桜の園にて笑み給ふ

入江 涼子

第1話

   わたくしがあのお方と出会ったのは桜の園でだった。


  あのお方--優雨霧(ゆうぎり)様はわたくしより三つ上の許嫁で。両親によって決められた相手だった。

  それでも優雨霧様は優しくしてくださる。わたくしを姫と呼んで穏やかで低い声で話しかけてきて笑いかけてくださった。けど優雨霧様は今いない。遠くに行ってしまった。

  今年も春が来た。優雨霧様と一緒に見た桜の園で空を見上げる。もう彼が亡くなって五年目だ。


「……優雨霧様」


  名前をぽつりと呟いた。でも答えはない。当たり前だ。彼はもうこの世にはいないのだから。ぽっかりと穴が開いたような心地だ。


「……桔梗。こんな所にいたのだな」


  声をかけてきたのは優雨霧様の弟で馨(かおる)だった。馨はわたくしと同い年である。今年で十九歳になっていた。


「桔梗。もう今日は帰ろう。夕暮れ時が近い」


「そうね。賊に襲われても文句は言えないし」


「だな。あちらに馬が繋いであるから。送っていくよ」


  わたくしは頷いて馨に付いていく。本当に桜の園--宗麟園を出た所に馬が繋いである。一緒に行って馨が先に馬の背に跨った。腕を引っ張ってもらい、乗せてもらった。前に乗り馨が両腕で支えてくれる。五年前よりも彼も背が高くなって肩幅も広くなった。それをぼんやりと考える。馨は前を向いて馬を走らせた。わたくしは落ちないように腕と足に力を入れたのだった。


  屋敷に着くと馨に再び腕と肩を支えてもらいながら降りた。門番が出迎えてくれる。


「……姫様。お戻りになったのですね」


「……ええ。ちょっと侍女の笹野に伝えてちょうだい」


「わかりました」


  門番は頷くと門扉を開けてくれた。わたくしは歩いて中に入る。馨とはここで別れた。


「姫様。お戻りになったんですね!」


  高らかな声で呼びかけてきた。振り向くと侍女の笹野が小走りでやってくる。わたくしはやっとホッとした。


「……只今、帰ってきたわ。笹野。父上と母上はいるかしら?」


「おられますよ。それより身支度をしないといけませんね」


  わたくしは頷いて笹野と共に屋敷に入った。馨が心配そうに見ていたのには気づかなかったのだった。


  身支度をしてから父上と母上がいる主屋(おもや)に行く。笹野も一緒だ。先触れは出しているが。先導は父上付きの侍女がしている。


「こちらになります。お入りくださいませ」


「……ご苦労だったわね。行きましょう。笹野」


  侍女が御簾を上げると笹野と一緒に入る。主屋の奥からだろうか。ふわりとお香の薫りが鼻腔に届く。母上が好きなお香だとわかった。膝立ちでにじり寄ると他の侍女が円座(わろうだ)を用意してくれた。


「よくぞおいでくださいました。殿とお方様がお待ちかねです」


「そう。わかったわ」


  頷いて円座に座る。御簾がおろされた向こうで人の気配がした。


「……おお。桔梗。来たのだな」


「はい。先ほど帰ってきた所です」


  父上が声をかけてきたので答える。隣には母上もいるようだ。


「桔梗。今日は優雨霧殿の命日でしたね」


「……ええ。母上。朝方にお話があると伺っていたのですけど。来るのが遅くなってしまいました。申し訳ありません」


「良いのですよ。それよりも桔梗。近う寄りなさい」


  頷いて膝でにじり寄った。母上が持っていた扇で御簾を少し上げてくれる。それを両手で持ち上げてするりと奥に入った。中にはほのかに笑みを浮かべた父上と厳しい表情の母上がいる。


「……うむ。元気そうだな。ちょっとそなたに縁談が来たのだよ。だからこちらに呼んだのだが」


「まあ。縁談ですか?」


「ああ。その。馨殿となんだが」


  意外な相手に驚く。わたくしはあまりの事に頭が追いつかない。


「……馨殿ですか」


「うむ。馨殿の父君から打診があってな」


「そうですか。でも優雨霧様以外の方と結婚するのはちょっと……」


「……そうか。桔梗は優雨霧殿が好きだったからな」


「……そうですわね。どう致しましょう。殿」


  父上と母上は困り顔で言う。わたくしもどうしたものかと思って持っていた蝙蝠(かわほり)で顔を隠しつつ考え込む。しばらく、沈黙が続いた。


「……桔梗。私はもうそろそろそなたには身を固めてほしいと思っているの。優雨霧殿もそれを望んでいるはずですよ」


「母上」


「分かってちょうだい。もう桔梗も十九。結婚していてもおかしくない年なのだし」


  母上はそう言ってわたくしをじっと見つめる。仕方ないとため息をついた。


「……わかりました。婚約はします。けど結婚はもう少しお待ちください」


「ごめんなさいね。無理強いするつもりはなかったの。でも馨殿は良い方よ。前向きに考えてみてほしいと思うわ」


「そうですね。わたくしもそう考えられるように善処はします」


  そう言って母上に笑いかける。扇を閉じて母上はわたくしの近くに膝でにじり寄った。そっと頭を撫でられた。


「桔梗。そなたと小菊が嫁いだら私と殿だけになるわ。いずれはこのお屋敷を馨殿と桔梗に継いでほしいと思うのよ」


「……母上。わたくしは」


「お願いよ。桔梗が結婚しなかったら小菊も心配するし」


  母上はそう言うとわたくしを抱きしめた。ふわっと薫衣香が香った。梅花の香だとわかる。


「……桔梗。出家しても良いけど。せめて一人でもいいから。孫の顔を見せてちょうだいな」


「孫ですか。ちょっと気が早いです」


「気が早いくらいで丁度いいのよ。さ、馨殿に文でも書いてきなさい」


  母上はわたくしを離すとてきぱきと指図する。仕方なく頷いて主屋を出たのだった。


  その後、馨に文を書いて送る。手短かに「明日にこちらに来てほしい。婚約の事で話したいから」と書いておいたが。果たして来てくれるかどうか。わたくしはまんじりとしない中で夜着に着替えた。笹野も宿直(とのい)でわたくしの部屋で寝ることになる。


「……姫様。明日、馨様がいらっしゃるんですね」


「そうよ。でも気が進まないわ」


「でも姫様が婚約なさるのは良い事です。私は賛成ですわ」


  笹野はそう言って寝返りを打ってこちらに向く。わたくしはほうと息をついた。


「笹野も母上と同じことを言うのね」


「だって。馨様は本当に良い方です。それに姫様を慕っておられますよ」


「……馨が?」


  意外な事にまた驚いた。まさか、馨がわたくしに想いを寄せているとは。


「……姫様。ご存知なかったのですか?」


「全く知らなかったわ。馨がわたくしに想いを寄せていたなんて」


「お気の毒に」


  そう言って笹野は呆れたようにため息をついた。


「姫様。とりあえず、馨様の想いを受け入れても良いのではと思います。出家するのはもっと先でもいいではありませんか」


「……それはそうだけど」


「ささ。もう眠りましょう。明日は忙しくなりますよ」


  仕方なく頷いてわたくしは目を閉じた。すぐに眠りに落ちていったのだった。


  翌朝、笹野や他の侍女達によりお湯殿に入れられて湯浴みをさせられた。たっぷり一刻(いっこく)はいたが。そうして上がると気が遠くなる程に髪を梳かれた。香油を塗り込んでさらに梳く。お衣装を着付られる。美しい桜の襲だ。わたくしには派手過ぎると思う。それでも堪えて黙ってされるがままだった。お化粧も念入りに施された。身支度が終わる頃にはすっかり日が高くなっている。


「……姫様。馨の君がお越しになりました」


「……わかりました。お通しして」


  わたくしが答えると知らせにきた侍女は退がって行く。もう憂鬱だ。気心知れた相手ではあるが。馨と婚約は考えていなかった。どうにでもなれ。ふとそう思ったのだった。


「……昨日の今日で申し訳ない。いきなりで驚いただろう」


  部屋に入ってきて開口一番で馨は謝ってきた。わたくしは扇で顔を隠しつつ睨みつける。


「本当よ。昨日の夜に父上から聞いたけど。急過ぎてまだ気持ちが追いついていないわ」


「本当に悪いと思ってる。父には俺から言っておくよ」


  わたくしはふうとため息をつく。几帳越しではあるが。馨は苦笑した。


「桔梗。俺と婚約するのは嫌か?」


「……正直言うと。気は進まないわね」


「だろうな。桔梗はずっと兄上が好きだったから」


  馨は切なげに目を細めた。わたくしは俯く。そうしないと胸が締め付けられそうだからだ。


「馨。わたくしが優雨霧様を好きなままでもいいの?」


「……どうだろう。はっきり言うと俺を好きになってもらいたいけど。君が兄上を忘れられないのはわかってる。その上で婚約をしても俺は構わないとも思ってるな」


  馨の言葉を聞いてわたくしは泣きそうになった。彼は昔からそうだ。優しくて。優雨霧様とは違う形の優しさだけど。どうして優雨霧様はわたくしを置いて逝ってしまったのか。そう叫びたい。五年前に流しきったはずの涙が溢れる。ぽたりと落ちた。次々に流れてきて止まらない。優雨霧様は流行り病で亡くなった。あまりにも呆気なくて。それを思い出すと今でもキリキリと胸が傷む。


「……桔梗」


  不意にすぐ近くで馨の声が聞こえた。そっと頬に柔らかな衣が当たる。鼻腔に馨の好きな薫衣香が届いた。

  肩や背中にぐいっと力がかかって何かに閉じ込められた。気がつくと馨に抱きしめられている。そう気付いたが。拒む気力も湧かない。


「何で兄上は桔梗を置いて逝ってしまったんだろうな。時々、恨めしくなる」


「……馨」


「泣きたいんだったら泣いてしまえ。好きなだけ流してまえば。少しはすっきりするだろう」


  馨の言葉に止まっていたはずの涙が再び溢れ出す。気がつくとヒックとしゃくり上げながら馨に縋り付いて泣いていた。ずっと彼は背中をさすりながら抱きしめてくれていた。薫衣香の香りと程よい温もりに包まれながらわたくしは泣き続けたのだった。


  翌日、わたくしは馨と婚約する事を両親に告げた。最初はだいぶ驚いていたが。優雨霧様の事はもう踏ん切りがついたと言うと母上は「桔梗の好きなようにしなさい」と言ってくれた。父上も「馨殿には感謝しないとな」と笑っていた。こうして晴れて馨とわたくしは許嫁となったのだった。


  あれから、一年後にわたくしは馨と結婚する。優雨霧様は天から見守ってくれているだろうか。そう思いながら今年も宗麟園を訪れた。さあっと風が吹いて桜の花びらが舞う。夢のように美しい光景だ。目を細めた。


「……桔梗。もう一人の体ではないのだし。俺の近くにいないと危ないぞ」


「わかっているわ。ちょっと桜を見ていたかったの」


  そう言って馨に近寄る。馨はわたくしの肩をそっと抱き寄せた。大きながっしりとした手はいつも安心させてくれる。わたくしのお腹には新しい命が宿っていた。今年の夏には生まれるだろうと医師が言っていた。もうだいぶせり出していて歩くのも一苦労だが。馨がゆっくりと歩いて牛車まで誘ってくれる。最後に胸中で呟いた。


  ……さようなら。優雨霧様。


  さあっと再び風が吹いて桜の花びらが嵐のように舞い散った。まるで優雨霧様が答えてくれたかのようだ。わたくしは笑いながら馨と共に宗麟園を出て牛車に向かったのだった--。


  終わり

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