第29話 過去は振り返れど、手を伸ばすことは叶わない

 アリスティアは夢を見ていた。それは、彼女がまだユリティアから「アリスちゃん」という愛称で呼ばれていた時のことだ。


 自室で勉学に励んでいたユリティアの元に、アリスティアは突撃した。とにかく今は、姉に甘えたいという気持ちで頭がいっぱいだったのだ。


「姉様! 今日は何をして遊んでくださるのですか?」


「アリスちゃん、また私の部屋に来てしまったの? 今は勉強をする時間でしょう?」


「お勉強は嫌いです。皆んな、私が不出来だからと叱ってばかりで嫌気が差しました。だから姉様、私を甘やかさてください!」


「全く、仕方のない子ですね。では、私も勉強はこれくらいにして本を読んであげましょう」


「御本を読んでくださるのですか? やった! 姉様、早く読んでください! 私、姉様の本読みも大好きですから!」


「はいはい。ですが、終わったらちゃんと勉強するんですよ。私も隣で見てあげますから」


「はい! 姉様、大好きです!」


 アリスティアは遠慮することなく、ユリティアの胸の中へと飛び込んだ。彼女を包み込む柔らかな腕と胸の感触は、今でも良く覚えていた。


 大好きな人の匂いと温もりに包まれ、優しく頭を撫でられるとそれだけで嬉しくなってしまう。ユリティアの側にいられること、それだけが彼女にとっての幸せだった。


 ユリティアは基本的にアリスティアに甘い。そのことは城内でも有名で、家庭教師や国王、王妃からも甘やかさないよう言われていた。


 しかし、ユリティアにとってもまたアリスティアのことが一番大事だったので、つい甘やかしてしまう。当然、そのことをアリスティアは理解した上で甘えていた。


 なんて意地の悪い小悪魔なのだろう、アリスティアは自分を心底悪い人間だと度々思う。でも、それでも良いと考えていた。


 いくら学問の出来が悪かろうと、剣術がおぼつかなくとも、我儘であろうとも、姉様がいるのだから。姉様がいつでも甘やかしてくれる、この時の彼女はそう信じ切っていた。


 変化が起きたのは、彼女が八歳になった頃のことだ。夜、偶々寝付けが悪くてユリティアの部屋に向かってだだっ広い廊下を一人歩いていた時に、それは起きた。


「……暗いし、心細い。早く、姉様の部屋に……、ふぁ」


 眠たい目を擦りながら、夜の肌寒さに耐えて歩き続ける。幽霊が出ても大丈夫なように魔力で感覚を鋭敏にし、周囲の気配を探ることを忘れない。


「……姉様が、一人の時はこうするようにって言ってから……。あれ?」


 ちょうど、魔力の感覚が敏感になってきた頃、通り過ぎようとした国王の寝室から何やら声が聞こえてきた。防音設備が整った部屋からの音を拾えたのは、この頃から既に彼女の才能が開花し始めていた証拠だろう。


 彼女はそっと寝室の扉に耳を当て、その声に意識を集中させた。


『はぁ、はぁ……。あなた、気持ち、良いわ……』


『ああ、私もだよ。それで、例の件だが……』


『ユリティアを、徐々に家庭教師から外すやつね。どの道、いなくなるのだからそれは賛成よ』


『十五歳でユリティアを彼らに引き渡したら、必然的に王位を継ぐのはアリスティアになる。彼女には、今まで以上に、頑張ってもらわねば!』


『激しいぃ! あなた、今日は情熱的ね!』


『当然だ。また、あの子の半魔としての力が増したのだ……。年々、強くなっている。私は恐ろしいのだ、いつあの子が私たちに牙を向くのか』


『早く、いなくなってほしいわ。けど、今は我慢よ。あの子は大人しいし、優しい性格。謀反を起こそうなんて、考えもしないでしょうから』


『それもそうか。だが、もっと激しくするぞ!』


 アリスティアは会話の内容が幽霊なんかより余程恐ろしく、すぐさま部屋の扉から離れて姉の寝室に駆け足で向かう。先程まで襲っていた眠気はとっくに消え去り、ただ、本当のことを知らなければならないという考えが先行していた。


「姉様が、半魔? 彼らに渡す? 分からない……。私、分からないよ!」


 魔族や魔物同様、魔族の血が入った半魔もまた差別の対象だ。半魔の存在は決して許されず、シグルス王国では発見次第死刑に処されるか、頑張っても魔力を搾り出す家畜になるのがオチだ。


「そんなはずない……。そんなはず、ない……。信じられない……。でも、姉様が半魔なら私は……」


 今まで甘えていた相手が、蔑むべき半魔だった。彼女の心は大きく揺れていた、どちらの立場になるべきなのか選択を迫られていた。


 荒くなっていく吐息に責め立てられるようにして、走る速度を徐々に上げていく。やがて辿り着いたユリティアの寝室の前で、彼女はたっぷりと冷や汗をかいていた。


「……姉様」


 今まで開けるのを楽しみにしていたはずの部屋が、ここまで恐ろしく感じるとがあるなど自分でも信じられなかった。しかし、ここまでやってきて引き下がることもできず、思い切って扉を開いた。


 ユリティアは起きていた。いつものように勉強机の前に腰掛け、部屋にやってきたアリスティアを笑顔で迎えてくれた。


「やっぱり来たのね、アリスちゃん。また眠れなかったのでしょう? さあ、こっちにおいで」


 いつものように優しく微笑む姉の姿。月明かりに照らされた姿はまるで慈愛の女神のようで、アリスティアにとっては憧れの存在。


(やっぱり、いつも通りの姉さんだ。半魔なんて、嘘だったんだよね)


 アリスティアは近づこうとして、いつもと違う彼女の気配に気づいてしまう。その日、ユリティアの魔力は以前にも増して更に強くなっていたのである。


 現在の彼女がしているロケット型のアーティファクト、あれは彼女が半魔である事実を隠すために国王が研究会から貰ったものをユリティアに与えたのだ。だが、この頃はまだ魔力増幅の兆候がなくロケットを貰っていなかった。


 だから、アリスティアには分かってしまった。他でもない、魔力の扱いに関して天才的なセンスを持つアリスティアにはユリティアが唯ならぬ存在だと直感させてしまったのだ。


 それでも、国王と王妃の会話を聞いていなければ彼女が半魔だという可能性には気付かなかっただろう。アリスティアの才能が開花する時期、ユリティアが半魔として力を増す時期、その二つが少しでもズレていれば仲睦まじい姉妹のままでいられたのかもしれない。


 それらは単なる可能性に過ぎず、この時点でアリスティアのとユリティアの運命は確定してしまった。


「姉様……。姉様にお聞きしたいことが、あります」


「どうしたの? 私に答えられることなら答えるわよ?」


 アリスティアは姉に向かって踏み出しかけていた足を戻し、化け物でも見るかのような恐怖に塗れた表情で恐る恐る尋ねた。


「姉様は、半魔なの?」


「えっと、何処でそんなことを聞いたの? 私は……」


「いいから答えて! 姉様!」


 酷く強張った顔に、暗闇でも分かるほど震える手足、ユリティアは初めてアリスティアから恐怖の感情を感じ取っていた。いつも姉様と甘えてくれる彼女が、自分に対して父や母が向けるのと同じような顔を向けられることに彼女もまた恐怖を感じ取っていた。


 本当のことを言って嫌われたくない、ユリティアは焦った。本当のことを言うべきか、誤魔化すべきか、彼女は間違いなく分岐点に立っていた。


 そして、彼女は嘘を吐く選択をした。


「……何のことか、分からない。私はただの人族だよ。半魔なんかじゃないわ」


 だが、それは間違いだったとすぐに思い知らされることになる。アリスティアは、まさか自分が一番信頼している相手が嘘を吐くなどとは思ってなかったのだ。


 自分はこんなにも信じたいと思っているのに、それを簡単に裏切られた。もしも正直に話してくれれば、もっと落ち着いて考えることもできたかもしれない。


 アリスティアは姉の気持ちを推し量れるほど達観してない、まだ八歳の子供だったのだ。


「嘘吐き! 姉様は私をずっと騙していたんだ! この化け物!」


「アリスちゃん、それはちが……」


「気安く呼ばないで! 信じてたのに……。私に嘘を吐いて、その上、まだ嘘を吐くなんて……。最低! 大っ嫌い!」


 アリスティアは泣きながら部屋を飛び出し、ユリティアの頰にも一筋の雫が伝った。この日、姉妹の絆は完全に壊れて修復不可能となった。


 以降、アリスティアがユリティアに甘えることは決してなかった。彼女は自分が王位を継ぐことを知り、学問、剣術と真面目に色々とこなすようになった。


 周囲からは人が変わったみたいだと言われる始末。それは、ユリティアの方も同じだった。


 ユリティアはアリスティアに嫌われて以降、塞ぎ込むようになっていた。前までは学問も、剣術も頑張っていたのに身が入らなくなり、家庭教師を外されるようになってからはアリスティアとの差はかなり広がってしまった。


「アリスティア様、最近は凄く成績も良くて、剣術も上達したんですって」


「流石は王家の血筋だ。それに比べて、ユリティア様は……」


「次期に王位を継ぐお方があの調子で大丈夫なのかしら?」


「言ってやるな。妹の方が才能があった、それだけの話だろう」


「アリスティア様も可哀想に。もしも先に生まれていれば、彼女が王位を告げたのにね」


 アリスティアの周囲で話される会話、その全てが不快だった。本当は才能があるのは姉様だ、なのに自分が姉様の翼を剥いでのし上がったのだ。


 ユリティアが不調になった原因は明らか、自分が姉のことを拒絶したことである。そんなこと、とっくに彼女は理解できる年頃になった。


「でも、もう遅い……。今更、私は謝れない。私は、自分が否定した嘘吐きなんかにはならない」


 これは単なるプライドの問題だった。半魔を拒絶した、それが自分のした選択だ。


 最初は、ユリティアの方が謝ってくれると思っていた。自分に甘い姉のことだ、「嘘を吐いてごめん」と言ってくれるだけで解決するはずだった。


 だが、ユリティアは謝るどころか自分から距離を取るようになった。そして悟った、ユリティア姉様が謝る気などないのだということを。


 時が経てば経つほど、謝ることが難しくなっていくのは心理であり、真理でもあった。アリスティアはいつしか言われたくだらないプライドに固執し、謝ることができなくなっていた。


 だから、むしろアリスティアは姉を人ならざる存在なのだと思うようにした。


 半魔は怪物で、この世界にいてはならない存在、それがこの世界の常識なのだ。自分はただそれに従い、正しい行動をとっているだけなのだ。


 そう言い聞かせることで、自分がユリティアのことを壊したという罪の免罪符にしていた。ユリティアのことが未だに大好きな自分を認めたくなかった。


 だから、彼女はユリティアに度々教育と称して暴力を振るった。半魔は退治しなければならない存在だと自分に擦り込ませ、自分の大好きを否定して姉のことを嫌いになるために。


「姉様はどうしてこんなにも不出来なの!? 恥を知りなさい!」


「……ごめん、アリスティアちゃん」


「気安く名前を呼ばないで。この馬鹿姉!」


 アリスティアは抵抗する気のないユリティアを蹴り付ける。アリスティアは同時に苛立ってもいた、何故自分を見返すために努力しないのかと。


 周りにいいように言われて平気なのかと、このままでいいのかと。だが、ユリティアはただ微笑むだけだった。


 全ての事情を知るアリスティアからすれば、それはもう諦めに近い行動に思えた。自分の将来がないことを理解しているから、努力をすることもせず運命を受け入れるようとしている。


 それが、更に彼女の怒りを加速させた。自分のことを一番大事にしなければならないユリティアが、自分を蔑ろにしているのが許せなかった。


 何故、運命に抗おうとしないのか。自分に襲いかかる理不尽を跳ね除けるだけのポテンシャルを姉様は持っているというのに。


 アリスティアはただ焦りを募らせていく。このままでは、本当に姉様がいなくなってしまう。


 だが、姉様が嫌いな自分ができることは、ただ姉を嫌いだと罵り、不出来な成績だったら厳しく叱りつけるくらいしかできることはなかったのだ。


「……アリスティア、ちゃん」


「気安く呼ぶなって、言ってるでしょ!」


 アリスティアはユリティアが完全に倒れたのを見届けると、地面を踏み鳴らすように機嫌を悪くしながらその場を後にする。


「……何で、アリスちゃんって呼んでくれないの」


 年齢を重ねるごとに姉妹同士の溝は深くなり、やがてその溝は埋まらないほどに広がってしまった。そうして彼女らはやがて、魔法剣術学園へと入学を果たすことになる。


 ……。


(思えば、姉様は学園に入ってネオと出会ってから変わった。まるで、自分の知らない一面を見つけるのが楽しくなっていくみたいに)


 ワンコインランチなる食事を楽しむようになったり、放課後になると一緒に勉強したり、街の方へ遊びに出かけたり、彼氏のために甲斐甲斐しく弁当を作ったり、恋をするようになったり……。自分と過ごしていた魂の抜けた抜け殻のような存在ではなく、一人の意思を持った人間として生活していた。


(もし、私がネオみたいに姉様を認めていたら……。何か、変わったのかな?)


 そんなたらればは、単なる禅問答に過ぎない。今更、過去を変えることなどできないのだから。


 彼女は幸せな夢を見る。姉様とまた仲良くなれたifの夢を。


 この魔導叡智研究会の用意した研究用に用意された魔力タンクの中で、いつまでも、いつまでも……。

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