酔っ払いラプソディー3 *




 * *


 純の家に気分良く酒酔い状態のまま着いたとき、純は地下の自室でアルコール度数の高い缶チューハイを飲んでいた。驚いた結斗が入り口に突っ立ったままでいると、ソファーから、ひらひらと手を振られた。


(どういうことですかね?)


 結斗は、純が一人で、しかも自室で酒を飲んでいるところを初めてみた。

 床の上には無造作にコンビニの袋が置いていたが、近くにはポテチもスルメもない。酒オンリーだった。そんな無茶苦茶な飲み方をする男じゃなかった。食事と一緒に酒を楽しむ程度。


「おかえり。結斗やっぱり酔ってるし、ちゃんと水飲みなよ」

「いやいや、酔ってるのお前じゃん。純こそ水飲めよ」

「そんなに酔ってないよ」


 純は、いつになく上機嫌で笑っていた。さっき送られてきた猫のスタンプは、酒のせいだったのかもしれない。


「純、別に飲むのは良いけど、なんか食いながら飲めって悪酔いするだろ。なんか作ろうか? 腹減ってる?」


 言いながら結斗は水を取りに行こうとする。


「ゆーい」


 純に、おいでおいでと手招きされる。結斗は仕方なく言われるまま、そばまで行くと唐突に手を握られた。右手同士指を組むみたいに。


「なんだよ」

「酔った」

「はぁ?」

「だから、そばにいてよ結斗」


 ぽんぽんとソファーの横を叩き隣に座るように言われる。


(……マジで、どうしたの?)


 らしくない純の不可解な行動に戸惑っていた。普段は酔わない純をみて心配になる。

 由美子さんに純のことをよろしくと頼まれていたし、自分がそばにいたのに純に何かあってはいけない。一気に酔いがさめた。

 お互いがお互いの面倒をみないとって思っていた。

 純がつらいときは自分が助けるし、自分がつらいときは純が助けてくれる。

 今は自分が純を助ける番だ。


 普段から純には面倒をかけてばっかりだったので、立場が逆になって甘えられるとちょっと嬉しい。いや、すごく嬉しい。

 件の動画配信の件で純が急に遠くに行ってしまった気がして不安だった。甘えられて、頼られて、たったそれだけのことで簡単に心が落ち着いてしまう。

 子供の頃から思考回路も、やっていることも同じ。純が近くにいれば無条件に大丈夫な気がしてしまう。

 隣に座ると手を繋ぎ直される。右手と左手。純は結斗の手をぎゅうぎゅう握ってきた。その手がいつもより熱い。

 ピアニストの大きな手だ。しなやかに長い指には適度に筋肉が付いていて、ピアノを弾く時の繊細な印象と違い、しっかりとしていて硬い。


「なー、純、酒好きだっけ、いつもそんな飲まないじゃん」

「酔ってるってことにした方が、結斗はいいかなって思ったから」

「何が?」

「昼間、話あるって言ったでしょう? 結斗、もっと、こっちきてよ」


 猫じゃないんだけどと思いながらも、間を詰めて純の近くに寄った。


「俺はさ」

「うん」


 純は、ぽつり、ぽつりと話し始める。

 隣に座る純は酒のせいで少しだけ頬がピンク色になっている。濃い灰色のセーターに黒のチノパン姿。見慣れた姿なのに何だか落ち着かない。

 さっきまで手にあった缶チューハイは、手を繋ぎ直したとき、近くのローテーブルの上に置かれていた。


「この先も、このままでいいと思ってたけど、まぁ黙ってても遅かれ早かれ、いつかは分かることだし」


 結斗は直感的に純の話をこれ以上聞きたくないと思った。

 結局のところ何も言わなくたって、自分も純もお互いのことを分かっている。

 何か様子が違うなとか、言いたいことあるんだなとか。


 ――一緒にいたいとか、いたくないとか。


 子供みたいな話を今さら素面でなんて出来ない。二十歳を過ぎた大人だから。子供じゃないから。

 だからといって今すぐにしなくてもいいと思った。


(そう、だよな。俺、変、だもんな。普通じゃない)


 ただ変だとしても結斗は今の時間が、ずっと続けばいいと思っている。外では普通を装うから。この部屋でだけは。

 一緒に、出来るだけ長く幼馴染の関係でいたい。今のまま。

 もう少しだけ待って欲しかった。結斗が大人になれるまで。純みたいに一人で大丈夫になるまで。

 今が幸せだから。


「……このままって」


 至近距離で視線が交差する。純は酔っていると言っていたけれど、本当は酔ってない気がした。バイバイって言われる時は、もっと悲しい顔をしないといけないのに純はなぜか、困った顔をして笑っていた。

 その純の顔には覚えがあった。純が中学生でピアノを辞めることを決めた日。

 結斗が辞めればいいって言った日。

 泣いて、ぐずって、甘えた。

 甘やかされた。

 ばつが悪い顔。結斗が不安になると純がする顔だった。こんなふうに困らせたくないのに、どうしても大人になれない。


「俺は、ちゃんと覚悟決めたから。結斗も考えて、この先、どうしたいか」

「どうって、だって、純が一人で大丈夫になって、遠くに行くって話だろ」

「――買い被りだよ。俺は一人だとダメだな」

「嘘だ」


 一人で黙って動画配信者になって有名人になっていた。結斗に言われて辞めたピアノをまた外で弾くようになった。結斗に秘密で黙ったまま。それが証拠だ。

 もう一人で大丈夫だって。ベタベタな幼馴染がいなくても。


「俺はこのままでいい、このままがいい」

「ゆい……」


 多分、酔っている。言いたいことがまとまらない。

 小さな子供みたいに拗ねていた。口からこぼれ出る幼稚な言葉が恥ずかしい。自分がいない世界でも楽しくやっている純を知った。寂しかった。苦しかった。

 じゃあ自分はこの先どうしたいのか、どうなりたいのか。

 そこに純がいないと不安になる。


「それが結斗の答え?」


 純は困ったな、伝わらないと言って小さく息を吐いた。

 いつまでも今のままではいられない。子供の時は許されても、いつかは、それぞれの道で生きていく。


 純は、ピアノで。

 自分は? 考えて、何もなかった。


 分かっていたこと。純は優秀で、なんでも持っている。何もない自分とは最初から生きている世界が違う。けれど小さい頃は、それでも噛み合っていた。

 今は気持ちのいい音が鳴らせない。不協和音になる。

 それが成長で、大人になるってこと。仕方ない事だと頭では理解してしても純と同じになれないことが寂しい。


「俺だけ、一人になるんだろ。嫌になったんだろ、幼馴染なんて」


 結斗は純の目を見てそう言った。怖かった。一人にしないでと言いたかった。


「違うよ」


 どうすれば、このままでいられるのか知りたかった。


「また、そんな顔する。それに、どうして俺がどっか行くって話になるの? 酔ってる?」

「なんで、分からないんだよ、ばかっ」


 純は結斗の頬をぺちぺちと優しく叩く。


「またそれ。王様か。分かってないのは結斗だよ。頭を撫でて、手を握って、抱きしめて、ここにキスした」


 純は結斗の頬を人差し指でなどる。純が指で触れたところが、じわりと熱を持った。忘れたことはない。純がキスしてくれた日のこと。


「幼馴染のお前に俺ができること、もうあんまり残ってないけど、この先、どうするの?」

「っ、だって」

「そういう、話です。分かった?」


 純は結斗の頬に手を添えて、ゆっくりと唇を重ねた。

 一瞬だけ唇に感じた熱は、すぐに離れていく。中学生のとき、結斗を泣き止ませるためといって、同じことをされた。

 びっくりしたら泣き止むから。

 実際その通りだった。驚いた結斗の涙は、あの時はぴたりと止まった。

 昔されたキスは、頬だった。


 今度は唇。純が言った通り、もう残っていなかった。これ以上もっと近くにいる方法が。


「どう、これで寂しくなくなった?」


 唇へのキスなんて、なんでもないことのように、純は結斗の猫っ毛をくしゃりとかき混ぜた。結斗を安心させるように。


「心配しなくても、俺は遠くに行ったりしないよ」

「……純」

「まぁ、結斗は、まだ俺とこのままがいいらしいし。だから、残念だケド、この話はこれでおしまい」

「ッ」


 息が詰まる。安心なんて出来なかった。キスだけじゃ、まだ不安だった。


「水持ってくるよ」


 純はそういってソファーを立ち上がった。

 このままだと、また遠くなると思った。結斗は純の手を握って引き止めていた。


「結斗?」

「俺……あのな」

「うん」


 不安になったり寂しくなったり、年を経るごとに近くなる距離。離れそうになると、近づいて、純は結斗に安心をくれた。

 今回も昔と同じように結斗のよく分からない不安を和らげようとしてくれた。

 けれど、行き着くところまで、行き着いた先には、もう安心なんてなかった。

 近くなれば近くなるほど、今度はその先を考えて不安になる。

 抱きしめて、手を握って、額に、頬に口付けて。最後に唇を重ねたとき、結斗のなかの何かが壊れてしまった。


「……行かないで」


 純の目をまっすぐに見て、今度は結斗が純をその場に引き止めていた。

 目が潤む。涙がじわりと浮かんだ。


「結斗、何、吐きそう? ごめん。酔ってたのに変な話して」

「嫌だ……嫌だよ」

「ゆい……」


 また子供の時と同じことを言っていた。


「どう、したら、このまま、一緒に純といられる、の」


 このままだと嫌だった。昔、純が悲しいままだと嫌だった。同じように自分も悲しくなるから。いまの言葉が正しいと思えない。分かっているのに、また駄目になる。

 全部、元の音に戻したかった。元通りの大好きな音。不快な音がずっと頭の中で鳴っていた。純がそばにいるのに、少しも心地いい音にならない。

 もっと近くにいて欲しい。


「……足りない? まだ、寂しいの」


 純がソファーに片膝を乗せたことで、ぎしりと軋む音がした。

 視線をあわせたまま、もう一度、確かめるように唇が重なった。

 今度は角度を変えて深くなった。息が出来ない。どんどん心臓の音が速くなっていく。


「ッ……ふ」

「結斗、もう少しだけ、キス、しようか」


 純の甘く蕩けた瞳の色を陶然とした気持ちで見つめていた。細く触り心地のいい純の黒髪に触れたいのに、右手は純の右手を掴んだままだった。左手は純の服の胸元をぎゅっとにぎっていて動かせない。

 なんで幼馴染でこんなこと、してるんだろうって頭の片隅では警報音が鳴っている。

 けれど止められなかった。

 純のキスは治療だ。

 けれど治療のはずなのに、結斗は昔と同じように純の口付けを治療のまま終わりに出来ない。


 ――自分は、変だから。


 あの日、大学で純のピアノを聴いてから、最後。

 多分、全部が駄目になった。

 華やかで勇ましい曲だった。それなのに、聴いてる間は、ずっと孤独を感じていた。

 胸が苦しくなった。このままじゃ駄目だとピアノの音に急き立てられる。

 純の身体が結斗にのしかかって、ソファーの上でぴったりとくっつく。

 その重さが気持ちよかった。次第に純との隙間がなくなっていく。真摯に見つめてくる純の整った顔。酒に関係なく頭がぼんやりしていた。


 キスの先に安心なんてなかった。


 いつの間にか歪な警報音は消えていた。代わりに、ずっと心臓はドクドクと波打っていて、頭の中では大学で聴いた純のピアノの音がした。

 鐘の音のように煩く響く。唇が離れると自分だけ息が上がっていた。


「音が、した」

「ん、なんの?」


 純に首筋を撫でられる。温かい室内なのに、ぞくぞくした。


「純の、ピアノの音、大学で弾いてたやつ。胸が痛くなった、苦しい」

「あれ、結斗のために弾いたんだけど」


 嘘だと思った。

 もう、あの音はネットの海でたくさんの人が聴いている。幸せな音を。心を揺らす音を。

 聴いてくれるなら、誰だっていいくせにって思った。

 ちゅっ、と今度は音を立てて唇にキスされた。


「……純は、嘘つき……だ」


 口付けの合間に恨み言をこぼす。

 この酔いに任せて貪り合うような口付けの時間が一体なんなのか、もう分からない。

 頭の中が音の洪水でぐちゃぐちゃになった。

 世界中に結斗が独り占めしていた音を聴かせた。

 自分だけのものだった音を。


「やっぱり伝わってない。あの日、最後まで聴かないで帰るし。ちゃんと俺の音ずっと聴くって言ったのに、ひどいね。結斗の方が嘘つきだよ?」


 純はそう言って叱るように甘いキスをくれる。

 結斗の肩に手を掛け押し倒し、身体をソファーの上に縫い止められた。

 天井と、純の艶っぽい表情。

 純の少し赤らんだ優しい目元、長いまつ毛。

 さっきまでキスしていて唾液で濡れた唇が近づいてくる。頭が、体が、また、変になる。


「ねぇ、何考えてるの?」


 純のこと、ばっかり考えている。

 純の顔をみて惚けていると、純は突然、結斗の下半身に手を乗せた。

 一瞬で現実に引き戻された。


「なに……して、んの」

「なにって、勃ってたから」

「じゅ、純、お前、絶対、酔ってるだろ!」

「ね、まだ、寂しい? こんなに毎日一緒にいるのに、ね」


 とどめとばかりに、純が絶対に知るはずのない、やらしいキスをされた。


「んんっ!」

「ふーん。かわいいね。ゆいは」


 目を細めて笑われる。


「っ、ば、バカにするな、ぁ……」

「してないしてない、ほんと、馬鹿だなぁって思うこともあるけど」


 純が、これ以上おかしくなったらと思うと怖くて、涙が溢れてきた。


「……お前が、変、になった」

「ん? 俺」

「おま、えまで、頭おかしくなったら、俺、やだよ」

「心配しなくても元々だよ? でも結斗は、一緒におかしくなってくれないんだな。――ま、いいけど」


 ふ、と笑った吐息が耳に触れる。ふるふると怒りで肩を震わせた。


「ッ、バカ純!」


 床に落ちていたクッションを拾って純に目掛けて投げた。避けられたけど。


「危ないなぁ」

「ッ……風呂! 借りるから!」


 とにかくすぐに頭を冷やそうと思った。このまま、一緒の部屋に居たら、どうにかなりそうだった。


「どうぞ、俺先に寝てるから。酒飲んでるんだし風呂で倒れないでね。今日はシャワーにしなよ」

「お前は俺の母親か!」

「……なって欲しいならなってもいいけど」

「知るか! このばか酔っ払い!」


 バタバタと足音を立てて純の部屋を出た。「また逃げるし」部屋を出ていくときに純がそう言ったのが聞こえた気がした。

 逃げないと、純がおかしくなるんだから仕方ないだろうと思った。




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