第3話

 同居人が最近おかしいのは知っていた。いいや、元々か。家が焼けたって聞いた時も大概なものだった。酷く疲れた顔でふらふらして、このままじゃコイツ、死んじゃうんじゃないかって。そう思っての同居の提案。そうすれば一緒に住むことで負担が減って、あの顔色が少しでも回復すればいい、そう思ったのに。火事で色々と追われていた故の顔色だと思ったのに。

 俺の想像の数十倍、健斗の生活は想像とはかけ離れて過酷だった。俺だって繁忙期はああいう生活をする。でも、健斗はうちに来てからずっとだ。よく今まで生きてたよ。

 あ、だから今、限界が来たのか。濡れた下半身と共にぐずぐずと鼻を啜っている姿に心が痛くなった。まあ、同時にもっと良くない事態にならなくてよかったって安心もしたのだけれど。



 玄関で音がしたのが風呂場越しに聞こえた。気まずいながらに今朝、冷たい態度をとってしまったことを謝ろう、そう思い脱衣所を出た瞬間、壁にもたれかかっている健斗が見える。てっきりリビングに居るものだと思っていたから、心の準備ができていない。

「健斗…何してんのこんなところで」

疲れて寝てしまったのだろうか、そう思って近づくけれど違和感がある。下が濡れているし、それに顔を覗くと、目が開いていて、なのに返事が無くて。

「健斗、けんと!!!」

頬を何度か叩いてやっと、俺の目と焦点が合う。おかしい、何か、尋常ではない。

「ゆう…き…?」

「やっちった?とりあえず着替えてこい。風邪ひくぞ。立てるか?」

間に合わなくてショックだったのだろうか、体調が限界だったのだろうか。この幼い失敗には出来るだけ触れないようにして話すのにいっぱいいっぱいだ。

「たてない…」

「でもなぁ…立ってくれないと流石にお前はおぶれねえわ」

「たてない!!」

ぼろぼろと涙を零して泣き叫ぶ健斗。大学の時もずっとしっかりしていて、どんなに大変なことがあっても泣き言1つ言わなかった奴が。こんなに取り乱す姿は見たことが無かったから。

「お前…ほんとにどうした?具合悪い?」

「ちがう!!わざとおもらししたの!!だからこのままで良いの!!!」

「も、なんもしたくないっ、きがえない、おれ、ここでねるからっ、」

だから、何て返してやれば良いか、わからない。



 駄々を捏ねるように、太ももあたりのスーツを握りしめながらぐずぐずになっている健斗を何とか宥めて着替えさせてやると、涙は止まったようだ。

「…」

黙ったまま。でも、機嫌が悪いわけではなさそう。この感じは、覚えがある。

「本当にここで寝るの?」

「…ねる、」

「ほんとに?」

「寝るし、ぜったい、」

「ご飯は?」

「…いらない…」

わがままを言う度に目がキョロキョロ動いて、凄く不安そうな表情をするその姿。それを見ても何故かイライラしない。むしろ愛おしいとさえ思う。

 ああ、これは。おもちゃを買ってもらえなくて泣き喚く子供に似ているんだ。捨てられないか、置いていかれないかを心配する子供に。

「あー、残念だなー…今日は美味しーい鍋焼きうどんなのになー」

涙の残った目が僅かに動く。

「健の好きなエビ、2個も入れたのになー…土鍋でぐつぐつするのになー…」

ぐうううぅぅぅ…

「ぁ…」

お腹を押さえて真っ赤になった顔で俯く健斗。

「俺が食べちゃおっかなー」

「だ、だめ、おれ、が…」

蚊のなく声で、弱々しく。ああもう、成人男性がこんなに可愛いって何だよ。

「リビングいく?」

「ん…」





「はいどーぞ」

土鍋を目の前に差し出すと、ぴくりと体が動く。でも、一向に箸を持とうとしない。

「健斗?」

「…おはし…めんどくさい…」

「え?」

「…っ゛、おはし…や、」

「やなの?」

「…やだ…」

「あーんしたら食べる?」

「…うん」

蓮華の上でくるくると麺を束ね、口元に持っていくと、小さく口を開けてパクリと咥える。

「おいし?」

「ぅん…」

口の中のものがなくなると、物足りなそうにモゴモゴと動く。そんでまた、口元に持って行くと、口が開く。

「えび…」

「食べる?はいどーぞ」

鳥の餌やりをしている気分だ。ホッとした表情で咀嚼する姿を見ると、愛おしいとさえ思った。



「全部食べれたじゃん、えらいえらい」

出汁のみになった容器を見せて頭を撫でると、今にも目が閉じそう。

「今日はお風呂やめとこっか。歯磨きして着替えて寝よう」

「…、ねるとこ…ない、」

とろんとした目のまま滲む涙。そうなの?って聞いたら、表面張力に耐えられなくなった涙がボロボロと落ちていく。

「しーつ、ぐしゃぐしゃ、ひとりでっ、できなかったぁ、」

きっと彼は、自室に干しっぱなしにしたシーツのことを言ってるのだろう。あのあと俺が洗濯機に入れて、外に干したってことを知らないのだ。

「朝言ったよね?自分で出来るって」

優しく、怒ってないよって声を出したはずなんだけど、涙は止まるどころか加速していく。

「俺寂しかったなぁ。頼ってくれたらなーって思ったよ?」

小さい子供みたいに肩に頭を擦りつけて、またそこでぐずぐずと泣いて。背中をポンポンと叩いても、まだ泣き続けて。

「健がしんどかったの、分かってるからさ。怒ってはないよ?」

「ごめ、なさい、」

「そーだね、自分で言えて偉い偉い」

「ごめ、なさい、ごめ、なさい」

ひっ、ひっ…

耐えきれなくなったのか、ついにはしゃくり上げてしまう。

「もういいよ、泣きやみな?」

「だ、って、おれ、いっぱいだめなこと、した、からっ、」

「いっぱい疲れちゃったからだよ。だから今日は俺の布団で寝よっか」

「…でも、またおねしょする、」

「いーよ、それよりちゃんと寝な?ね?」

「…ズ…うん、」


 歯磨きをしてる最中も、移動している最中も。ウトウトと頭が揺れていた健斗は、トイレに座らせた時にはおしっこを出しながら落ちてしまった。

 何とか引っ張って布団に運んだ時には、もうすでに安らかな寝息を立てて、夢の中。

色濃くなったクマは、あとどれだけ休めば消えるのだろうか。きっと、これは彼なりのsosだったのだろう。本当に今気づいて良かった。俺と一緒に住んでいてよかった。

「おやすみ」

涙と鼻水でいっぱいになった顔を拭くと、また顔が緩む。本当に子供になってしまったかのような、あどけない表情。

ちゃんと休めますように、そう願いを込めて、部屋のスイッチを切った。




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