走れメロス外伝 ある布

強香

ある布

それは一枚の布である。一見するとただの布であるが、おもしろいことに、自我を持った布なのである。しかし、大きく動くことも話すこともできず、ただ自ら思考し、わずかに動いて見えなくもない、というだけであるため、このことを知る者は誰もいない。それゆえ今でもただの布切れとして扱われているのだ。

この布はずいぶん前に、ある村の一牧人に市場で買われてから、つい先ほどまで、衣服として使われていた。つい先ほどまで、だ。では、今はどうしているのかというと、峠の頂上に、さながら捨てられた古雑巾のように、落ちているのである。この布がなぜこんなところにあるのか。それは三、四日前に遡る。


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その布の持ち主は、村でも評判の、正義感の強い若者であった。またこの男は、細かいことをいちいち気に留めないことでも有名であった。だからこそ、市場で何やら不審がられて一枚だけ売れ残っていたこの布を買ったのだ。なぜ不自然に一枚だけ残されているのか、なんて考えてもみなかったのである。その他に、この若者をこれまで間近で見てきた布が知っていることと言えば、この若者に愛してやまない妹がいることと、笛の腕前が中々であること、少々先を見ず行動する癖があることぐらいであった。

するとつい三日前、この若者を象徴するかのような事件が起こった。若者が、妹の結婚式の買い出しにと、口笛を吹きながらぶらぶら城下町へ出かけたのだ。そして、見知らぬ老爺の言うことを鵜呑みにしてのそのそ王城へ入っていき、たちまち巡邏の警吏に捕縛された。ちょうどその時も若者の腰に巻かれていたこの布は、一連の若者の行動に唖然としていた。しかし、それだけでは終わらず、王の前に引き出された際の若者の言葉に更に驚愕した。

「この市にセリヌンティウスという石工がいます。私の無二の友人だ。あれを、人質としてここに置いて行こう。私が逃げてしまって、三日目の日暮まで、ここに帰って来なかったら、あの友人を絞め殺して下さい」

布が驚いたのは、相手の許可も取らずに友人の命を懸けたことに対してではない。いや、その点に関しても驚きはしたのだが、最も驚いたのはそこではない。『三日目の日暮まで』というところだ。

シラクスの市から若者の住む村まで帰り、更に村で結婚式を終えてもう一度町まで戻る。たったの三日でそれらを済ませるのは不可能に近いと、若者とともに村から市まで来た布にはわかっていた。しかし悲しきことに布に発言権というものはなく、若者は城を飛び出し村へと走り出した……。

初夏、満天の星である。



そこからの布はといえば、苦労の連続であった。尋常ではない速さで走ったり、村に着いて早々祭壇の準備を始めたり、突然床に倒れ伏したりと、激しく動き続ける若者の腰にしっかりと巻き付き、ほどけないように必死であった。一刻を争う状況に置かれた若者に、腰布を巻き直すなどという無駄な時間を取らせたくなかったのだ。

花婿を無理くり説得し、二日目、結婚式はすぐに行われた。楽しそうな若者の顔を見ていると、布まで嬉しくなった。しかし、忘れてはいけない。彼には使命がある。若者は祝宴を途中で抜けると、明日に備えて、羊小屋で死んだように深く眠った。布も若者とともに眠りに就いた。そうだ、布だって寝る。誰が何と言おうと、寝るのだ。


そして明くる朝、若者と布は再び町を目指して町を出た。薄明の頃から走り出し、日が高くなってくると、布の心配をよそに、若者は呑気に小唄など口ずさんで歩き始めた。布は約束に間に合うのか気が気でなかったが、それ以上走り続けられてもほどけてしまいそうだったので、若者と同じように気楽に考えることにした。この分なら十分に約束の刻限に間に合う、はず、だった。

突如として目の前に広がったのは、信じ難い光景であった。川が氾濫(はんらん)し、猛勢一挙に橋を破壊している。昨日の豪雨で山の水源地は氾濫し、濁流滔々と下流に集り、猛勢一挙に橋を破壊し、どうどうと響きをあげる激流が、木っ端微塵に橋桁を跳ね飛ばしていた。布は言葉を失った。……いや、初めから布には言葉を発するなどできたことがなかったのだが。若者も呆然と立ち尽くした後、男泣きに泣きながらゼウスに手を挙げて哀願した。しかし濁流は、若者の叫びをせせら笑うが如く、ますます激しく躍り狂う。浪は浪を呑み、捲き、煽り立て、そうして時は、刻一刻と消えて行く。


やがて若者は何かを覚悟した。布は若者が何を覚悟したのか瞬時に察知し、そして心のうちに懇願した。やめてくれ、これ以上はもうもたない、と。しかしその願いは若者に届くことはなく、次の瞬間、若者は濁流に飛び込んだ。

荒れ狂う川の中を若者は必死に泳ぐ。そして布はそんな若者に必死でしがみつく。今ここでほどけてはいけない、そうすれば若者が、まだあと半分以上残る道のりを、全裸で走ることになる。愛と誠の勇者が、民衆の笑いものになってしまう。そんなことはさせてはいけない。布はただの布として、自身の役目を全うしなくてはならない。強い意志を持ち、水の中でぶつかる小枝どもにも耐え、めくらめっぽう獅子奮迅の布と人の子、どちらを哀れに思ったのかはわからないが――いや、おそらく後者に対してだが――神はついに憐憫を垂らした。若者が対岸の樹木の幹にしがみついたのだ。ありがたい。若者は再び走りだした。

ここで一つ、先ほどの困難が布にとって功を奏した。川を泳いだことで、布はびっしょりと濡れ、若者の体に張り付くことができたのだ。布にわずかながら希望が生れた。義務遂行の希望である。これからこの若者が勇者となるのを見届け、最後まで若者の体裁を守る。しかしここで若者と布に第二の試練が訪れる。


峠を登り切ったとき、突然、目の前に一隊の山賊が躍り出た。若者との二言三言の会話を聞くに、穏便には通してくれないようだ。しかしこれしきの事でくたばる若者ではないと布は信じていた。そしてその期待に応えるように、若者はたちまち三人の盗賊を殴り倒した。そして残る者の怯む隙に、さっさと峠を下ろうとした。布はもう若者が誇らしいとすら思い、自分も盗賊討伐に一役買ったような顔をして通り過ぎようとした。

そのとき、倒れていた盗賊の一人がよろよろと上体を起こし、若者に向かって手を伸ばした。しかしその手が若者に届くことはなく、代わりに掴んだのは……一枚の布であった。

なんということだろう。ここまで必死に耐えに耐え抜いてきた律儀な布は、思わぬ他者の介入によって、あまりにも儚くはがされてしまった。そして盗賊たちはそんな悲しき布には目もくれず、倒れた仲間を支えて峠を下って行った。


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そうして置いて行かれてから、今の今まで、布はただただ途方に暮れていたのである。今頃も若者は必死に走っているだろう。そしてその道中、多くの者が若者のことを笑うだろう。せめて最後、民衆の前で誠の力を示すときぐらいは、若者を守ってやりたかった。しかし、もう今となっては主を追いかけることはできない。いっそ諦めてしまおうか。私は最後まで勇敢に戦ったのだ。許せ我が主よ……。



その時、頭上を一羽の鳥が旋回しているのに気付いた。そして僅かながらだが、布の心に再び希望が生れた。布は鳥の方に意識を向け、強く願い始めた。

私を主のもとに連れて行ってくれ。私をこのまま不名誉の布地にしないでくれ。

声を発することも自ら動くこともできない布は、ただただ鳥の心に強く語り掛けた。そしてその願いは……神に届いた!


次の瞬間、布は大空を飛んでいた。正確に言えば、一羽の鳩が布をくちばしでつまんで飛んでいた。鳩は一直線にシラクスの町へと向かってゆく。布は、今自身に起こっていることが、まるで信じられなかった。しかし今考えるべきは己の責務と主のことのみである、と結論付けた。日はすでに傾いており、今のところ若者の姿は見えていない。遂に町が見えた。そして今まさに町の門をくぐる若者の姿も。若者はきっと約束に間に合う。布はまだ町から少し離れた空にいる。最後、若者と友の別れぐらいには間に合うだろうか。いや、間に合わせるしかない。急げ、鳩!

とうとう町の上空に入り、処刑場の様子が見えてきた。何やら民衆は盛り上がっており、若者は友と王と共にいる。この分では、大方、王が改心でもして、若者は処刑を免れたのだろう。よかった、布は心から安心した。そして今にも宴が始まりそうな民衆の様子を見て、自身の役目は宴での勇者の晴れ着だろうと考え、若者のもとへ行こうとした。鳩は布の意思をとらえたかのようにくちばしを開き、布を処刑場の上空から落した。



そこからの出来事は、いくつもの絵画を、ゆっくりと、一枚ずつ見ているようだった。若者のもとに一人の少女が出てきて、何かを手渡す。佳き友が何か言う。若者はひどく赤面したのちそれを受け取る。そしてそれを広げるようなしぐさをすると、たちまち若者の体は緋色に包まれた。あぁ、手渡されたのは緋のマントだったのか。勇者になった若者に、真新しい鮮やかな緋色のマントはよく似合っている。若者と王と友は、こちらに背を向け、王城へと入っていく……。


突然強い風が吹いて、布は町の真ん中の広場にたたきつけられるように落ちた。


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布は思った。自分はうぬぼれていたのかもしれない。主を自分が守ってやるつもりで――自分にしか守れないようなつもりで若者を追いかけてきた。しかし勇者にふさわしいのは自分のようなぼろ布ではなく、燃えるような緋のマントなのだ。主とて、腰布一枚にいちいち執着するような人間じゃない。そんなことは自分が一番よくわかっていたはずじゃないか。一体、自分の役目は、責務は、何だったのだろう。自我を与えられえたのだから、自分には何か重大な責務があるのだと思っていた。それとも、全ては神の気まぐれで、初めから、ただの布切れ一枚に「責務」なんて大層なものは与えられていなかったのだろうか……。

散々考え、悲しんだ布は、とうとうその思考を停止した。

広場で宴が始まり周りはどんどんとにぎやかになっていったが、もう布は何も考えることが出来なかった。大勢の人が歌い踊り、布は何度も踏まれた。古雑巾同然だった布は、より一層ぼろぼろになり、影をひっそりとさせていった。


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その日の夜遅く、勇者メロスは酒と興奮で顔を赤くして城を出た。夜風にあたろうと町をうろついてみると、宴の後の残る広場に出た。民衆はさぞかし盛り上がっていたことだろうとほほえましく思っていると、広場の一角に目が行った。見れば一枚のぼろ布が落ちている。こんな小汚い布一枚、民衆の誰一人として気に留めなかっただろう。しかしメロスにだけは分かった。それは自分が冒険の半分以上を共にした、気に入りの衣服である、と。

メロスは布を拾い上げ、丁寧にごみを払い、しわを伸ばした。そして一言、

「来てくれてありがとう、友よ」

と言って、その布を持って帰った。


――メロスには政治もペース配分も女心も分からぬ。メロスは、村の牧人である。笛を吹き、羊と遊び、細かいことは気に留めずに暮らしてきた。けれども、邪悪と……「友」に対しては、人一倍に敏感であった。


メロスはその時、拾い上げた時には乾ききっていたはずの布が、少し湿ったように感じて不思議に思った。

勇敢な若者メロスは、二つの重要な事実を知らなかった。一つは、その布は自我を持つおもしろい布であるということ。もう一つは、自我を持つことが出来る布は、涙だって流せるということだ。

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