことがあった。アルフレッドは激昂したが、これには誰もが元王妃に同情して、重役たちがアルフレッドを説得することとなった。
スカーレット、一人娘の件である。
アルフレッドはスカーレットの親権を主張した。王家の血が流れるスカーレットを手元に置いておきたいという理由であった。これから妃となる隣国王女を、スカーレットの義母としても迎えればいいとさえ言った。
〝陛下は私を卑賤の女に堕とされた〟
〝あの罪のない美しい子を卑賤の娘にしたのはあなた──そんなあなたに娘は渡しません〟
元王妃の最後の意地に冷たく加勢したのがバフォメットであった。バフォメットの言葉で、アルフレッドはようやくスカーレットの親権を諦めたのであった。
〝そうこだわらなくとも、陛下にはこれから、新しく子が生まれます〟
かくしてスカーレットは母に引き取られて母の生家であるデネロス伯爵家に連れていかれた。
六歳のお披露目を目前に控えて、スカーレットは王女から一転、私生児となったのである。
「――私、あのとき貴方のことを何て冷たい方なのかしらと思ったわ。でも、陛下にスカーレットを諦めさせるためだったなんて。謝らないといけませんわ」
スカーレットが六歳になって数ヶ月、赤髪を美しく伸ばして背中に散らし、ますます母に似た美貌に磨きがかかってきて美しいスカーレットとは反対に、母である元妃は伏しがちになっていた。
「謝る必要など」
元王妃ベッドの傍に立っていたバフォメットは、さっと首を横に振った。此処へ来ているのは勝手な善意だと言わんばかりに恭しく伏せられた睫毛は案外長いが、ゆっくり持ち上がった瞼の間から覗く灰色の瞳は黒色ではないのにかかわらず闇より昏い。
「あの場では陛下をいさめる方が重要だと臣は踏んだのです。謝るべきは臣の方、陛下を止められず、女伯には悲しい思いをさせてしまった」
アルフレッドには秘密で、バフォメットはたびたび元王妃とその娘スカーレットを訪ねていた。バフォメットは元王妃が宮廷にいた頃より親しくしていたわけではなかったが、スカーレットが気になって、元王妃への訪問というのはスカーレットの様子見に近かった。
勘が訴えるのだ。帝王製造機の、第六感が。その憶測がなければ──
(わたしは、此処にはいまい……)
「執政官さまっ!」
「! スカーレット姫」
元王妃と話をしていると、声を聞きつけてスカーレットが駆けつける。膝丈の赤毛を揺らして、また薔薇の花を一抱えにしている。バフォメットはスカーレットに会釈すると、笑みを拵えた。
「その薔薇はどうしたのです、姫?」
「お母さまのお傍に飾るお花を摘んでいたの、執政官さまにも一つだけ差し上げるわ。会いに来てくださったお礼に」
スカーレットは花瓶に赤い薔薇を生けると、一本だけ手に取って戻り、バフォメットに渡した。
「どうぞ」
「これはこれは」
バフォメットは唇の端に微苦笑を溜めて薔薇を受け取ると、スカーレットの小さな手を取った。その柔らかい手の甲に口付ける。
「有り難き幸せ……この薔薇よりも美しい姫に感謝を」
元王妃はうっそりと影のように微笑んで、その様子を見つめていた。
「お姫さまと騎士様のようですわね」
「ご冗談を、女伯。臣は姫にふさわしい騎士にはなれますまい……また伺います、これにて失礼」
バフォメットが頭を垂れて退出しようとしたとき、目の端に映った元王妃の生気は酷く霞んでいて、鋭い眉を片方だけぴくりとさせたが──挨拶を済ませた手前、長居は無用と背を向けて部屋を出る。
「可哀想なスカーレット……」
廊下に出たバフォメットの元にも、元王妃の涙にかすれた声は聞こえた。思わず立ち止まり、立ち聞きは悪いと思いつつも靴底から根が生えたように動けなくなる。
「貴女は望まれて、祝福されて生まれて来たはずだったのに……どうしてこんなことに」
「私の可愛いスカーレットを、あのひとたちが……」
廊下に立っていたバフォメットと見送りの侍女の間に気まずい沈黙が流れた。元王妃の言うところの〝あのひとたち〟というのは間違いなくアルフレッドと後妻である新しい妃のことだ。
バフォメットはじろりと侍女を見やって、視線だけで元王妃の近況を問いただした――いつもあのようなことを言って、泣くのかと。
侍女はとても言いづらそうに、
「奥様……あのようにお悲しみなってお泣きになったり……その、陛下への恨み言を」
「…………そうか」
バフォメットは沈痛な面持ちで、石化したように重い足で再び絨毯を踏みしめた。あの影の薄さが妙に引っかかって、胸の中で暗くわだかまったが、玄関へと歩を進める。
「執政官さま」
「? スカーレット姫? わざわざ臣の見送りにいらしたので――」
ふいにスカーレットの声に背中を叩かれ振り向いたバフォメットは、灰色の垂れ目をかっと剥いた。侍女は青ざめる。
スカーレットの両手とクリーム色のドレスが血まみれであったからだ。なのにスカーレットは泣きもせず、綺麗な赤い瞳をぱちくりさせて、何が起きたのか分からないといった表情であった。怪我をして血を流しているわけではなさそうであるが……これは一体!?
「姫、その手は!?」
スカーレットはとつとつと、舌足らずな言葉で説明した。
「お母さまが、真っ赤になってしまったの、執政官さま」
嫌な憶測が血を噴くように芽吹いた。バフォメットは目の色を変えてスカーレットを抱きかかえると、元王妃の部屋へ走った。血が垂れた跡を踏むように引き返して、開けっ放しであった扉を吹き飛ばす勢いで室内に飛び込み──そして凍りつく。
芽吹いたのは憶測ではなく、むせるような、鉄の匂い……
「女伯……」
嫌な予感からしぶいたのは生臭い海老茶色と深紅の血であった。
元王妃、スカーレットの母の首、頸動脈と頸静脈に深々と傷をつけた刃の厚い短剣が、だらりと力を失った青白い手元に落ちていた。白い寝間着とベッドが、血を吸ってむせるように濃密な匂いを放っている。傷からは高圧の血液が噴出して広範囲を汚していたが、切り傷からまだ少量の、脈打つような出血があった。
まだ心臓が動いている――バフォメットは元王妃に駆け寄り、スカーレットを置いてその細い身体を抱き起こした。深い傷からは余程の覚悟と無念を感じさせて、生霊が身体から、今も刻一刻と抜け出ているようにさえ幻視できそうであった。血ではない、命ではない、何かが放たれている――
「女伯、何を血迷われて」
「赦さない……」
「女伯?」
元王妃の白い膜が下りた青い目に映っていたのは、恩人である首席執政官の姿ではなかった。邪毒に燃える碧眼に映っていたのは、憎くて、憎くて、憎い──高貴な身を娘もろとも卑賤へと堕とした男の幻。
元王妃はバフォメットの腕に、血の染み込んだ爪を立てて、執念を刻み込むように最期の力をこめた。
「あなただけは赦さない、赦さないわ」
暗い呪詛を吐いた血濡れた唇が動かなくなる前に、その憎しみが作り上げた形相の恐ろしさ、あのたおやかな美女の恨みに変わり果てた様が戦慄となって、バフォメットは忌まわしいものにでも触れてしまったのような錯覚に襲われる。元王妃の身体に触れることがおぞましくて手を離し、後ずさった。
「執政官さま、お母さまはどうなさったの?」
「何ということだ…………」
バフォメットはスカーレットの問いかけの無邪気さにさえ、震えを禁じえなかった。
元王妃、デネロス女伯爵アン・ハークネスは自害した。奇しくも新たな妃が珠のような第一王女を産んだ頃であった。
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