第11話 「ぼく」がきみを知りたい話

 だれかを好きになるということ。人生がバラ色……とまではいかなくても、なにかに付けて楽しいと思えるようになること。些細なことを頑張ろうと思うちょっとしたエネルギーのひとつになること。そのひとのことを思い浮かべたり考えたりするだけで、ほんの少しだけ、目の前で急に喧嘩を始めたよくわからない沸点を持つ関係ないひとに対しても、ポイ捨てした小学生の後ろを歩いてゴミを拾う羽目になることも、全部なんとなく受け入れてやろうって思えるようになること。

 だれかに好きになって欲しいと願うこと。ちょっとした振る舞いでも好きなひとに悪影響がいかないようにしようと考えたりとか、好きなひとの迷惑にならないようにしようと考えたりとか、今までの自分よりも少しだけ視野が広くなった気がすること。自分ひとりではどうにもならなかったようなことに、もう少し立ち向かってみようと思えること。好きになって欲しい自分のことを自分がまずいちばん好きになるために、自分のことをもう少し前向きに捉えてみようと思えるようになること。

 だれかと恋愛的関係になること。自分のそのときの勢いだけで突っ走ってはいけないということ。思いやりを持つこと。自分のスケジュールだけじゃなくて、相手のスケジュールのこともしっかりと考慮しないといけないということ。好きだという気持ちだけでは突っ走れないことがあるということ。ときにはなんとなくもやもやしたような感情を抱えながらも、そういうものも全部恋愛だと思って抱えて愛する必要があるということ。自分の価値観がぐるりと変化するようなことが起きるかもしれないこと。

 こういうことをぼくは、うたくんと恋愛関係になってから全部初めて知ったことになる。簡単に列挙してみてもこれだけなのだから、ひとつひとつを熟考して紙に書き出すなんてことに挑戦してみたら、きっともっともっと変わったことやわかったこと、気付いたことがあるだろうなと思う。ぼくは今まであまりに世の中に触れてこようと思わなかったし、自分が生きて死ぬのはあの田舎のなかにある狭い世界だと思っていたから、広い世界に触れようとも思わなかった。多少息苦しいと感じて、多少さみしいと感じるような空間で死んでいく自分を想像したときに、広い世界を知るべきではないと思ったからだった。

 恋人は今日も居酒屋のシフトに入って働いてくれている。ぼくが仕事探しに難航しているのを知っていても、焦らすようなことを一つも言わない。風呂を沸かして帰ってくるときに出迎えて、それから新しい習慣になったお帰りのハグをして、少し触れ合うようなキスを交わす。なにもしなくていいし居てくれるだけでいいと言われたぼくが、ちょっとだけれど恋人のためにできることをしている。本当はもう少しなにかをしたいんだ。うたくんの食生活はお世辞にも良いとは言えないし、田舎で毎日のように農作物で出来る料理をしていたぼくからすれば、もうちょっとバランスの良い食事をしてほしいんだけど。そういうことをあんまり言っても口うるさいだろう。うたくんにはうたくんの生活があるから、ぼくはなにも言わないようにしている。言わないっていうか、あんまり口からスムーズに言葉が出ないのは変わらないから、言えないんだけど。

 仕事を見つけたらここを出ていくのかと少し前に聞かれたけれど、それに関してはイエスともノーとも言わないままだった。大抵の場合はそういうときは出て行ってほしいからそういう話を持ち出すのだと思うけれど、ぼくにはどうもうたくんがそういうことを望んでいるようには見えなかった。ぼくの恋人、さみしがりやさんの八神悠太くん。悠太って書いてうた。ぼくの名前である「りょうた」に内包される響きを持っている、身長が高くてかわいい男の子。かわいいのにあんまりかわいいと言われずに育ってきたという彼は、どうにも「かわいい」を全面に押し出したことを言われてしまったり、そういうものを感じてしまうとものすごく照れてしまう。耳まで、首筋まで、めちゃくちゃ真っ赤になる。ぼくが知っているたくさんある「うたくんかわいいポイント」のうちのひとつであって、とにかくかわいいところだ。

 本当は誰よりもひとりで頑張ることが好きじゃないのに、いつだってひとりで頑張ろうとする。誰かに手伝って、ということがとても苦手で、それならばとひとりでそそくさを終えようとしてしまうところがある。見るひとが見たら病的だと言うかもしれない。けれど、それが甘えからくるものだったらかわいいと思う。ぼくに甘えてくれようとしている姿勢だったらとにかくかわいい。例えばこの部屋のトイレ掃除。休日にひとりでやるのがどうにもイヤみたいで、だけれどぼくにやってくれと言い出せなくて。ぼくがやろうかとブラシを持ったらそれも嫌だというような顔をしてこちらを見てくる。結局トイレ掃除はふたりで手を繋いで、うたくんがやることになった。手を繋いであげたら、なんとなく身体のこわばりが解けたような感じがしたからだ。

 ばかみたいだと思う。けれど誰にも迷惑をかけていないのだから、それで彼が幸せを感じることが出来るのなら、それでいいとぼくは思っている。この部屋を出ていかないでほしいと彼が言うのなら、ぼくはずっとずっと一緒に居たっていい。ぼくが田舎に帰っても待っているのはじいちゃんとばあちゃんだけで、あのふたりだってそう遠くないうちに死んでしまうはずだ。病気を抱えているわけではないだろうし、死期を悟っているような言動はなかったけれども。ぼくにとってのじいちゃんとばあちゃんだから、世代から言ったらそろそろ何が起きてもおかしくはない。だから、ぼくには今、実際にうたくんしかいない。

 狭い世界で生きてそのまま死ぬのだと思っていたから、あまり世界を広げないように生きてきた。じいちゃんとばあちゃんが死んだからぼくがひとりであの山を、畑を、守っていくんだと思っていたから。広い世界になにも抵抗を感じることなく出ていった同級生、後輩たち、あるいは先輩を見ていてもなにも感じなかったなんていうのは、結局のところぼくの強がりだったはずだ。広い世界を知ってしまったら、自分がいかに狭い世界で死んでいく未来を抱えているかに気付いてしまって、どうしてもまわりが羨ましくなってしまうから。どうにもならないことで嫉妬を抱えて狂うよりは、諦めてなにも見ないふりをしたほうが平和だと思っていたから。それでいいんだと自分に言い聞かせて、納得をさせて、物分りがいい子どものふりをして、生きてきた。ぼくはそういう運命だったのだと思いこんでいた。

 うたくんはどういう子どもだったんだろう。そろそろ帰ってくるはずの恋人の足音を待ち構えながら、玄関口にぼんやりと座って考えてみる。ぼくはといえば、もともと隠しごとをあまりしない上に隠すようなことがないので、恋人にあれやこれやと全部を説明してしまっている。どうにも限界のような田舎で育ったこと、母親が自分のことをばあちゃんとじいちゃんに託したときのおぼろげであやふやな記憶が、ぼくの中に残っている彼女が関係する記憶として最初で最後のものであること、まわりにはもっともっと悲惨な生い立ちを抱えた子どもがたくさんいたこと。そういうことを、自分の口から説明することは難しくても、メッセンジャーアプリでは簡単に説明することが出来たから。ぼくのことを知ってほしくて、ぼくという人間がどうやって出来たかに興味を持ってほしくて、全部説明している。

 恋人はぼくのことを、案外おしゃべりじゃんと笑ってくれる。そういうおしゃべりな亮太もいいね、と褒めてくれる。認めてくれるし、愛してくれる。恥ずかしそうに、言葉を丁寧に選びながらスマホに入力しているぼくのことが好きだと、耳に熱を宿らせながら好きだと思ったポイントを説明してくれることもある。恥ずかしいくせにそういうところには一生懸命に向き合って、きちんと真摯に対応してくれる。ぼくが上手に喋れないままでいることに対して、なんのかんのと指図を出さないでくれる。病院に行けだとかカウンセリングを受けろだとか、そういことを言わないでくれる。

 ざく、ざく、ざく。うたくんが道を踏みしめる音がして、帰ってきたことを知らせてくれる。ぼくだって自分が上手に喋れないことをどうにかしたほうがいいと思ったことだってある。自分の言語能力の不完全さに恐れをなして、一晩中泣いて過ごしたこともある。ぼくがあまりにも不安がるから病院に連れて行ってもらったこともある。ばあちゃんは母親がぼくのことを限界集落もいいところな田舎に置き去りにしたことが精神的なダメージを与えたんじゃないかと思って、病院に通わせてくれたこともある。けれどもどれも、実を結ばなかった。これといった改善も見えなかった。なにかが劇的に変わるようなこともなかったし、改善方法も見えないままだった。だから、ぼくはこれらを受け入れて生きていくことにしたのだ。全部自分だと思って、それも自分の強みだと思うことにして。

 けれどもぼくの恋人は、ぼくにそういう話を自発的にすることがほとんどない。ガチャリとドアに鍵を差し込む音を聞いてその場に立ち上がって、おかえりなさいのハグをする準備をするのだ。いつだって絶好のタイミングでぼくが出迎えてやるのを、うたくんがものすごく嬉しそうにしてくれるから。言葉にしてくれなくてもぼくにはわかる。うたくんは、確かにぼくのそれよりもずっとずっと言葉をスムーズに発することもできるけれど、それでもときどきおしゃべりが下手くそになる。というか、もともとはあんまりおしゃべりをしない子だったんじゃないかな。そんなことを考えながら出迎える。

「りょーた」

「……、んっ!」

「わはー……今日もありがと、亮太。あのね……俺、本当に、いつもさあ」

「ぅ、う、……ん……」

「面倒くせえ客が来ても、うざったいクレーマーが来ても、亮太が家で待っててくれるって思うから、がんばれる」

 ドアを開けた瞬間はいつだって不安そうな顔つきをしているのに、神さまに追放される直前の堕天使のような顔をしているのに、ぼくを視界に入れた瞬間に全てを許されたみたいな顔をして、そうしてぼくの腕の中に飛び込んできてくれるのだ。その瞬間がぼくには、とにかくとってもかわいいものに見えるし、かわいいものとして認識される。今日だってそうだ。ちょっとだけ居酒屋特有のアルコールの匂いをさせているし、少しだけ身にまとっている洋服からタバコのような匂いもする。けれど、それらは全部うたくんが頑張って働いてきたという証拠に過ぎないから。ぼくはそんなものをどうにもしようとは思わないし、匂いに気を配る暇もないくらいに頑張ることができた恋人のことを、誇らしく思うのだ。

 広げた両腕の中にダイブしてきてくれたかわいい恋人のことを受けとめながら、ずるりずるうりと部屋の中に誘導していく。腕の中の彼はいつでも少しだけ脱力していて、それを以前指摘してみたことがある。帰ってきた瞬間にぐったりしてしまうくらいに疲れるのなら、少し体力をつけるとか仕事のシフトをほんの少し減らすとか、そういうことをしてみたらどうかと提案したこともある。そのときのうたくんは少し恥ずかしそうに顔を伏せて、首筋をいつもの恥ずかしさを隠すような仕草で赤くしてから、ゆっくりとぼくに教えてくれたのだ。ぐったりするほど疲れているわけじゃないし、もともとひとりで暮らしていたし、帰ったらなにもできないほどに疲れてしまうわけでもないんだけど。でも亮太がいるからちょっと甘えてもいいかなって思ったから。だいたいそんなことを言ってくれた。かわいいと思った。

 疲れて帰ってきたうたくんをよっこらせ、と部屋の中に引きずり込みながら考えてしまう。考えることを止められない。ぼくが言葉を上手に発することができないのはこの際、もう変わりようのないことだと考える。言葉がスラスラ出てこないことも含めてぼくだと思ってくれているひとたちのために、これはこれでぼくだと認識してしまえばいいのだ。けれども、もう少しぼくが視野を広くして生活をしてきていたのなら、あるいはもう少しぼくがいろいろなことに触れて生きてきて、もう少しぼくのなかにいろいろな知識を蓄えて生きていたのなら。そうしたら、うたくんは、ぼくにありのままを話してくれていたんだろうか。そんなことを考えるのを、止められなくなっていく。

 どうしよう、申し訳ない気持ちになってしまっているぼくがいる。どうやって聞いてみればいいのだろう。メッセンジャーアプリで、ぼくに隠していることがあったら全部教えて欲しい、というようなことを伝えてみればいいのだろうか。本当にそんなことで説明してくれるだろうか、という疑問がこころの中で浮き上がってくる。そんなことをちょっと言ったからってうたくんは、そこまでぼくに開けっ広げに話をしてくれるだろうか。そういうひとだったら、そこまでこころを開いてくれるようなひとだったのなら、もうとっくにぼくに対して過去の話や昔の話をしてくれているはずじゃないか。そんなふうに話をしたところで、うたくんは簡単に煙に巻いてしまうだろう。聞かなかったことにされてしまうかもしれない。

 そもそも生活も面倒を見てもらって、ほとんどの金銭面をうたくんに依存しているぼくがこんなことを考えていいのだろうか。うたくんはどういうぼくを欲してくれているのだろうか。こうやって些細なことに心配になったりもやもやしたりするのも、恋愛の特権とでも考えていいのだろうか。ぼくにはまるでわからない。田舎でまともに同世代と人間関係を築いてこなかったせいもあるし、そういう難しい感情のやりとりを嫌っていた部分もあったように思う。そういう経験値のなさが、こういう駆け引きのようなやりとりが出来ないことに繋がっているのだとしたら。だとしたら、ぼくはやっぱり、もっときちんと経験値を積んでおくべきだったのかもしれない。こんなことを今更になって考えるなんて。こんなことを今更になって後悔するなんて。

「亮太、どうしたの」

「え……っ」

「いつもだったらもう、キスしてくれてんじゃん」

 あれをしておけばよかった、これをしておけばよかったと考える以前に、ぼくにはもっとこの件を考えるにあたって引っかかるところがある。ぼくがもっとおしゃべりが上手だったらよかったのに、というところだ。もちろんぼくは自分がおしゃべりが上手ではないところ、言葉をすらすらと発することが出来ないでいるところを自分の個性だと考えているし、それもまた自分らしさのひとつであると受け止めている。理解したつもりでいる。だってもうどうにもならないことをあれこれと嘆いてもしかたがないのだから、ぼくはぼくとして、持っているものをぼくらしさとして受け止めていくしかないのだ。言葉がスラスラ出せないことを、吾妻亮太が本来生まれてきたときに持ってきた特徴のひとつとして受け止めてしまうことが、ぼくには一番簡単だった。

「なあ」

「あ、……」

「きす、したくない……?」

「あ、ち、……っ、」

「んッ」

 考えごとに必死になっているあまり、帰宅時のルーティンのようなものをおろそかにしてしまった。その事実をうたくんから指摘されてあわてて我に返ってキスをした。大慌てでしたものだから、くちと口をぶつけてしまうようなキスだった。ガツン、と小さくて衝撃な音を立ててぶつかったためにぼくの口の中が切れてしまって、キスをしたことによって出るはずの幸福エネルギーのようなものによって甘い味をするはずの唾液が、全部ぜんぶ血の味になってしまった。楽しいはずのキスの時間が、こんなことになってしまったなんて。こんなことになって、こんなに悲しいものになってしまったなんて。キスの経験がないことが、こんなふうに仇と出るとは思わなかった。やっぱり田舎だろうがなんだろうか、もう少し経験値を積んでおくべきだったのかもしれない。今更後悔してもどうにもならない。気持ちがどんどん暗い方向へ落ち込んでいく。

 恋人でありこの部屋の家主である彼を見た。ものすごく落ち込んでしまっている。おふろ、と小さな声で呟いてそのまま風呂場に向かってしまった彼は、ぼくのことをほとんど見ることもなかった。まさかぼくに、フラれてしまうとでも思ったのだろうか。そんなにうたくんが不安になるようなことを、ぼくはしているだろうか。考えてもわからない。なにもわからない。ぼくに経験値が無いからだろうか。それともうたくんが、ぼくが彼にしているように、気持ちよく彼自身を開示してくれないからだろうか。風呂場に行ってしまった彼の残像を見るようにしながら考えてみる。

 本来この場で暗い顔をするべきだったのは、ぼくのほうだったんじゃないか。風呂場でもぞもぞと衣擦れの音を立てるうたくんが示す影を見ながら、ぼんやりと考える。その場で立ち尽くしているままでぼくは考えていた。どうして彼は、あんなに不安そうな顔をしたのだろう。フラれることが不安だったからだろうか。それとも、ぼくに嫌われたと思ったからだろうか。それはちょっとおかしくないかな。ぼくだって恋愛関係の経験値はゼロだし、初めてお付き合いをしている相手がうたくんだけれど、それくらいのことはわかるつもりだ。あの表情は、そういう感情が表につい出てしまったというようなものではない。もっともっと根深いところに巣食う大きくて強いマイナスの感情だった。ぼくにはわかる。

 一体なにが彼の不安をそこまで煽るのだろうか。あれはフラれてしまうことに対する不安のようなものじゃなかった。うたくんに関してぼくに与えられている情報があまりにも少なくて、ぼくはなにも答えに行き着くことが出来ないでいる。どうやったら彼をもっと安心させてやれるのだろう。日がな家に居るだけのぼくがうたくんのことを嫌いになるなんてこと、起きるはずがないのだ。ましてぼくは田舎の地方から出てきたばかりで、このあたりにはなにも伝手のようなものもない。生活の基盤だって、うたくんに甘えっぱなしだ。これからゆっくり自分なりの基盤を作ってくれたらいいと彼は言ってくれるけれども、そんな立場のぼくにフラれると思える彼の気持ちがぼくにはなんだか、心配になってくる。

 ぼくは、こんなに彼のことが好きなのに。どうして彼はぼくのことを、信じてくれないのだろう。信用してくれないのだろう。悲しい気持ちになりながら、ようやく意識を自分の中に取り戻したような気がして、ゆっくりとその場を動き始めた。うたくんのことをもっと知りたい。もっと知りたいと伝えたら、教えてくれるんだろうか。ぼくのようなたどたどしいおしゃべりで伝えたところで彼は、ぼくがひとこと紡ぐその間を待っていてくれるのだろうか。少し頭によぎった思考を振り切るように軽く頭を左右に動かして、そうしてぼくは考えを改める。ぼくにフラれてしまうかもしれないという不安だけで、あるいはぼくの感情を信じられないというだけで、あれほどにしょぼくれた態度をしてくれる彼なのだから。ぼくの言葉ひとつ時間がかかるくらいで、待っていられないと焦れたりするようなことはないだろう。

 なにか彼に関しての情報がほしい。ぼくが彼にパーソナルな情報をほしいと言ったところで与えてくれるようなひとではないことを、この数日で身にしみて理解しているのだ。もちろん露骨に素直に、もっと踏み込んだ情報を知りたいと言ったこともないし、メッセンジャーアプリでそういうことを言ったこともない。彼の内側に触れるようなことだって言ったことがない。正直に言って、そういうところをぼくは甘く見ていたのかもしれない。人間関係の難しさを、なめていたのかもしれない。地元の、田舎で同じように限界じみた山奥で暮らしていた当時の同級生たちはみんな、ぼくがなにかを聞くまでもなく話してくれていたから。だから、それが当然だと思ってしまっていたのかもしれない。

 思い込みは恐ろしいものだ。田舎ではみんながなにかしら問題がある生い立ちをしていたから、誰もそれをおかしなものだと指摘することもなかった。それぞれがそれぞれの環境に満足していたらそれで良かったし、いちいち比べ立ててどうのこうのと言うこともなかった。そういう生き方で、それでみんなが平和だった。母親に預けられたままで田舎で育つことになったぼくや、山奥に置いていかれた同級生。それぞれが違うベクトルの悲惨さを持っていたから、比べようとも誰も思わなかった。比べなくてもみんな悲惨で、みんな難しさを抱えていたから。誰も肯定することがない代わりに、誰も否定もしなかった。そういうものだと思って、おだやかに諦めていたのだ。

 けれどうたくんはきっとそうじゃない。ぼくがじいちゃんやばあちゃんの話をすると、どこか遠い目をするし、どこか羨ましそうな顔をするのだ。保険証を無事に受け取ったときだって、いいばあちゃんだね、と褒めてくれていたけれど、それでもなにか表現のしようのないものを抱えたような表情をしていた。今まで生きてきたなかであまり見たことのない表情だったから、どういう感情に彼が向き合っているのかもわからなかった。感情を聞き出していいのかもわからなかった。けれど、あのときにそれを聞いていたら。スムーズに口から言葉が飛び出してくれて、ぼくの言いたいことをすらすらと伝えることが出来ていたなら。そうしたら、うたくんは、さっきみたいに不安そうな顔をする必要がなかったのだろうか。

 シャワーのお湯が止まった音がした。彼が出てくる。どうしようか、どうやって切り出そうか。うたくんはどんなお家で育ったの。そうやって聞いたら答えてくれるだろうか。ぼくは少なくともうたくんがぼくを拒絶しない限りは、どういう形であれ、一緒にいたいと思っている。この先仕事を見つけて、ぼくたちは二人でそれぞれ金銭的に独立して、それでもともに過ごしたいという気持ちを叶えるために、一緒にいるのだ。そういう未来を夢見ている。だからいつかは彼のバックグラウンドについて触れたいとも思っていた。ゲイだと言っていたうたくんが、どういう生き方をしてきたのか。初めてのセックスの相手はどんなひとだったのか。初恋のひとにどんな気持ちを抱えながら過ごしたのか。うたくんのまわりに、うたくんの抱えるめずらかな生き方のようなものに心を寄せてくれるひとはいたのだろうか。

「亮太あ」

 思考に没頭していた間に、風呂からうたくんが出ていた。振り返って抱きしめに行こうとしたら、なんとなく彼の表情がおかしいことに気付いてしまった。何日か一緒に居る間にときおり見せてくれる、あの不安げな表情だ。なにも言わなくても、なにも言葉にしてくれなくても、これだけはわかるものがあった。スマートフォンを片手に、もう片方の手は髪を乾かすためのタオルに添えられているけれど、よく見ればスマートフォンを持っている手が震えている。ぽたりぽたり、彼の髪からしずくが垂れていく。拭いてあげないと風邪を引いてしまう。なんとなく後ろに回って、タオルで乾かしてあげようと思った。それくらいはしても許されるだろう。ぼくは今、猛烈に彼に向き合いたいのだ。そのための第一歩がこれなのだから、許して欲しい。

「これ、見て」

 タオルに伸ばした手の気配を察したように、小さくうたくんが首を振った。ぽたぽたと水滴が飛ぶけれども、そんなことはかまっていられないというように眉をしかめて、ぼくを見ることもない。おかえりのハグ、キスに失敗したことでお咎めがあるのだろうか。そんな小さなことを気にしないように見えていたけれど、実はお風呂の中で彼はひとりで不安だったのかもしれない。どうやら、些細なことを不安に思うタイプのようだから。それならそれでそのたびに、ぼくの言葉を求めてくれたらいいのに。スマートフォンでもメモ用紙でも、たどたどしい言葉でもなんでも使って、持っている限りの言葉を尽くして、愛を伝えるのに。そんなに、愛情を言葉にしてほしいと願うことは、いけないことだろうか。ぼくはそうは思わないけれど、うたくんはそう思っている可能性がある。

 スマートフォンには彼の母親と見られる女性からのラインが入っていた。あなたにお話があります、というフレーズで吹き出しをひとつ消費している。うたくんが細かく吹き出しを使いながらメッセージを送ってくるのを思い出して、ちょっとどこか微笑ましくなるぼくがいる。親子なんだろうな。ぼくがじいちゃんやばあちゃん譲りの楽天的なところがあるように、うたくんはそういうところでお母さんのあれこれを受け継いでいるはずだ。ふとした瞬間の口癖とか、そういうものが。きっとどこかにあるだろう。

 微笑ましいやり取りのはずなのに、うたくんの表情は晴れない。シュポポと音を立てながら、次々とメッセージが送られてきている。先日の発熱した男性との関係を教えてください。できれば彼を連れて実家に一度帰ってきなさい。なにもやましいことがなければ出来るはずです。そうやって事務的に綴られた言葉で、メッセージは終わっていた。風呂から上がったとは思えないくらいに顔面蒼白の彼を見るに、おそらくお母さんにゲイであることを伝えていないのだろう。きっと独立してしまったから、実家を離れたから、そこまで親しい関係じゃないから。そういう理由を並べ立てて、うたくんはお母さんに話そうとしなかった。それが、ぼくが発熱したために、そのときに保険証を持っていなかったために、大きな騒動になってしまったのだと思う。

 謝らなくてはいけない。最悪の場合は、この部屋を出ていかなければならない。心臓がどきどきと言っている。今夜は、まだ泊めておいてもらえるだろうか。うたくんのお母さんは、自分の息子がゲイであるということを知っているのだろうか。知っているのに彼を泳がしているのか、それともなにもわからないけれどもぼくたちの関係がなにか、世の中を乱すようなものだといけないと思って連絡をしてきているのか。ぼくには母親がいないからわからないけれど、いくつかのことを推理することはできた。

 そもそも二人の関係はそこまで良好ではないはずだ。だってトーク画面に、これまでのトークを示す吹き出しが一切ない。少し前のものはぼくが熱を出したときに助けを求めるようなものだった。事務的なやり取りで、家族のものとは思えないような温度感。愛されていなかったんだろうか。母親に生育を投げ出されたぼくが言えた話でもないけれど、一度は自分が育てると決めたのなら、どういう形であれきちんと愛情を与えてやってほしいとねがうのは、傲慢なことだろうか。息子が誰を好きになろうと、誰と生活をしようと、犯罪でもやっていなければそれでいいと、おおらかな気持ちで接して、見守ってやろうとは思えないのだろうか。都会のひとは、俺たちがそうやって生きてきたものとは違うのだろうか。文句のひとつでも言ってやりたい。

 しかし、これでぼくがうたくんに抱えているものがひとつ、すっきりした。おかえりのハグをしたとき、いつも遠慮がちに背中に腕を回してくれること。普通ならば恋人同士というしっかりとした関係性の名前があるのだから、ハグくらいは遠慮なくしたっていいはずなんだ。ぼくはそういうものを恋人同士だと認識している。けれども彼は違う。腕を回すことひとつ、遠慮をする。そういうことをしてもらったことが少ないからだ。ぼくのことを心配そうに見ているのも、きっとそういう背景が関係しているからだと思う。無償の愛のようなものを、与えてもらえなかった。あるいは、それをそうとして受け取ることに失敗していたのだと思う。

『うたくん』

 慌てて自分のスマートフォンを手にとって、恐怖に震えながらなんとも言えないような笑顔を作ろうとする恋人を見た。間髪入れずにメッセージを送る。たどたどしい言葉なんかより、ぼくが伝えたいのはちゃんとした文章だ。人間の質感が足りないっていうのなら、メッセージを送り終わったあとでしっかりと気持ちをこめて、ついでに愛情をしっかりと上乗せして、抱きしめてやればいい。それよりも今は、不安になる彼に大丈夫だという支えを、言葉にしてやることだと思った。こういうのは上手に、方法として使い分けてやればいいのだ。そそくさとメッセージを送って、そうして彼を抱き寄せた。ぎゅう、と、気持ちと熱と愛情をこめて。ぼくの気持ちが伝わりますように。きみはひとりで戦うんじゃないってことを、わかってくれますように。

『ぼくが一緒に、きみのお母さまに会いに行くよ。だから、だいじょうぶだよ』

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【BL】ライナーノーツ せり @serry3

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