虎将の義子(五)

「まったく、何がどうなっている」


 婚礼翌日。妹を自室に呼びつけた黄史明は、忌々しげにそう吐き捨てた。


「わたしが縁組をしたのは王虎将軍のはずだったのだぞ。それがどうしてあのような……」


 孺子こぞう、とでも言いたかったのだろうが、さすがにその言葉は呑みこんで、史明は「それで」と妹に問うた。


「どうであった」

「どう、とは……」

「昨夜はどうであったかと訊いているのだ。泊りはしたのだろう」


 その問いの意味がわからぬほど、静蘭は初心うぶな小娘ではなかった。だが、さすがに夫婦の事情を口にすることは憚られ、静蘭は黙ってうつむいた。


「そうか」


 そうであろうな、とつぶやく兄の声には、隠しきれない嘲りがにじんでいた。


「無理もなかろう。あの婿どのも、いまごろ養父に泣きついておろうよ。この話はなかったことにしてくれと……」

「子怜さまは」


 考えるより先に、口が動いた。 


「このままでよいと仰っていましたが」


 言ってしまってから、静蘭は驚いた。兄に口ごたえをした自分が信じられなかった。それは史明も同じだったようで、黄家の当主はしばし呆然と妹を見つめた。部屋の隅で埃をかぶっていた置物が口をきいた。そんな場面を目の当たりにしたような顔つきで。


「何を言っているのだ、そなたは」


 自失から立ち直った史明は、呆れたように首をふった。


「たとえ婿どのがそう言ったとして、本心のはずがなかろう。鏡を見てから物を言ったらどうだ」


 静蘭の頭にかっと血が昇った。息がつまるような激しい怒りは、しかし一瞬のことだった。


「そうでございますわね」


 急激に冷めていく頭の片隅で、静蘭は己自身を嘲笑った。


 兄の言うとおりだ。自分は何を馬鹿なことを考えていたのだろう。たとえ形だけのものにせよ、あの若く美しい夫が本気で自分を娶るなどあるはずもなかろうに。


「とにかく、あの婿どのが訪ねてくることはもうあるまいよ。であれば、まずは王虎将軍と話を……」

「失礼いたします」


 兄が言い終えぬうちに、侍女のひとりが遠慮がちに顔をのぞかせた。


「何事だ」


 主のきつい声に身をすくませながら、侍女はそろりと静蘭の顔を窺った。


「あの、お客様が……いえ、王家の……」


 しばし口ごもってから、侍女はひどく言いづらそうにその呼称を口にした。


「旦那さまが、お見えです」





「まさか、またお越しいただけるとは」


 寝所の続き間で待っていた夫は、静蘭の笑顔を見るなり眉をひそめた。


「迷惑だった?」

「めっそうもございません」


 心の底から、静蘭は否定した。兄に面目が立ってありがたいという気持ちもあったが、それ以上に、静蘭自身がこの少年との再会を望んでいた。なぜだかはわからない。ただ、また会いたかった。それだけだ。


「またお会いできて嬉しゅうございます」

「ならいいけど」


 そっけなく応じる夫の髪が、朝に比べてだいぶ乱れている。やはり男児はこういうものかと、静蘭は知らず口元をほころばせた。


「伯英が行けって言うから。あなたに恥をかかせるなって」


 どうやら夫の再訪は、養父の勧めによるものらしい。義父の思いがけない心遣いは、静蘭の胸を温かく満たしてくれた。


「おやさしい方なのですね」

「……女のひとにはね」


 なぜか不貞腐れたような顔つきで、少年は頭をさすった。


連城ここにいる間は毎晩通えってさ。かまわない?」

「もちろんでございます。どうぞ我が家と思ってお寛ぎくださいませ。早速ですが子怜さま、夕餉はお済みですか」


 この若い夫を精一杯もてなそうと、手を打って下女を呼びかけた静蘭だったが、少年は「いらない」と首を横にふった。


「では、湯あみでも」

「それもいいよ」

「では……」


 どうすれば、と静蘭は途方に暮れた。まだ宵の口であるが、もう床に就いて眠りたいというのだろうか。それならせめて、肌触りのいい寝間着でも用意しようか。そう思って部屋を出て行こうとした静蘭だったが、「待って」と細い声に呼び止められた。


「あのさ」


 白い花を思わせる美しい面に、どこか媚びにも似た色が見え隠れする。


 まさか、と。ある思いに、静蘭は身を強張らせた。まさか、そのようなことが起こり得るだろうか。いや、夫婦の杯を交わした男女の間ではごく自然なことだろうが、しかし――


 襟元を押さえて立ちつくす静蘭の耳に、ちゃり、という石の触れ合う音が届いた。


「ここ、碁盤ある?」


 懐から小袋を引っ張り出した少年は、ねだるような目で静蘭を見上げた。



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