雪が降っただけの日

戸間駒井

雪が降っただけの日

「聞きましたよ」

 どうも、彼女は怒っているようであった。

 いつになくハッキリとした発声は、それでいてかすかに震えていて、かろうじてまだ、私の前で彼女があるべきだと思う姿を保とうとする緊張がもろに表れていた。次の言葉の前にゆったりと息を吸うわざとらしい動作まで、今ここの空気はつぶさに音を立てさせるのが申し訳ない。ちょっと前に私が暖房を消したから、部屋の空気は冷えてカチコチに硬くなっているのだ。

 彼女は薄い色の唇をいつもより大きくはきはきと動かして、まるで芝居でもしているかのような迫真のまなざしで、訊ねた。

「辞めるつもりなんですって?」

 辞めるつもりなんですって。と。それだけ発して、彼女はまたかたく一文字に口を結んだ。

 その一連が、映画のスクリーンでも通しているかのようにロマンチックで、彼女らしくもなくダイナミックなものだから、正直いうと私は呆気にとられていた。ほお、「辞めるつもり」「なんですって」と来ましたか。

 私はえんぴつを机に置いて、クロッキーブックを床に放った。

「きみさぁ」

 肩がぴくっと跳ねた。彼女は獲物を狙うヘビか、あるいはそれに睨まれたカエルのようなそのまん丸のまなざしのままに、まっすぐに私を睨めていた。

「分かってて聞いているでしょ」

「なにが」

「それよ」

「どれのこと」

「だからね」

 私は少し腰を浮かせて、床のクロッキーを拾い上げた。塗装のはげた古い木の椅子が、ごり、と耳障りな低い音をたてて水を差した。

「辞めるつもり、じゃなくて、“辞めた”でしょ」

 上擦った声が出た。黄色い紙の束は持ち上げて動かすとペラペラと、ばかみたいに軽い音を立てるものだから、前屈みになって潰れた腹が震えだそうとするのを、私は必死に堪えていた。

 拾ったそれを、机の上に投げ出していたカバンに入れて、ファスナーから雪崩のようにはみ出していた教科書やノートもきれいにしまい、そうしながら私は付け足す。

「“なんですって?”でもなくて、“のね”だよね。だから、きみが言うのは“辞めたのね”なんだよ」

 最後に、転がっていたえんぴつを指でそっと掬い上げて、それを彼女に向ける。もちろん、持つ側を彼女の方にやりながら。

「そういえばこれ、ずっと借りてたよね。今返すわ、ごめん」

 彼女はまだ私を睨んでいた。というよりは、まるで人を食う化け物でも見たかのような目をして、少し赤くなった顔を引き攣らせながら、私を見ていた。


 雪が降っている。1月の夕方は寒い。マフラーを巻いても堪え難い寒風に、私は震えながら、背負った鞄が雪で濡れないように背中を丸めた。

 小林うれいが傘を持っていた。傘は私のだ。白い柄のビニール傘、何の変哲もない。それがいいな、と思う。ビニール傘の、濡れた膜越しに雨の雫を見るのが好きなのだ。雪の粒でもよし。雫がぶつかるたびにボフボフと腹に響く音が鳴るのもビニール傘のいいところだ。雪は無音だけど、それもまあよし。

 愁は、まだ何も喋らずに歩いている。私の方を見ようともしない。

 いまは学校の玄関を出て数分ばかし歩いたところだ。放課後、部活動の時間のまだ半ばごろというハンパな時間なので、周りに同じ制服は見当たらない。それどころかこの雪であるから、いるのはレアな積雪に舞い上がった小学生のガキンチョどもだけだ。遠くの方で、ボーイたちが金切り声を上げてはしゃいでいるのがかすかに聞こえてくる。気楽でいいものだ、と、愛おしいような鬱陶しいような気持ちになる。それから、自分たちにもああいう時期があったことを思い出して、しみじみとした感慨を覚えるのが14歳という年頃なのだ。

 愁とは、ちょうどあのぐらいの歳からの付き合いだった。4年生のときに同じクラスになって、新学期特有の五十音順に並んだ初期状態の座席では、小林愁と佐渡めぐるは前後どうしに座っていた。その頃は、愁はまだメガネをかけていなくて、私の髪は長かった。それに、愁の方が身長が高かった。ほんのわずかだけれども。

 いま、横を歩く愁の顔をちらりと横目で見る。さっき美術室でしていたようなあの顔はもうしていなくて、ふつうの顔でただ歩いていた。それがまたどうにもおかしいような気がして、私はまだ顔がニヤつくのをどうにか悟られないように努めていた。こういうちょっと張り詰めたような、気まずい空気が漂っているときに、なぜだかひとりおもしろくなってしまうのは私のよくない癖だ。治したほうがいいとは思っているのだけれども。

 …それはともかくとしても、ちょっと上からのこの角度で彼女を見下ろすのは、実のところ結構好きだ。正面から見るよりも迫力が薄いので。白くて小さい、ツンとしているけどもちょっと丸っこい鼻にリムレスのメガネのレンズが乗っかっているのが、なんか美術品みたいで可愛らしいのである。これは中学校に上がってから気づいたことで、つまらん学校生活のわずかなうるおいでもあり、そういうことは、わざわざ本人には言わないけれど。

 しばらく、数秒ぐらいその横顔を見下ろしていると、なんだか喋りたい気分になってきたので、本当は愁が話しだすまで待っているつもりだったけれども、それはやっぱりやめにした。

「4年ぐらい前だっけ」

 白い息が、初めて音を伴って吐き出され、湿った空気を口にまとわり付かせた。

「なにが」

「雪よ」

「ああ」愁はこちらを見もせず、ごくふつうな調子で答えた。「降ったんだっけ、そういえば」

 どうやらもう、ふつうの会話をしていいようだな、と判断して、私は遠慮なく彼女のその声音に合わせていつもどおりの間延びした声で言葉を続けた。

「たしか小3の頃だったからぁ、5年前か。あれ以来じゃない、こんなに降るの」

「確かに、これだけ積もるのはあの年ぶりかもね。東京でこんなに積もるのって、数年に一回ぐらいだし」

「初めて雪が積もるのを見たのはあの年だったな。日曜だったからさ、近所の子らがみんな公園に集まって遊んでたのよね」

「ああ、そうそう……」

 と、やわらかく受け流す姿勢だった声色が不意にそこで途切れて、愁がふとこちらを見上げた。

「待って、あんたもいたの、そのとき」

「え?」

「公園にいたの?」

「いたけど」

「うそ」

 愁は、目をまたまん丸にして、しかし口元は綻ばせた。「わたしも」と言って、さっきまでとは打って変わっての嬉しそうな顔に、こんどはかえって私の方が面食らってしまった。

「きみもいたの」

「うん、いた。広場で雪合戦して遊んでたのよ」

 愁はうきうきと声を弾ませながら、片手で何かを握って投げるようなジェスチャーを何度かしてみせた。

 ……機嫌はもう治ったのか?

 彼女の唐突な勢いに少し気圧されながら、ともかく、自分も4年前の雪の日のことを思い返してみる。

「小3だから、きみと知り合う前だよね」

 それに、私はまだ今みたいにいろいろテキトウな感じじゃなくて、奥ゆかしくて引っ込み思案だったし──心の中でそう付け加える。その間、愁は話す私の顔を見上げたまま、ああ、そうか、と言いながら首を傾げた。

「私は雪合戦はやんないで、屋根のあるベンチのところに居座って、絵描いてたの。端っこの方で、ふやけた紙とえんぴつでさ」

 そう言って、右手の人差し指で空中にくるくると円を描いてみせた。

 初めて見た雪を、次に拝めるのはまた何年も先になると知った私は、急いで描き留めなければという気持ちに駆られていたのだ。雪だるまを作ったり、みんなと雪合戦をしたりするよりも、その方が私にとってはよほど重大なことだった。

 愁はそれを聞いて笑った。

「変わんない」

「ええ、そうでしょ」私も、わざとあざけるような笑い方をしてみせた。「雪を描くことしか頭になくて、みんなと雪で遊ぶっていう発想がなかったんだよ。今とまったく同じ」

 そう言いながら、私は内心で、次に彼女が何を言うのか、その時点で察しがついていた。

 元から、どうせその話になるであろうことはとっくに想像がついていた。ちょっと遠回りになったけれども、結局はここに行き着くのだろうというところにやはり行き着いた。予定調和だ、それだけのことだった。

 愁はまた少し笑ってから、目を細めたまま、今度は弱気にこぼした。

「だから辞めるのね」


「やっぱり。分かってるんだったらあんな怒ることないのにさ!」

「別に怒ってたわけじゃないよ、びっくりしてただけ……」

「びっくりするようなこと? むしろ納得されると思ってたけど。実際、顧問の先生は納得してたよ」

「そりゃあ、ある程度あんたのことを知ってるなら納得するでしょうよ。でもね」

 と、愁は不意に歩みを止めた。それに気づかなかった私は一歩前に進みかけたが、愁の手に後ろから鞄を掴まれて、つんのめるように止まった。赤信号だった。

「あたしは周のことをよく知ってるから」

 その声は、どこか恥じ入るような、罰するような静かさだった。

「よぅく知ってる子が、同じコミュニティからいなくなるのは寂しいでしょ」

 それでいながら、雪が積もるときにするあの音のように、ハッキリと、私の耳に届いた。

「寂しい?」

 私はその言葉だけを鸚鵡返しにして、返答を待った。しかし、愁は頷くだけで、それ以上何か言うつもりはないようだった。

 寂しい。

 確かにそう言った。私は、それでとうとう、全てにおいて溜飲が下がるような思いがした。

 信号はなかなか青にならなかった。歩車分離式という面妖なシステムで働くこの信号は、この地域の生徒を毎朝絡めとるかのように足止めし遅刻へといざなう“魔の交差点”であるのだ。

 それから、信号を待つしばらくの間、しずかな沈黙が続いた。私たちの他に信号を待つ歩行者はいなくて、ただまばらに車が通り過ぎていくのを黙って眺めるだけの時間が過ぎていった。

(これまでに合計何十分、愁とここで信号待ちをしただろうか)

 私はそのようなことを考え始めた。

 学校から私たちの家がある区画まで移動するのに、必ずしもこの交差点を通る必要はない。迂回するルートはいくらでもあるし、その方が余程短時間で移動することができる。私たちとてそれは当然知っているから、朝登校するときはこんなくそルートを使わない。ではなぜ、下校するときにだけこの交差点をわざと通過するのかと言えば、単純な話だ、少しでも長く一緒に居たいから。それだけ。

 中学に上がってから、私はずっと美術部に所属していた。今日まででほぼ2年だ。愁もそうで、しかし実際のところは部員としての活動は半ばどうでもよく、ただお互い同じ部活に入っていたかっただけ。私は絵を描くのは好きだけれども、集団行動とか、目標に向かって努力するのとかはキライだから、当然のようにやる気はなかった。愁の方は私以外の部員ともそれなりに仲良くしていたようだけどそれについてはよく知らない。

 テキトウに絵を描きながら、たまにダラダラとくっちゃべったり、居眠りしたりして、下校時刻になったら二人で一緒に帰る。週5でずっとそうだったのだ。

 その習慣と、自らの資質を天秤にかけた結果、私は美術部を辞めた。

 自らの資質というのはひとえに「集団に属するのがイヤだ」というその一点のみ。あと、「あの教室は絵が描きづらい」というのもある。後者はマジで個人的な感覚だから、言葉で説明しても誰にも伝わらない。愁にさえもだ。

 それでも、私は私に描けるものを、ほんとうにいつも描いていたくて、あの場所はその希望にはどうしても即していなかったのだ。だから辞めた。

 辞めたのはまさに今日だ。顧問の美術教師もうすうすそれを分かっていたようで、手続きはあり得ないほど短時間で済んだ。「君のような生徒はたまに居るのよ」と、老齢の顧問は灰色の髭を撫でながら言った。

 退部を2年生の冬まで引っ張ったのは、それもひとえに、親友への執着からだった。

「青」

 愁が、肘で私の横っ腹をつついた。信号はようやく青になって、横断歩道の両脇に控えた自動車の群れが私たちだけに視線を集中させていた。

「ごめん」

「ぼーっとしすぎ」

「うん」

「変なこと考えてた」

「そうかも」

 信号は、私たちが対岸に渡りきった途端に明滅し始めて、あっという間にまた赤に戻った。車のエンジン音が多重に鳴り出して、静寂はかき消された。


「美術部辞めてもさあ」

「うん」

「絵は描くんでしょ、あんた」

「当たり前」

「描いたらもう、あたしには見せてくれないの?」

「……見たいの?」

「見たいよ。当たり前」

 それから「傘、閉じるね」と言って、愁はビニール傘を前に傾けた。

 昨日の晩から降っていた雪は、いつの間にか止んだらしい。住宅地に入った道の真ん中で空を見上げると、一面覆う雲の厚みが少し減ったような気がして、はあ、と白いため息をついた。

「止んだ」

「止んだね」

 愁が閉じた傘を左右に振ると、ビニールの膜にくっついていた雪がぱさぱさと剥がれて落ちていった。そしてある程度雪の落ちたそれを、私に差し出す。受け取りながら、それが自分の傘だということを忘れかけていた自分に気がついた。

「絵」

 愁が白い息を吐く。

「見せてね」

 彼女は私の方を見ながらそう言った。しかし、目が合うことはなかった。気恥ずかしいときに私の首元あたりを見て話す、昔からの彼女の癖だということを、私は知っていた。

「おー……」

 私は母音だけ返して、あとの気持ちはあくびにまかせようとした。寒いからか、どうもいつも以上に眠たい気がした。あるいは、変な気疲れを無意識のうちにしていたのかもしれない。ましてや気心知れた相手の前で、そんなつもりはなかったのだが、そういうものなのだろうか。

「おーじゃなくて。見せなさいね、約束して」

「ええ? あー、まあ気が向いたら」

「はあ、あんたいっつもそう、なんでそんなに絵を見せるの恥ずかしがるの?」

「別に恥ずかしいわけじゃ」

「見られてると描けないって、いつも言うじゃん」

「それはまあ、言ってるけど」

 いいから約束しな、と言い、愁は私の顔に手を伸ばして、冷えた指で頬を摘んだ。冷たさに私がのけぞると、心底嬉しそうに笑いながらもう片方の腕も伸ばしてきて、反対側の頬をも摘んでくる。

 そのあまりの冷たさが、今、自分の顔がどれだけ熱を持っているのかを知らしめるようだということに私はハッとした。そう思った瞬間に、なんだか今更、すべてが恥ずかしいような気がしてきて、それをごまかすために私は片手で彼女の両頬をむぎゅっと掴んだ。

 そして、彼女の頬も私と同じように熱いことと、つぶれたまま「やだ、やめて」などと言って笑う間抜けな顔を見て、ああ、これも描かなきゃなあ。と、そう思った。

 今日の雪も描かなければならないだろう。そのために私は何より好きなもののある場所を後にして、あまつさえそれが私を恋しがることを期待し、かつそれを思惑通りじゅうぶんに楽しんだわけなのだから、描かなくてよい道理はない。そして、それを他でもない彼女に見せないことには、今日の私のごく小規模な罪の精算にはやはり届かないのであろうというところまで、容易に想像づいた。

 そういうもろもろを、端的かつ適当に、適切に集約した結果出力された笑い声は、今日発した中でも最も自然だったように思う。

「まあ、とにかく、善処するわ」

とだけ言って、私はそれ以上はもう、このことについてふかく考えるのはやめることにした。

 つまりは、触れているこの肌の持つ熱を、ずっと変わらないこの笑い顔をもってして、今日のところの結論とさせていただこうという腹積りである。神よ許したまへ、とか。

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