連城の蘭花(三)
「手違いだって」
婚礼翌日の朝――と呼ぶにはいささか遅い時刻に目を覚ました夫は、何でもないことのようにそう言った。
「……手違い」
そ、と夫がうなずくと、静蘭の手からするりと黒髪がこぼれた。
床に片膝を立てて座る夫の髪を、静蘭は櫛で梳いている。いかにも新婚の夫婦らしい行為だが、あいにく二人の間に流れる空気は、初々しさとも艶めかしさとも無縁だった。
なにしろ、日が高くなる頃にようやく起き出したこの夫、側に控える新妻にも祝いの膳にも目もくれず、そのまま「じゃ」と立ち去ろうとしたのだ。静蘭がとっさに袖をつかまなければ、寝乱れた髪と衣のまま黄家の門を出ていたことだろう。
「うちにそそっかしいのがいてさ。あなたの噂を聞いて、最近の話だと勘違いしちゃったらしいよ」
「とおっしゃいますと、そちらさまは、わたくしが十六かそこらの娘だと思われたと……」
「みたいだね」
それは、と静蘭は絶句した。
「……それは誠に申し訳ございませんでした。わたくしをご覧になって、さぞかし落胆なさったことでしょう」
「べつに」
くるりと少年が振り向いた。
「そんなことないけど」
澄んだ瞳を向けられて、胸の奥がざわりと波立つ。この際立って美しい少年の眼差しには、見る者の心を揺さぶる何かがあるようだ。
「じっとしていてくださいまし。いつまでたっても結えませんわ」
内心の動揺を悟られまいと、静蘭は少年のこめかみをおさえて前を向かせた。はあい、と素直に頭を預けるさまが、幼い子どものようで微笑ましい。
「それで、だ……」
旦那さま、と言いかけて静蘭は口をつぐんだ。少年の華奢な肩に不快げな気配が漂ったような気がして。
「子怜さま」
言い直すと、一拍おいて「なに」と気のない声が返ってきた。
「失礼ですが、子怜さまはおいくつでいらっしゃるのですか」
「さあ」
はぐらかすような返答だったが、そこに
「十五とか六とか、そんなところじゃないかって伯英は言ってたけど」
「伯英?」
訊き返したところで、ああ、と静蘭は思い当たった。王家軍総帥、王伯英。またの名を王虎将軍。兄が静蘭を嫁がせるはずだった、本来の相手。
「子怜さまは、伯英さまのお身内でいらっしゃるのですか」
「いちおうね。ぼくは伯英の養子だから」
なんということだろう、と静蘭は額をおさえたくなった。
王家軍総帥との縁組のはずが、蓋を開けてみれば花婿はその息子だったというわけだ。兄はさぞかし憤慨しているだろうが、それはあちらも同じだろう。総帥の息子に年頃の娘をあてがったつもりが、三十路の出戻りを迎える羽目になったのだから。
「返す返すも申し訳ございません。それでは、この婚儀はやり直しとなりますでしょうか」
「いや」
しごくあっさりと、少年は否定した。
「いいんじゃない、このままで。いまさらやり直すのも面倒だし」
「面倒などと……子怜さまもお嫌でしょう。わたくしなどが相手では」
「ぼくはいいよ」
その言葉が少年の本心であることは静蘭にもわかった。決して、あなたがいい、という意味ではないことも。
「あなたもそうでしょう」
結ったばかりの髪をなでながら、若すぎる夫は静蘭を見上げた。
曇りのない鏡のような、澱みのない泉のような、そんな澄んだ双眸を前にして、静蘭の心は不思議と平らかに凪いでいった。
「……そうですわね」
同意のしるしに、静蘭は夫に微笑みを返した。
「本当に、そのとおりですわ」
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます