『帝王製造機』

 バフォメットがスカーレットを連れて入ったのは、誰も立ち入ることのない自らの書斎であった。壁一面が本棚になっている、圧迫感の酷い部屋だ。床にも、棚に入りきらない本や紙が積んである。地震でも起きたら分厚い本たちは鈍器となって降り注ぐこと請け合いだが、スカーレットはこの場所には何度も入ったことがある。

 内密の話をするときなどに、バフォメットはだいたい此処を選ぶのだ。臣下の中で一位、王の大側近ながら派閥を持たないゆえに、出入りする部下さえいないから、そういった話の際にはちょうどいいのであろう。

 バフォメットはスカーレットに、話の核心をいきなり話した。瞠目したスカーレットに背を向け、その驚きが生んだ静寂(しじま)を味わっているようであった。

 スカーレットは聞いた直後こそ薄い唇をわななかせたが、すぐに落ち着いた。秀麗な眉目に力が入った。表情こそ険しいが、鼓動は静かであった。


「メリルは……知っているのか?」


 バフォメットは首を横に振った。ばさばさの黒髪が、揺れた。


「陛下自身と侍医、臣と――姫のみです。殿下は知りません」

「余命は?」

「不明ですが……この分だといつ死んでもおかしくない」


 たっぷりの沈黙の裡に、スカーレットの脳裏にどうしてか母の記憶が瞬いて消えていった。ゆっくりと、たくさんの日々が、時間をかけて弾けた。

 その日の愛しさの内に居たのは、母だけであった。かの人物が何処にも、心の片隅にもいなかったことにむなしさはなく、代わりに妙な安堵があった。

 過去は、今の自分に、何の関係もないと、思えたのかもしれなかった。


「…………それはよかったわ」


 スカーレットが愛想なく呟くと、真剣に話していたバフォメットは一転してふっと笑った。どうやらスカーレットの反応がどのようなものか、見ていただけであったらしい。


「そう仰ると思いましたよ、姫ならば」


 重大な話なのにも拘わらず、脱力した素振りさえ見せて、バフォメットは笑っていた。だが軽いのは口調だけで、垂れ気味の目の奥では昏い色が明滅している。


「偉大な王には、その偉大さゆえに病さえ赦されない」


 優しげなのに温かみのない垂れ目の中で、灰色の瞳に映るスカーレットは、沈毅な面差しを保っている。

 バフォメットは腕を組んで中空を仰いだ。


「この国は岐路に立たされることとなる。臣には分かっていたことですが、次の君主は荒れに荒れて決まることになりそうです……嫌な予感、否、確信は確信のままで変わってはくれなかった」


 スカーレットは苦く吐き捨てた。


「公女か」

「公女以外にも問題は山積みですが、あの女が王位を主張してくるのはまず間違いないと構えていたほうがいい」


 バフォメットは目にかかる長い前髪を払いのけた。スカーレットの内を無理に透かそうとしたような、静かで、氷がグラスの中で揺れるような鋭い輝きが、じっと此方を見ている。スカーレットは何も思っていない表情で佇んでいた。事実、スカーレットに感傷はなかった。淡々と、現実に耳を傾ける。

 王が死のうと、自分は何の痛痒もない。

 バフォメットは黒い手袋をした指先で、胸に咲いている赤薔薇のコサージュを撫でた。かつて生花であった氷漬けの命は、果てて変わって、久しい。


「姫が望む未来を、臣は知りたい」


 望む未来――そこに含まれた意味、もう一つの問いかけがなされていることにスカーレットは気付いていた。バフォメットはもう笑っていない。今自分は、意思を問われているのだ。

 スカーレットは紙と同じ色の赤い睫毛を伏せてから、ゆっくりと瞼を持ち上げた。腰に佩(は)いた軍刀の柄を握りしめる手に、力が入る。


「私はメリルの忠実な剣となって、この国を守りたい」


 バフォメットは俄かに白けた顔で口を半開きにした。ややあって、確認の為の問いを重ねる。


「本当に?」

「メリルこそが私の生きがいで、私が軍人になった理由だ」

「……小さかった姫ももう二十二歳、か。臣が姫の軍籍入りを反対したのをお忘れか?」


 バフォメットは泣くような表情でいながら、声は笑っているときと同じであった。

 スカーレットは身長が高く、一八〇センチほどのバフォメットよりも少しばかり小さいくらいで、ほとんど差はなかった。スカーレットは何も言わずに赤い瞳をバフォメットに向けていた。何も言わずに開いての目をじっと見ることが、スカーレットの意思であり、攻撃であった。


「臣は姫に……美しいものだけをみて生きていてほしかった」


 スカーレットはにべない返事をした。


「無理だ、私はメリルのようにはなれない」


 ――王が、アルフレッドが訪ねてきたのはそのときで、王はスカーレットを見ると足をすくませた。

 バフォメットは王の方へと歩きながら、すれ違いしなに、スカーレットに囁いた。


「この伏魔殿(パンデモニウム)にふさわしいのは貴女。王は臣の思うがままで、臣が姫を愛していることをお忘れなきよう」


 バフォメットが王と出て行くと、スカーレットは一人書斎に取り残された。

 子どもの頃は父以上に後見人役をしてくれていたバフォメットの〝宮廷悪魔〟ではない綽名を知ったのは、軍人になってからであった。

 〝帝王製造機(キングメーカー)〟バフォメット――ボーフォート朝の始祖の代から王に仕え、その恐るべき予見で次の王を見極め、君主の首をすげ替え続けてきた怪傑。

 歴代の王たちは自分を王にと決めたこの宮廷悪魔を邪険にすることがあるはずもなく、バフォメットは首席執政官という黒幕として君臨しているのである。

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