月夜の邂逅

翠雪

月夜の邂逅

 不意に押されたアキレス腱を見遣ると、街灯に縁取りを照らされた黒猫が、無口にこちらを見上げていた。


 定時という概念を失った職員室から退出したのは、大半のチェーン店における営業時間をとうに過ぎた頃。特異に閉店しないコンビニで番号を告げれば、毒を孕んだ紙箱が無愛想に差し出される。重くなる一方の税を支払って得た煙草は、惰性で咥え続けているものだ。教員生活一年目、慣れない環境と謂れのない理不尽に溜まるストレスを吞み下すための道具として、積もれば高い買い物を今日もこなす。カートン単位で買うほどではなし、やめようと思えばいつでも……と、すっかり依存症を舐めきった思考とは、大学からの付き合いだ。同時期に交流が始まった、現在は新米記者として奔走する恋人からは、二時間ほど前に「遅くまでお疲れ様。おやすみ」と短いチャットを送られている。週末に会う予定を潰さないための残業であることを、言わずとも悟られているのかもしれなかった。


 歩きながらの喫煙はご法度であるため、タバコの箱は仕舞い込んだまま、清い夜風を呼吸で消費する。出勤したら朝一でプリント印刷、日誌とノートのコメントは済ませた、冷蔵庫に作り置きはあったか、米が冷凍してあるはず、しかし腹はあまり空いていないから――と、浮かんでは消える泡を頭の中で巡らせていると、突然、足元を何かに押された。すぐに現場を確認して目下捕捉した犯人は、悪意のない顔つきで、金色の視線を惜しみなく送ってくる。数秒見つめ合えども、にゃあとも言わない。


 小学校や中学校で管理される飼育小屋を除けば、まともに動物を飼った経験がない自分にとって、この種族に対する特別な思い入れはない。彼か彼女かは知らないが、どうやら、首輪の持ち合わせはなさそうだ。野良の生活を邪魔するのも己の睡眠時間が減るのも御免被るため、早々に場を辞そうと、元の通りに顔を上げる。しかし、離脱を実行に移そうと踏み出すたびに、道を少しだけ先回りした毛皮越しの体温が、無遠慮に脚へまとわりついてくる。相も変わらず黙ったまま、存外に強く身体を擦り付けてくる、小さな生命体。マーキングの一種なのだろうが、餌の持ち合わせすらないくたびれた通行人を捕まえて、一体どうするつもりだろう。


 屈んでみれば、肉付き薄く形良い、三角形の耳がぴんと立つ。景色の暗さで円に近い瞳孔を、勝手に許しと受け取って撫でてみると、すねで受けていた圧の一部が、掌にかかる。ねだられるままに従っていると、深まる夜を無視するそれは、際限なく次を求めてくる。ちょっとあやして離れるはずが、無垢な赤子の我儘を思わせる自由の塊は、車通りの少ない道路で人慣れしきっていた。面映い気持ちも、連れ帰るほどには愛着が育たない結果には無駄に終わり、騙しているような気分になって勝手に沈む。


 それに、何より。俺の交際相手は、猫アレルギーなのだった。


「次は、もっと優しい人に強請るんだな」


 顎を指先でくすぐって立ち上がると、一度だけ身を寄せられる。次の曲がり角を折れるまで、絶えず自身が見つめられているような気がしたのは、勘違いだろうか。こっそり振り返ってみると、そこには何らの影もない。どうやら、飽きられたらしい。


 今夜は月が近く、雲も彼方だ。振り仰いだ空の遠くから、微かな鳴き声が風に乗ってきて、鼓膜を揺らした。

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月夜の邂逅 翠雪 @suisetu

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