世界はおじさんでできている

夜渦

1.肉屋のオメル・ベイ


 彼の第一声は決まっている。

「ホッシュゲルディン、プレンセス(ようこそプリンセス)!」

 後にも先にも私をプリンセス呼ばわりするのはこの人だけだと思っていたし、今もそう思っている。

 少し高くなった、ガラスケースの向こう側。白衣に身を包んで、ときに手にとんでもなく大きな包丁を持ってそのおじさんは笑っていた。オメル・ベイという。ベイ、はトルコ語で男性に付ける敬称だ。ファミリーネームは知らない。すっきりした顔立ちは細いあごがどこか鋭利な印象で、シリアスな映画俳優のような風情。けれど眼差しは穏やかで、おどけた口調でオーバーリアクション。ギャップの塊のような人だった。職業は、肉屋。

「何がほしい?」

 わずかに首を傾げながらガラスケースの上から身を乗り出し、オメル・ベイは私の言葉を待つ。

「牛のひき肉を、400グラムください」

「400? そんなん半キロと同じだな。半キロ入れとくからな!」

 返事も聞かずにおじさんは肉を秤に乗せていく。私はこの店で400グラムで肉を買えたことがない。

「何を作るんだ」

「カレー」

「またか。この間も作ってたろ?」

 こちらのたどたどしいトルコ語を楽しげに聞きながら、オメル・ベイは肉を肉挽き機に放り込んだ。ほどなく低い機械音が店の中に響き始める。

 イスタンブルの肉屋はその場で肉を挽いてくれる。ひっきりなしに話しかけてくるオメル・ベイに何とか答えをつむぎながら、ガラスケースの前で待つのが常だった。会計のお姉さんが気を利かせて取り寄せるチャイを断るのも。

 肉屋は面白い。必ず長椅子があって、チャイを片手に長話をする人が日に何人もいる。チャイは近所の店から出前で届く。日本でいうところの井戸端会議が肉屋で行われるのだ。

「コーベ牛というのがあると聞いたぞ」

 挽肉をパックに投げ込みながらオメル・ベイが言う。

「おいしいらしいですよ」

「食べたことないのか」

「高級なので」

 そんな会話をしていると見習いの少年がクッキーを分けてくれて、南の出身らしいお兄さんがスマホで神戸牛の画像を見せてくる。奥から出てきた精肉担当のお姉さんがいらっしゃいと言って少し言葉を交わす。いつも店中で歓迎してくれて嬉しいけれども、少しだけ恥ずかしい。

「今日はスジュクありますか」

 スジュク、というのはトルコの腸詰めだ。少しクセがあり、店ごとに味が違う。それを卵と一緒にオムレツにするか、チーズと一緒にホットサンドにするか。留学中の朝食の定番だった。オメル・ベイのスジュクはおいしい。

「火曜日に仕込むから水曜日の午後に来い」

「そうします」

 もう少し気の利いた会話ができればいいのにと思いながら、肉を詰めるさまを眺めていた。オメル・ベイの質問に返すだけが精一杯の自分がもどかしかった。

 オメル・ベイと出会ったのはもちろん偶然だった。住居の賃貸契約を済ませて、これから住む街を探検しているときだっただろうか。肉屋の軒先で行儀よく座る二匹の犬を見た。おそらくくず肉を投げてくれるのを待っているのだろう。ぴんと立った耳と微動だにしない視線。尻尾の先まで緊張感が満ちた凛々しい横顔だった。そのときはそういうことをする肉屋もあるのかと気にも留めなかった。この国は地域犬に優しい。だが、後から考えると他の肉屋でその光景を見たことはない。オメル・ベイの店だけが昼ごろにいつも犬が待っていた。それがやけに記憶に残っていたのだろう。ものは試しにとスジュクを買いに行った。

「こんにちは。スジュクをください」

 たったそれだけの文章にオメル・ベイは満面の笑みを浮かべて身を乗り出してきた。トルコ人は総じて人懐こく、すぐ話しかけてくる。接客業となればなおさらだ。そして、ちょっとでもトルコ語を口にすれば話しかけてくる。そりゃあもうすごい勢いで。こちらの耳が追いつかない早口で矢継ぎ早に質問をぶつけられる。

「何人だ? 日本人?」

「仕事で滞在してんのか。子供は?」

「鶏の切り方が違う? 日本じゃどう切るんだ、やってみせろ」

 世間話どころか完全にオメル・ベイの思いつくままに質問を浴びせかけられ、挨拶以外できなかった私はよく固まった。流暢なトルコ語を話す連れが応じても視線は私に固定したまま、お前に聞いているんだとばかりに私が口を開くのを待ってくれたのをよく覚えている。あんなに根気よく肉の注文を聞いてくれる人はきっといなかった。どんなにたどたどしくても時間がかかっても、必ず私の言葉を待ってくれた。そして。

「300グラムじゃたったこれっぽっちだぞ」

 あきれかえった口調でぶつ切りの鶏のもも肉をぶらぶらさせる親方の言葉に、結局500グラム買うことになる。ヤルムキロ(半キロ)、はあの店で一番使った単語だと思う。


 冬になる前のある日、スジュクを買おうとオメル・ベイの店に行ったらシャッターが降りていた。定休日ではないし、とうに開店しているはずの時間。臨時休業かと思って首をひねるところへ、隣のタオル屋のおじさんの声。

「移転したよ」

 初耳だった。

「どこへ?」

「さあ? イスタンブル市内だと思うよ」

 ノーヒントなのに規模が広過ぎる。

 結構仲良くなったという自負があっただけに、何の前触れもなくいなくなってしまったことが妙にさみしかった。とはいえ、明日どうなるかわからないからトルコ人は今日の縁を大事にする、という話を聞いたこともある。仕方ないのだろう。

 そうして、家に帰る道が変わった。波止場から市場を突っ切って坂を登り、オメル・ベイの店に寄る。それがいつもの道。だがわざわざ坂を登る必要がなくなったから、手前を右に曲がって市場を通って帰るようにした。新しいスジュクも探さなければならないし、少し言葉も慣れたから市場で買い物もできる。そう思いながら市場を歩いていたら肉屋があった。新しくできたらしい。2店舗ぶち抜きで、肉屋とモツ屋が併設されている。トルコでは精肉とモツは店が違うのが常だが、この店は両方やるらしかった。新しい店ならばとりあえずスジュクの有無を確認しようと中に足を踏み入れた瞬間。

「ホッシュゲルディン、プレンセス(ようこそプリンセス)!」

 いつもの声。

 いたずらが成功した子供のような顔でニヤリと笑うオメル・ベイがいた。

 肉屋の軒先ではじかれたように笑う日本人はさぞかし面白かっただろうと思う。だがやはり再会できたことは素直に嬉しかったし、わざわざ言わなくてもまた会えると確信していたらしいオメル・ベイに、何とも言えない頼もしさを感じたりもした。それでこそトルコのおじさんだ。

 そうして一年以上オメル・ベイのスジュクで朝食を作り続け、プリンセス呼ばわりにも慣れた。一応何度か名は名乗ったはずなのだが、ついに呼んではくれなかった。あるいは覚えていなかったのかもしれない。トルコ人には少し言いにくい名前らしい。それでも仲は良かったと思う。たまたま旅行に行った街がオメル・ベイの地元で「なんで先に言わなかった!」と笑い含みに怒られたり、自宅が存外に近所だったりもした。「あの角のカフェいいぞ」と教えてもらったカフェは何度か行った。ただの店員と客というには近すぎるけれど、互いにそれ以上に踏み込みもしない、不思議な距離感は居心地が良かった。だから、帰国の日程が決まったときは少し切なかった。どんな顔をするだろうと思いながら店に行けば、会計のお姉さんがあっさりと言う。

「床屋に行ってるわよ」

「……就業時間中に?」

 思わず天を仰いだ。

 お世話になりました、日本に帰っても忘れません、ありがとうございました。用意していた言葉が全部霧散する。

「十五分くらいで戻るけどチャイ飲む?」

「いえ、また来ます」

 ある意味でオメル・ベイらしいのかもしれない。しんみりしないですみそうだ。そう思って、夕方にもう一度行った。

「ホッシュゲルディン、プレンセス(ようこそプリンセス)!」

 ぴっかぴかのオメル・ベイがいた。

 帰国の日付を告げて、みんなで写真を撮りたいとお願いする。オメル・ベイと精肉担当のお姉さんとモツ担当のお兄さん、会計のお姉さん。見習いの少年は学校なのか、いなかった。

「家族写真みたいだな」

 そう言って目を細めるオメル・ベイの横顔が、嬉しかった。そうして言ってくれた言葉を今もよく覚えている。

「お前は俺の家族だ。俺の娘だ。大丈夫、世界は狭いんだ。また来るときは必ず顔を出せよ」

 どうして最後の最後でそんな格好いいんだろう。反則じゃないか。床屋帰りのぴっかぴかの顔で。

 思わず涙ぐみそうになったが、背後で精肉担当のお姉さんが「フェイスブック! フェイスブックやってるなら教えて!」と騒いでいるし向かいの魚屋のおっさんがなぜかこっちの写真撮ってるし近所の店の人間がみんな見物に来ているしであまりしんみりはしなかった。あの瞬間にトルコの一年半が全部詰まっていたような気がする。好奇心と人情が同じウェイトで乗っている人たちだった。

 あの街で、私は最初から最後まで異邦人だった。パートナーがトルコ人というわけでもないし、自分自身がトルコに生きたいわけでもない。まさに「日本から来たプリンセス」だった。それでもあの時間は確かに心地良かったのだ。

 オメル・ベイが私にかかりっきりになるものだから精肉担当のお姉さんが奥から出てきて他のお客さんの対応をして、モツ担当になったお兄さんがわざわざ隣からのぞきに来て、180cmのひげ面になった少年がやっぱりクッキーをくれる。そうして会計のお姉さんが「あの人楽しくて仕方ないのよ」と笑う。みんな、どんなにつっかえようがたどたどしかろうが、必ず私の言葉を待っていてくれた。私が自分の言葉で伝えようとするのを聞いてくれた。それは人情よりも好奇心だったかもしれない。日本人が肉を買うのにしどろもどろになっているさまが微笑ましかったのかもしれない。けれど、確かに何かを育ててもらったと思っている。

 帰国してずいぶん時間が経って、久しぶりにイスタンブルに行けるだろうかと思っていたタイミングでコロナ禍に突入してしまった。こちらもあちらも色々な事情が変わってしまって、結局トルコには行けないでいる。元気にしているのか、お店はまだあるのか。そう思ってグーグルストリートビューで市場をのぞく。波止場から小さな広場を通って乾物屋の十字路を右。魚屋の向かい、乾物屋の隣。まだ道を覚えている。そうして、なじんだ肉屋の軒先。

 カメラ目線でポーズを決めるオメル・ベイがいた。

 モザイクがかかっているが、どう見てもオメル・ベイだ。耳の奥であの声がする。

「ホッシュゲルディン、プレンセス(ようこそプリンセス)!」

 




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