最後の夏、恋、解けない呪い。

ささき彼女!@受賞&コミカライズ決定✨

最後の夏、恋、解けない呪い。

 その夏。きみはぼくに呪いをかけた。


『ねえ、あたしと付き合わない?』


 そんなふうに悪戯に微笑むきみのおもかげを、ぼくは未だに思い出す。


『高校生最後の夏休み――その間だけ』


 ぼくはきみと、このしまで。

 期間限定の恋をすることになった。


『最後の、夏休み』


 きみはどこか寂しげな笑顔で繰り返す。


『約束、おぼえてる?』

「約束?」

『あたしのことを絶対に――好きにはならないこと』


 それがぼくときみがした約束。

 仮初の恋人になる前にわしたちぎり。


『約束、だよ?』


 違う。約束なんかじゃない。

 その言葉は。あまりにも重すぎる想いは。

 ぼくにとっては、まるで――


『高校生最後の夏』


 記憶の中の俤のきみは。

 世界に向けて語りかけるように言葉をつむいでいく。


「うだるような太陽の熱射線」とぼくもつらねた。

『鳴りやまない蝉時雨せみしぐれ

「宝石にも似た輝く海」

『世界を反転させる蜃気楼しんきろう

内海ないかいに浮かぶ小さな島の最果てで」

『寄せては返す憧れの波の終点で』

「ぼくたちは」

『あたしたちは』

「ひと夏限りの恋愛こいをして」

『人生最後の恋愛こいをして』

 

 そしてきみは。


『ねえ、お願い』

 

 その夏。ぼくに。

 

『あたしのことを。絶対に好きにはならないで』

 

 

 ――解けない恋の呪いをかけた。

 

 

      * * *

 

 

「ねえ、あたしと付き合わない?」


 急にそんなことを言われて。

 ぼくは戸惑った。だって。ぼくはちょうど。

 

 ――一生いっしょうって決めてるんだ。

 

 なんてことを。ちょうどきみに伝えた矢先のことだったから。

 

 湿気を孕んだ暖かな風が吹いて、きみの髪を揺らせた。

 背後には見慣れた景色が見える。ぼくの生まれ育った島の景色だ。

 海。防波堤。不規則に並ぶ船舶。フジツボのついた灯台。熱射線。潮風。海猫の声。姿の見えない蝉の合唱。涼しげな波の音。どうしようもないほどに夏だった。

 

「どうかな? 湊音みなとくん」

 

 湊音。ぼく。高校三年生。みなと、という漁業が盛んな島にちなんだ名前は、あまり気に入っていない。それは音の響きとか、ぼくが島の住民にしては珍しく『泳げない』とか、そういうんじゃなくて。複雑化した離婚の末にぼくを捨てた両親がつけた名前だから、という理由が大きかった。人を好きになる気持ちが永遠じゃないのなら、はじめから恋なんてしなければいい。『恋愛なんて、一生するつもりはないよ』

 

 そう言ったのに。きみは。

 

「あたしと付き合わない?」

 

 なんて。海よりも澄んだ笑顔で繰り返すんだった。

 きみ。ぼくと同じ。高校三年生。どこか気品の漂うセーラー服をまとって。夏の光を反射する長く艶やかな髪。ひとつの日焼けもしていないさらさらの雪みたいな肌。瞳はラムネのガラス玉みたいに澄んでいる。

 東京から来たというきみは、この島じゃ明らかに異質だった。異質で、非現実的で、夢みたいに、美しかった。『どうしてこの島にきたの』って。最初に会ったときにきいてみたら。『この絵の場所にね。いきたかったの』って。一枚の写真を見せてくれた。

 それは東京にある、彼女がよく行く喫茶店カフェの壁にかかっていたお気に入りの絵らしくって。そのモデルになったというこの島に、高校最後の夏休みの間滞在するらしい。

 

「そう、高校生最後の夏休み」きみはぼくの思考を見抜いたように言った。「あたしがこの島にいる間だけ――恋人になってほしいの」

「さっきも言ったけど。ぼくはこの先、だれかと恋愛するつもりは、」

「だからだよ」

「え?」

「もうこの先。一生。恋愛をすることはないんでしょう? それはあたしにとって、すごく好都合なんだ」

「どうゆうこと?」

「この恋には限りがあるの」

「限り?」

「時間制限」きみはつけてもいない時計を示すように手首を撫でた。「夏が終わったら、あたしは東京に戻るの。それで恋はおしまい。だったら、すこしでものないほうがいいでしょう?」

「そもそも」とぼくは言い返す。「どうしてそんなことをする必要があるのさ」

「ううん。――想い出づくり、かな」きみは恥ずかしそうに言った。「高校生最後の夏。勢いのままに東京を飛びだしてきたはいいものの。このままじゃ足りないってことに気づいちゃったんだ。青春の、要素が」

「青春?」

「あ、この場合、正しくはかな。青い夏。青夏」

「その青い夏の想い出づくりに付き合えってこと?」

 

 きみはうなずいた。


「夏休みの間。期間限定の恋人関係になることで」

 

 きみは強くうなずいた。


「ほら。お互いに受験もしないってことだし」

 

 たしかに。きみは大学に進学するつもりはないとのことだったし。

 ぼくも高校卒業後は島に残って働く予定だ。

 

「あたしたち、ぴったりだと思わない? いろいろな意味合いにおいて」

「そうだね。ぼくの意思が軽視されてることを除けば」

 

 きみは頬を軽く膨らませた。


「一度もしたことないんでしょ?」

「え?」

「恋。恋愛」

「それは……そうだけど」

「これまでに、だれとも付き合ったこともない」

 

 ぼくはうなずいた。


「そしてこれからもしないと決めている」


 ぼくはつよくうなずいた。

 

「だったらさ。人生で一度くらい、してみてもいいんじゃない?」

 

 ぼくは首をかしげた。

 

「ね、湊音くん。お願い。あたしの最後の夏を、青色に染めたいの」

 

 海。防波堤。不規則に並ぶ船舶。フジツボのついた灯台。熱射線。潮風。海猫の声。姿の見えない蝉の合唱。涼しげな波の音。どうしようもないほどの夏の底で。

 

「ねえ――あたしと、付き合ってくれる?」

 

 ぼくは仕方なくうなずいて。


 きみと夏休みの終わりまで。

 仮初かりそめの恋人関係になった。


 

       * * *

 

 

 そういえば。

 ぼくはきみに、名前を教えてもらえずにいる。


 

       * * *


 

 意外なことに、きみも恋人をつくるのははじめてとのことだった。

 

 はじめての恋愛。期間限定の恋。

 それはどこまでも仮初で『形だけ』なはずなのに。

 その『正しい恋の形』を知らなかったから。

 

 ひとまずぼくたちは『デート』と称して。

 きみがこの島に来るきっかけになった絵画と〝同じ画角の場所〟を探すことにした。


「ううん……ここも違うみたい」

 

 きみはスマホを取り出して、その画面に映る絵の写真と目の前の景色を見比べた。


「そんなに簡単に見つかるとは思ってないよ」

 

 ぼくはポケットから島の地図を取り出して、今いる場所に×印をつけた。地図上はすでにいくつかの×印で埋まっている。出向いた先が絵画の中の景色と違えば×をつける。その繰り返しだ。


「あ、そうだ。写真撮らせてよ」

「あたしの?」

「ちがうよ」とぼくは笑って、「スマホの画面越しにさ。その絵の写真」


 本来であればデータを送ってもらうのがいちばん手っ取り早いんだけど。

 きみはぼくに、かたくなに連絡先を教えようとはしなかった。『あたしたちの関係はこの夏だけのものだから。後腐れをなくすためにも、その先の〝未来〟に関わりそうなことは極力教えないことにするの。それがこの恋のルールなの』なんて言われてしまえば、それ以上どうすることもできなかった。

 

「あ――うん。それくらいなら」

 

 きみの許諾を得てからカメラアプリを起動して、タップ。

 保存された写真はすこし画質が荒かったけど、絵画の全貌をつかむには十分だった。


「じゃあ、名前は?」


 ぼくは話の流れできいてみた。連絡先だけじゃない。ぼくはきみの名前ですらも、振りかざされた〝恋のルール〟とやらを理由に知らないままだ。

 

「名前も知らない恋人どうしなんて、仮初だとしても変だと思うけど」

「彼氏なのに?」

「彼女なのに」

「なかなか珍しいでしょう?」ときみはどこか得意げに言った。

「教えてもらえないんだ」

「ううん。いつか、ね」

「いつか?」

「そのうち」

「きっと?」

「たぶんね」

 

 ぼくはあきらめて、スマホのホーム画面に映るカレンダーをのぞいた。


「ま、夏休みが終わるまで、まだまだ時間はあるけどさ」


 そこできみは小さくぼくの言葉を繰り返した。

 

「――まだまだ、時間はある」


 その声が。音が。なんだかとってもはかなくて。今にも消えいってしまいそうに感じて。

 

「手、つないでみる?」


 なんて。すこし突拍子もない言葉をぼくは吐いた。


「え?」


 はじめて。きみの瞳が動揺したように揺れた。


「一応はぼくたち、恋人どうしなんだし。手……つないでみる?」


 出した言葉はひっこみがつかなくて。ぼくはぶっきらぼうに手を差しだす。

 

「あは。なんだか、緊張しちゃうね」

「ん」

「――よろしく、お願いします」

 

 おそるおそる。触れられた手のひらは。

 すこしひんやりとして。汗でしっとりと湿っていた。


「…………」

 

 手をつないでみたはいいものの。

 これ以上どうしていいか分からず沈黙していたら。

 

「ん」なんて。さっきのぼくの真似をして。きみは。ぎゅう。と。ぼくの手のひらをつよく握りしめてきたんだった。「いこっか」

 

 視線はわざと合わさずに。

 夜の気配が僅かに遠い空に漂いはじめた帰り道を。

 

 いつもよりもゆっくりとした歩調で歩いた。


 

      * * *


 

 それからぼくたちは毎日。

 夏休みの最後。最後。最後に向かって。

 青い夏を過ごしていった。


 恋人らしいことなんて。できていたかはわからないけれど。

 恋人どうしのふりをしながら。はじめての恋愛に戸惑いながら。

 

 防波堤の端にふたりで座って。潮騒の響く白んだ海を眺めたり。

 西の果ての砂浜の波打ち際を。とりとめのない会話をしながら歩いたり。

 灼熱の太陽の日差しの下で。きんきんに冷えた蜜柑のシャーベットを食べたり。

 展望台のベンチで港を見下ろしながら。イヤホンの左右を分けて音楽を聴いたり。


 ときどき。ときどき。手をつないで。

 

 夏祭りにも行った。お互いに浴衣を着た。屋台のりんご飴。食欲をそそる焼き物のにおい。買ったかき氷をきみは胸元にこぼした。ぼくはハンカチを取り出してそれをぬぐう。洗って返すねってきみは言って。あげるよってぼくは笑った。お面をかぶって。金魚すくい。射的。輪投げ。三度目でとれた銀色の首飾りを。

 

「くれるの?」

 

 きみの胸にそっとつけた。

 

「――ありがとう。大切にするね」


 大切にするねって。きみは言った。

 それはきみの口からきいた、はじめての未来に向けての言葉だった。

 

「大切に、するね」

 

 繰り返すきみの後ろの空で。

 琥珀色の花火が弾けて消えた。


 

       * * *



 絵の場所へは未だに行っていない。

 地図は折り目や色の掠れが目立つようになって。

 表面はたくさんの×印で埋めつくされている。

 ぼくはそのひとつひとつを指でなぞって。

 きみと過ごした日々の想い出に浸る。

 最後の夏休みの。かけがえのない一瞬一瞬の想い出に浸る。

 今でも脳裏に鮮明に甦る、その日々の色は――


「……っ」 


 なんてことはない。

 ぼくはきみの絵画に描かれた場所を知っていた。

 きみに出会う前から。ぼくのお気に入りだった景色のひとつだ。

 

 それでも。気づいていないふりをして。様々な場所をきみとまわった。

 ときどき。ときどき。手をつないで。デートという名目で。

 増えていく×印。近づいてくる夏の終わり。

 いつしか。ぼくは。その日が。終わりの日が来るのが。

 こわく。なった。だけど。

 

 このままじゃいけない、と思う。

 じゃあどうすればいい、と迷う。


 ――あたしのことを、絶対に好きにはならないでね。

 

 それがきみと交わした約束で呪いだ。

 

「そうだ。ぼくはいつの間にか」

 

 自分の中に生まれて。渦巻きはじめた感情は。

 呪い以上に重い想いは。もう。とめどなく。あふれて。あふれて。

 どうしようもなくなって。

 

「伝えなくちゃ、いけない」

 

 ぼくは壁にかけられたカレンダーに近寄って。

 そこのひとつの日付。夏休みの終わり。

 その前日に――大きく赤い丸をつけた。


 

      * * *


 

「わ、すごい!」

 

 スマホの画面と目の前の景色を見比べて。

 きみは感情の高まった声をあげた。


「本当に絵のとおりの場所なんだね」

 

 8月30日。夏の終わりの前日。きみとの恋の終わりの前日。

 ぼくはきみをその場所に連れてきた。

 

「……あれ? どうしたの。あんまり喜んでないみたいだけど」

 

 きみは不思議そうにぼくの顔をのぞきこんできた。


「ごめん」

「うん?」

「知ってたんだ。ぼく。途中できづいてた。この場所のこと」

 

 きみはすこしの間のあと、悟ったようにおおきくひとつ目をまたたかせた。


「どうして教えてくれなかったの?」

「……彼女なのに?」

「彼氏なのに」

 

 ぼくはいまだ、きみの名前を知らないままだ。だけど。


「好きだ」

 

 って。ぼくは言った。

 

「へえ、めずらしいね」

 

 って。きみは言った。


「彼女にそうやって言ってくれたの、はじめてじゃない? なんだかうれしいな。こうやって夏の終わりに――」

「ちがう」

「え?」

「ちがう。好きだ――夏の終わりとか。仮初だとか。関係なく。本当の意味で」

 

 ぼくはもう一度。言った。

 

「きみのことが好き。どうしようもなく。夏が終わっても」

 

 言った。言った。言った。

 

「これからの未来も、ふたりで青色の季節を過ごしていきたい。好きだ!」

 

 言葉が途切れた。

 どうしようもないほどの夏の気配が、ぼくたちふたりがいる世界を満たしていく。うだるような太陽の熱射線。鳴りやまない蝉時雨せみしぐれ。宝石にも似た輝く海。世界を反転させる蜃気楼しんきろう内海ないかいに浮かぶ小さな島の最果てで。寄せては返す憧れの波の終点で。ぼくはきみと。ひと夏限りと約束した恋愛をして。そして――

 

「まだ、終わりたくないんだ」

 

 そんなふうに。願った。


「……」

 

 きみは。海よりも澄んだ瞳で。

 ぼくのことをじいっと見つめたあとに。


「――ありがと」


 と言って。嬉しそうに笑った。

 

「あ……じゃあ、」

 

 きみは顔の前に白い指先をもってきて、ぼくの言葉の続きを制して言った。


「明日。この場所で」

「え?」

「もう一度、言ってくれない? 今日はすこし、心の準備ができてなかったから。返事は、そのときに」

「……ん。もちろん。きみが望むなら。何度だって」

 

 きみはいつもみたいに微笑んだ。

 

 帰り道。きみのほうからはじめて、ぼくの手を握ってくれた。

 海沿いを歩いているうち、空の端に茜色の蓋が迫ってくるのが見えた。

 足を止めて背後を振り向くと、水平線上に浮かぶ群島の間に巨大な太陽が沈んでいくところだった。

 

「きれいだね」ってきみは言った。

「ん……きれい」ってぼくは答えた。

「夢みたいな景色。まるで、世界が終わっていくみたい」

 

 ぼくのほうを見ずにそうつぶやいた横顔は。その半分の表情は。

 さっき。『もう一度、この場所で』って。告白を。本物の気持ちの告白を。

 明日に先延ばしにしたときと同じ微笑みで。

 

 完璧なんだけど。完璧すぎて。自然するけど。不自然で。

 きみはどこか遠くの世界にいるみたいだった。


「また明日――楽しみにしてるね」

 

 そう言ってきみは。

 夏の終わりの橙色の中に消えていった。



      * * *


 

 なんとなく。きみは明日。

 ぼくの告白を。断るような気がしていた。

 だからって。どうすることもできなくて。

 あとはもう。祈るだけで。


 その日。ぼくは。眠れるわけなど。



      * * *


 

 8月31日。高校生最後の夏休み。その最終日。

 待ち合わせの場所。約束の時間。

 きみがこの島に来るきっかけになった絵画と同じ景色を眺められる山の中腹に。


 ――きみの姿はなかった。


 どこかで淡い期待をしていた。

 断られるにしたって。『ごめんね』って。

 直接顔を見て言われるって思ってたから。

 むしろ怒られるって。『好きにならないでって言ったのに』って。

 それは立派な契約違反だから。『うそつき』って罵られると思ったのに。

 きみは。ぼくに会うことすら。ゆるさなかった。

 

「あ……」

 

 ふと気づくと。

 近くにあった木の枝に、どこかで見たことのある布が結ばれていた。

 いつかの夏祭り。きみに貸したハンカチだ。

 近寄って結び目をほどく。中には。

 

「……手紙?」

 

 一枚の手紙が挟まっていた。

 蝉の声がどこか寂しげに響く中。

 ぼくはそれを開いて。中の言葉に目を通す。

 

 なんてことはない。

 そこにはきみのすべてがあった。

 

 きみがぼくをだましていたこと。

 

 つまり。

 きみは。


 ――大きな病気を抱えていて。

 

 今度。その大きな手術が控えていて。

 その成功率は――とっても小さいものらしくって。

 生きていられるか。わからないから。最後に。

 いつか憧れた景色の場所に。この島に。来たくて。

 わがままを言ったこと。無理をしたこと。それでも辿りついたこと。


 そしてそこで――ぼくに出会ったこと。

 

 他の人とは違うと思ったこと。好きになったこと。一目ぼれだったこと。

 そんな自分の中に芽生えたはじめての恋の感情に。

 戸惑って。嘘じゃないかって。偽物なんじゃないかって。

 思って。確かめるために。なにかしなきゃって思って。だけど。

 

 ――きっと世の中にある正しい恋の形じゃ。時間がかかりすぎる。


 そんなことを思って。自分に残された時間じゃ。もう。

 不幸になる未来しか見えないって。絶望していたときに。

 

 ぼくの口から『一生恋愛はしない』なんて言葉をきいて。

 

 それできみはいちかばちか。きみは。

 ――期間限定の恋愛関係を持ちかけたんだった。

 

「……っ」

 

 手紙には他にも書かれている。

 できれば。ぜんぶ。隠したまま。

 きみのもとを去りたかったこと。だけど。昨日の告白で。

 我慢ができなくなってしまったこと。想いが溢れてしまったこと。

 

 夏休みの間、積もり積もった好きの感情を止めることができなくて。

 大好きなぼくの中に。すこしでも。じぶんの俤を。残したくって。

 この手紙をつむいだこと。

 

「……っ!」

 

 ごめんなさいって言葉は。手紙のいたるところに溢れていて。

 なんで。そんなに。謝るのか。ぼくには分からなくって。

 だってきみは。最初から『最後の夏』だと言っていて。

 それが本当だったってだけの話だから。

 最初からきみは。嘘をついてなんてなかったってだけの話だから。


 高校生、最後の夏。つまりは。

 

「――きみにとって。正真正銘の〝最後〟になるかもしれない夏」

 

 を。ぼくと一緒に過ごしてくれた。かけがえのない時間をぼくにあててくれた。

 そんなことを考えたらもう。いてもたっても。いられなくて。

 

 ぼくはきみに向かって。未だ名前も知らないきみに向かって。大好きなきみに向かって。

 

 駆け出した。



      * * *


 

 声にならない声を出して。

 ぼくは港までの道を走った。

 夏の盛りは終わったけれど。

 未だ太陽の光は激しくぼくの全身を突き刺してくる。

 どれだけ息が切れても。身体が悲鳴をあげても。転んでも。泥だらけになっても。破れても。傷ついても。駆けていく足をぼくは止めない。いつの間にか涙は溢れていた。

 

「……あ」

 

 港についたとき。

 ちょうどひとつの船舶が碇をあげて、波止場から離れていくところだった。

 

 その船の甲板に。

 きみの姿を。見つけた。ほかの乗客に紛れてはいたけれど。

 見間違うはずはない。愛している人のことを。はじめての恋の相手を。

 見違みたがえるわけなどない。


「……っ!」

 

 ぼくはそのまま。船を追うように防波堤から海へと飛び込んだ。

 どうしてそんなことをしたのか分からない。理論よりも前に体が動いていた。正常な思考はとうに消えていた。本能が足を動かした。泳げないことも忘れて。ぼくは海の中へと落ちていく。深い。外からみれば光り輝く翡翠色の海も。今はもう、真っ暗闇にしか思えない。どこまでも。落ちていく。その中でも。上空から差し込む光に向かって。ただ。ただ。きみに向かって。少しでも。きみのちかくに。行きたくて。今だけは。今だけは。あふれる重い想いのおもむくままに。ぼくはきみへと。

 

 届くはずのないきみへと――手をのばす。


 

      * * *


 

 周囲が騒がしかった。

 視界は焦点を失いぼやけている。どうやらぼくは水中から引き揚げられ、防波堤のアスファルトに寝かされているらしい。ざわめく人の声が聞こえる。その中に。きみの音を見つけた。間違えるはずがない。きみの気配だ。きみのぬくもりだ。

 

 きみはぼくのことを、抱きかかえるようにしてくれていた。


 きみは言った。


『……ずるいよ。絶対に恋をしないって聞いてたから。あの日お願いをしたのに』

 

 なんてことはない。ぼくは泣いて。きみも泣いていた。

 きみの瞳から。一筋の涙がぼくの頬に落ちた。

 

 その軌跡をたどるようにして。

 きみはぼくの唇に。口づけた。

 

『――あたしも、大好きだよ』

 

 はじめての恋は。青色の恋は。

 お互いの涙と海の味がした。


「……また、あえる?」

 

 絞りだしたぼくの掠れた言葉に。

 きみはこぼれる涙を止めようともせずに。


『最後の夏を、あたしにくれて、ありがとう――』

 

 なんて言って。

 きみは涙でぐしゃぐしゃになった――

 完璧からはほど遠い笑みを浮かべた。

 

 ふたたび視界が霞んで。意識が遠のいていく。

 ぼくの網膜には、涙交じりの笑顔を浮かべるきみと。覚悟を決めたきみと。

 その背後のどこまでも青色の空だけが残りつづけていた。


 

       * * *


 

 きみがくれた手紙の中には『さよなら』って。

 震える文字で書いてあって。『もう会うことはないから』って。

 手術の結果に関わらず。ぼくとはもう会わないって。だから。連絡先も。名前すらも。

 教えてあげられなくてごめんって。書いてあって。


 だって。教えたら。きみに連絡を取りたくなっちゃうから。

 きみとまだ。ずっと。この世界で。繋がっていたくなっちゃうから。

 

 だけど。だけど――そうできなかったときに。

 つまりは。手術に。うまくいかなかったときに。

 あたしが、どこか遠くの世界に行ってしまったときに。

 

 愛する人に連絡ができないのは。とっても悲しいから。辛いから。

 それにぼくのことも。悲しませてしまうから。辛い思いをさせてしまうから。


 だから。もう会わないって。連絡もしないって。関わらないって。決めてるって。それが最後の――わがままだって。きみは。その手紙の中で。唯一ぼくの名前が書かれた一文を。段落の最後に。添えていた。

 

 

『あたしが湊音の世界のどこかで。――ずっとずっと生きていられますように』



      * * *


 

 病院でふたたび目を覚ました時には、きみの姿はもうどこにも見当たらなかった。島の中から、ぽっかりときみの気配がすべて消えていた。真夏の夢。青い夏が見せた蜃気楼。幻影。だけど唯一。

 

「あはは――残ってた」

 

 それはスマホに保存された一枚の写真。きみのスマホの画面を撮影した画質の荒い写真。きみのお気に入りだという東京の喫茶店の壁にかかった風景画の写真。だった。

 

「夢なんかじゃない。きみは。たしかに。世界に存在していた」

 

 ぼくは自らの胸の鼓動に耳を澄ませる。体内からあふれ出す想いの色を確かめる。間違いない。揺らがない。変わらない。ぼくの想いは、今でも――



      * * *


 

 ぼくはそれから、働く予定になっていた島の職場に頭を下げて、4月からの就職を取り消してもらった。


 理由はひとつ。きみを探しにいくためだ。


 そのために東京の大学を目指すことに決めた。学費のことを考えると私立は厳しく、都心の国公立となれば自然と受験先も絞られた。それまで受験勉強なんてしていなかったぼくは、周囲から散々無理だと言われた。あまりに始めるのが遅すぎる。それでも。ぼくは死に物狂いで勉強をして。どうにか目標としていた大学に合格することができた。島のみんなからは『信じられない』と目は剥かれつつも大きく祝福された。4月。ぼくは島を出て東京に向かった。

 

 奨学金を借りて。築数十年の下宿先を根城にして。大学がない時は日夜アルバイトをして。その隙間にきみを探した。

 きみが残してくれた唯一の手掛かりである写真を頼りに。ぼくは東京中の喫茶店をしらみつぶしに探していった。地図帳を買って。ネットで検索をしたカフェの店名を書きこみリスト化する。行った場所にはひたすら×をつけていく。あのときと同じだ。

 

 毎日。毎日。来る日も。来る日も。ぼくはきみを探した。

 生きてるかも。わからないのに。生きてるって。信じて。信じて。信じて。

 ぼろぼろになって。限界を超えて。それでも。絶対に。諦めずに。諦めずに。諦めずに。

 きみのことを。探していたら。


 その絵画が飾られているという喫茶店の情報を。掴むことができて。

 ぼくはいてもたってもいられず、その場所へと向かった。

 

 玄関のドアをくぐると。からんからんと軽快に、そして何かを予兆するような鈴の音が響き渡った。ぼくは店内をゆっくりと見渡しながら、慎重に歩を進めていく。そして。その一番奥の壁に。

 

 見慣れた絵画が――たしかにあった。

 そして。その前のソファーの席には。

 

 いつか見慣れたきみが。

 見間違うはずのないきみが。

 ともに青い夏を過ごしたきみが。

 大好きなきみが。確かにいて。

 

「「……あ」」

 

 視線の一瞬の交錯で。ぼくたちはぜんぶを察して。

 ゆっくりと。ゆっくりと。近づいて。

 ゆっくりと。ゆっくりと。お互いの身体を。抱きしめて。

 

「――やっと。会えた」

「信じられない。夢、じゃないかしら」

 

 互いに震える声のまま。溢れてくる涙は拭わずに。

 幾年かぶりのぬくもりを確かめあう。


「きみに言い残したことがあったんだ」とぼくは言った。「明日って言われてから、ずいぶんと時間が過ぎてしまったけれど。これから巡ってくる季節も、ふたりで世界を生きていたいから――ああ、だから。その、……」

 

 それはいつかと同じ。

 どうしようもないほどの青い夏。



 

「――結婚しよう」

 


 

 ぼくは。きみに。

 解けない愛の呪いをかけた。







                       <END>

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