第4章 実行

2日目、犬追物

 練習試合2日目。

 鈴木舞香は弓袋に入った和弓とリュックを背負い、弓道場へと歩いていた。澄んだ空の下、吹き抜ける風が、腰まで垂れる黒いポニーテールを揺らしている。白い弓道衣、黒色の袴姿。足元の白いスニーカーは小気味よく歩道の舗装を蹴り歩いている。

 背の低い木々が葉を揺らし、緑鮮やかな並木通りを歩き、やがて見えてきた、横に長い白い外壁と、ガラス張りの自動ドア。

 鈴木は駐車場に停まる銀色のバンに視線を向ける。もう誰も乗っていない、他の選手の車両もチラホラと停まっていた。銀のバンを横切り弓道場を目指していった。

 鈴木は立ち止まり視線を玄関に向けた。複数の紺色の弓道衣姿、学連役員が建物内に入っていくのを見つめた。そして鈴木は小さくつぶやいた。


「ふふふ。学連さん、おはようございます。昨日はありがとうございました。おかげさまで……私の目的は達成できそうだわ」


 鈴木のまぶたが細くなる。狩人のように獲物を見定めるかのような鋭い視線。鈴木は昨日の出来事で、目的達成へと近付いていくのを感じていた。リュックの中には、板野宇美がお手洗いに忘れていった、茶色い無地のポーチ。それを見つけた時、鈴木は心の中でほくそ笑んだ。優秀な学連役員を欺くいい材料になると。


「結果的に、状況からして普通に考えれば、金髪男の矢摺籐に色を塗るのは、板野宇美と判断する。賢い人なら、理屈的に考えればそうなる。そして……私のコメントを読んだあの人は、ポーチを忘れてしまうほど、気が動転した」


 鈴木は確信していた。遠藤の矢摺籐に色を塗れば、優秀な学連役員なら気がつくだろうと。優秀であるがゆえ、そのプライドにかけて、必ず犯人探しをするだろうと。特に……長い襟足を持つ藤本拓真の洞察力は凄まじい。鈴木は知っていた。

 去年の地方大会で、決勝戦に残ったある選手の細工を見抜いた拓真の姿を見たからだ。それは、退場する間際に。―――遠藤と似たような細工をしていた矢摺籐の目印を見抜いたのだ。その選手の的中は「✕」、外れだった。表向きには出なかったが、失格となっている。

鈴木はその光景を、試合会場であるアリーナの観客席から見ていた。地方の大学が優勝をかけて戦う試合を、純粋に弓道家として観戦しに来ていたのだ。それも、同じ国体選手である黒咲このみと共に。

 だが、なぜか表向きには公表されなかった。

 鈴木は新規でアカウントを作成し、SNSを使いこの事実を拡散しようとした。だが……コメントは荒れた。それは、板野のコメントが原因だった。

〝証拠でもあるわけ? 選手が可哀想……〟

 そして、他のコメントではそれに同調するかのように、そんな事は弓道家としてあり得ないと否定され、鈴木は叩かれた。困惑し、どうしてなのと疑った。

 なのに、板野宇美が遠藤の弓の事でコメントしても叩かれない。それは〝噂〟という曖昧な要素、そして板野宇美をフォローする信者のような者達による防衛力によるもの。

 そして鈴木は黒咲から聞いたのだ。仮面を被る、裏アカウントの存在を。

 相反するその言動に、鈴木は板野に対し、次第に恨みが募っていった。自分の事を棚に上げ、人の事は誹謗中傷するくせに、なぜそんな理不尽な事実がまかり通るのか。ただ美人で弓道が上手いというだけで、世間はその事実を、人気や見た目だけで判断するというのか。差別とも汲み取れる偏見、鈴木には不快でしかなかった。

 そして偶然にもこの練習試合が決まった時、鈴木は板野を晒すべく今回の犯行を計画した。

 たとえ誤報であるにしても、成功すれば、〝板野宇美は事実上の没落。失敗しても、学連が無能といった事実〟で終わる。だが鈴木は警戒していた。―――藤本拓真に。


「優秀なんでしょ? 襟足の長い学連さん」


 鈴木は再び歩き始め、狩人としての気配を消し去る。情報屋としての鈴木舞香を演じるべく、黒いポニーテールを揺らし、ガラス張りの玄関へと近付く。

 鈴木の和弓、〝その矢摺籐の隙間〟は昨晩のうちに、もう木工用ボンドで固定してある。証拠は隠滅した。鈴木を犯人と特定出来る材料はない。

 そして玄関から出てきたのは、インカムを着用し、紺色の弓道衣に身を包む名探偵。

 藤本拓真、3年生―――襟足の男だった。


「おはようございます、襟足の長い探偵さん」


 ***


 拓真は腕時計で時間を確認する。7時15分。練習の開始は9時00分からだ。

 拓真は和弓を抱える鈴木の挨拶に、返事をした。


「おはようございます、鈴木さん。早いですね」

「ええ、サンドイッチも2人分持ってきましたよ? 道具を置いてくるわ」

「え!? ありがとうございます。じゃあ自販機コーナーで待ってます」


 鈴木は黒いポニーテールを揺らし、弓道場の控室へと向かう。拓真はその間、自販機コーナーへと向かった。まだ誰もいないようだ。拓真がベンチへと座ると、インカムのマイクに向かって喋った。


「藤本です、10時00分までの間は、予定通りお願いします。特に成安は、射場を頼みました」


 インカムのノイズか鳴る―――。


《分かった。でも一言いいか、私の謝罪は君にかかっている。本当に大丈夫か!?》


「分からん、でもやる価値はある。任せろ」


 電子音が鳴り終え、拓真はマイクから手を離す。しばらくして、手にサンドイッチを持っている鈴木が歩いてきた。拓真は何を飲むのか鈴木に聞いたあと、自販機でブラックコーヒーとカフェオレを買った。ガタンッと落ちてきた温かい缶を手に取り、ベンチに座る鈴木に手渡した。鈴木は意地悪そうに笑う。


「まいどありがとうございま〜す」

「はぁ……とりあえず一本でいいんだな?」

「ええ。コレ、お1つどうぞ」

「ははは、すまない。ありがとう」


 拓真は鈴木からサンドイッチを受け取り、鈴木の横へと座る。右耳に着けていたイヤホンを、左耳へと着け替えた。そしてツナサンドにかぶりつく。

 鈴木は小さくサンドイッチをかじると、カフェオレを一口。鈴木は顔を左に向け、拓真に犯人探しの進捗状況を聞いた。


「情報ってのも、正直どこまで犯人探しが進んだのかで変わってくるんだけど。何か進展はあったのかしら?」

「それがな〜。2人までは絞れたんたんだけど、全部推測の領域なんだ、決定的な証拠がないんだよ。昨日の立ち稽古を撮影した映像も見たんだけど、お手上げでね」

「……そう。動画を見ても、駄目だったのね。そうね〜」


 鈴木は何か考え事をする様子で、小さくツナサンドを口に運んでいく。拓真は半分程度までかじると、ブラックコーヒーを飲む。

 涼しげな風が吹く、鈴木は言った。


「昨日の事になるのだけど、お手洗いで板野さんのポーチを見つけたんです。ちょっと嫌味っぽく伝えたら、板野さん、怒ってました」

「……ポーチ? 板野さんの?」

「ええ。SNSで画像をアップしたんですけど……もしかして、やってないんですか?」

「ああ、俺はSNSやってないんだよな。他のメンバーはやってるけど。すると、昨日伊田が言ってたのはその事か」

「伊田さん?」

「ほら、掲示ボードに試合の記録を掲示している、眼鏡を掛けた女性役員の事だよ」

「あの人ですか」


 鈴木は顔を正面に戻すと、ツナサンドを口に含む。拓真は残ったサンドイッチを頬張ると、コーヒーを流し込んだ。

 拓真のイヤホンから、ノイズが鳴る―――拓真はイヤホンに手を添え、マイクを持った。


《小野田さん、来ました〜》

 

「それはそこじゃない。反対側に移動させといて」


 拓真がマイクに向かって喋る様子を横目で観察していた鈴木が、一瞬目を細める。拓真は正面を向いたまま、鈴木に言った。


「突然すまない。鈴木さんから情報を聞きたくて、俺が準備する仕事を他の役員に押し付けてきたんだ」

「そうなんだ、ふふふ。やっぱり変わった人ですね」

「みんなそう言うよ。ま、俺はこの事件を真剣に推理したいと思って行動している。俺がやりたいからやるんだ」


 鈴木はニッコリと微笑むと、ツナサンドを口に運び進める。ふと、鈴木の視線が右に動いた。小野田だ。

 袴姿の小野田が、自販機に向かって歩いてきていた。拓真は平常心を装い、こちらに歩いてきた小野田に声をかけた。


「小野田さん、おはようございます」

「おはようございます。拓真さんがいると思って来てみたら、鈴木さんとモーニングっすか」

「まぁな、話を聞いてたんだ」

「え、何の話っすか?」

「それは……言えないな」

「なんすかソレ! もしかして……」


 小野田が鈴木のほうを見ると、鈴木はニッコリと微笑んだ。「まじか!」と言った小野田の言葉に、鈴木は落ち着いた様子で、やんわりと否定する。小野田は拓真に言った。


「拓真さんの邪魔しちゃ駄目なんで、俺はこれで」


 小野田は自販機で飲み物を買うと、その場を立ち去った。拓真はため息を吐く。

 鈴木は口を尖らせ、拓真に言った。


「どうして、犯人探しについての話だと言わなかったの? 誤解されたじゃない」

「犯人探し? あぁ、さっきも言ったけど2人までは絞ってんだ。後は証拠があれば、その人が犯人だ。つまり、5人のうち3人は違うと断定している。学連の中では、そう結論が出てる。トリックも暴いた」

「………トリック? 色を塗っただけじゃないの?」


 疑うような鈴木の視線に、拓真は頷くと、ベンチから立ち上がった。自販機を指さし、2本目はどうするのかと、鈴木に聞いた。

 鈴木はしばし沈黙し、ブラックコーヒーと答えた。拓真は自販機のボタンを押し、ブラックコーヒーを手に取ると、鈴木に手渡す。鈴木の手には、飲みかけのカフェオレがあった。


「まだカフェオレ残っているようだけど、良かったのか?」

「ええ、この後飲むわ」


 鈴木の表情から、余裕が消えたかのように思える。鈴木が何か言おうとした時、拓真はイヤホンに手を添え、ボタンを押しマイクに向かって喋った。ノイズは鳴っていない。


「それはそこじゃないよ。口で説明するとだな…………え? 分かったよ、戻るよ」


 拓真はため息を吐き、体の向きを変え、鈴木に言った。


「すまない、やっぱり行かないと駄目みたいだ……はぁ、悪いけど戻るよ。あと一歩なんだけどな~」

「―――待って」


 鈴木は懐から茶色いポーチを取り出すと、拓真に差し出した。拓真は驚いたようなフリをし、鈴木にそれは何か訪ねた。


「板野さんのポーチ……私から鈴木さんに渡せなかったから、渡してあげてください。メイク用品が、入ってました。赤いマニキュアも」

「え、赤いマニキュア……もしかして!」


 拓真は驚いたようなフリをし、鈴木から茶色いポーチを手渡しで受け取る。ポーチのチャックをつまみ、一瞬中身を確認するような素振りをし、その手を離す。拓真はボヤくように言った。


「女性のポーチの中身を、男の俺が勝手に見ちゃ不味いよな……そっか、ありがとう。もしこれが証拠になったら、犯人は確定する」

「そうなんだ……ふふふ。持ってきて良かった」

 

 鈴木は安堵したかのように、微笑む。そして、拓真に言った。


「ねえ、襟足の長い学連さん。犯人は2人候補がいるって言ってたけど……もう一人は誰なの?」


 拓真は進めていた足を止め、鈴木に振り向いた。

 その時―――拓真の襟足はなびく。吹く風が、同時に鈴木の艷やかな黒いポニーテールを揺らした。


「それは、言えません」

「…………そう」


 拓真の襟足に―――獣が宿る。牙を剥き出し、その毛は鈴木を威嚇する。墨色の裾がスカートのように広がる。拓真は鈴木に背を向け、イヤホンの位置を反対の耳に装着し直した。その狼は―――心の中で鈴木に吠えた。

 拓真の背を見た鈴木は目を閉じる。次に開いた鈴木の目は―――狩人のように鋭く、拓真を睨み捉えた。鈴木は察した、おそらく私なんだと。鈴木は小さな声でぼやいた。


「やっぱり危険な人ね、藤本拓真さん。でも……証拠はないわ」


 だが鈴木には自信があった。私のトリックを見破れる筈がない。そのような発想をする人なんていない。優秀であるならば、理論的に道筋を立て、結論を出してくるはずだと。私が犯人候補になった理由は、黒咲の証言を不信に思ったから。何度も遠藤の弓を触れば誰だって不信に思う、それは理解していた。だからこそ和弓を持ち帰り、物理的証拠を消滅させたのだ。1日目さえやり過ごせば私の勝ち。そう確信していたのだから。

 だが拓真は違った。拓真は奇抜な発想で鈴木のトリックを見破っている。それは合理的な思考を飛び越えた理屈と、感覚によるもの。それゆえ証拠はない、だがここで、鈴木が切り札にしてくるであろう、板野を犯人へと仕立て上げる素材は回収した。拓真の計画は、次の段階へとステップアップする。

 ときかぜが―――この場に吹き荒れた。

 的を射抜くだけが弓ではない。弓には古来より伝わる弓術きゅうじゅつがある。それは狩人と獣との決闘たる犬追物いぬおうものと呼ばれるもの。

 いま弓道場と呼ばれるこの場所では、激しい戦風が吹くかのように、破裂音を鳴らした。

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