第5話 雨の日の小景
夜来の雨が、止む事を知らずに降り続けている。
洗濯物を干しているせいか、窓は白く曇り、外の世界と分け隔てている。
はて? 何をしようとしていたのかを思い出せず、老婆は思案顔をする。
お掃除は済ませた。
洗濯物は目の前に見え、赤く燃えるストーブの上昇気流にほんの少し揺らいでいる。
彼女の住んでいる家の少し向こうには小さな湖があり、いつの時代からあるのか、片田舎にできた大きな水溜まりは、少女の頃から変わっていないないように思う。
雨の日の湖、あの日もそうだったと、古き日々の幼い頃を思い出す。
彼女は何をするべきだったかなど忘れ去り、いそいそとレターデスクの引き出しにしまっておいた日記帳を取り出す。
何冊もある日記帳の中から、一番古いものを探し出し、ページを開いていく。
赤く燃えるストーブの明かりと、可愛い傘の付いた電球の下、彼女はうっとりと日記のページを開いた。
「さぁ、早く、こっちだよ」
「待ってよ、どこにも道なんて無いじゃない」
「大丈夫さ、そこの岩に足を掛けて、ほら、そこだよ」
「いやよ、そんな危ない所」
「大丈夫さ、あそこに行かないと、良い魚が釣れないんだ」
「もう、いやよ、魚なんて要らない」
「何を言ってんだよ、魚釣りに連れて行けって言ったのは君じゃないか」
「もういいの、こんな危ない所だったなんて、教えてくれてたら魚釣りになんか付き合わなかったわ」
「だから、何を言ってんだよ。そこを飛び越えたら後は平地さ。さ、手を貸して」
少女は恐る恐る手を差し出す。
「絶対に離さないでよ」
「当たり前さ、離すもんか」
二人の手は固く結ばれた。
然し、あっという間の出来事であった、少女が足を滑らせたのは。
ドボン、と勢いよく湖に飛び込んだ音がする。
「だから、手を離さないでって言ったじゃない」
太陽の光で煌めく湖面、水面の上で浮かぶ二つの小さな頭。
彼はにこやかに言う、
「大丈夫さ、ほら、ちゃんと手は握っているよ」
「馬鹿、もう遅いわ、手を離してちょうだい、私、自分で泳いで岸に戻るんだから」
「分かったよ、僕も岸まで泳ぐから」
ずぶ濡れの帰り道。
彼は笑いながら言う、
「あーあ、釣り道具が湖の底だよ」
「釣り道具なんて潜って探せば良いじゃない」
「無茶を言うなよ、そんなの無理だ」
「じゃぁ、私と釣り道具のどっちが大切なの」
少女の問いに彼は笑いながら答える、
「勿論、釣り道具に決まってるじゃないか」
そう言った彼は、既に逃げ去る用意ができている。
「もう一度言ったら、その頬っぺたをぶん殴ってやる」
「やだよー」
彼の足は俊敏に動いた。
「待て、この大馬鹿者」
老婆は、2冊目の日記帳に手を掛けた。
雨の日だった。
傘の下で彼は言う。
「親父の転勤さ、付いて行くしかない」
「そうなの」
「向こうで落ち着いたら、手紙を書くよ」
「ほんと?」
「ああ、本当さ」
少女は、暫く、遠くを見るような目つきで向こうの空を見ていたが、何かに気が付いたかのように静かに話し出す、
「ねぇ、ここから見える森。あそこの湖に魚釣りに行った時のこと、覚えてる」
「どうしたんだよ、急に? でも、覚えてるよ」
「あの時、手を離さないでって言ったの?」
「覚えてるさ、湖に飛び込んだのは君だよ。そして約束通りに手を離さなかった僕は、一緒に湖の中さ」
「そうね、あの時、あなたが繋いでくれた手、強すぎて痛かったわ」
少女は自分の手に目を落とす。
「それは済まなかったと思うけど、あの時、湖に落っことした釣り道具、まだ弁償してもらっていないよね?」
「釣り道具と私とどっちが大切なの?」
彼は、あの時のように、逃げる準備はしなかった、
「勿論、君さ」
深い色をした青い傘の下、彼は、そっと彼女の肩を抱き寄せた。
老婆は、そっと日記帳を閉じた。
彼は、確かに手紙を寄越してくれた。
然し、時間と共に人の心は変わるもの。
ましてや、遠く離れ、当時の交通機関は今ほどの便利さはなく、一度会いに行くだけでも大変なことであった。
あの時、会いに行っていれば、どうなっていたのかしら?
ふと老婆は考えるが・・・。
足元で金属音がする。
一人暮らしの彼女の大切な同居人、一匹の小犬が餌をねだって、自分のお皿を前足で叩いていた。
「あら、御免なさい、ご飯、そう、あなたにご飯をあげようとしていたのを思い出したわ」
彼女は、同居人の餌と一緒に、自分用に温かなカップスープを注いだ。
湯気が上るカップを持ち、白く覆われた窓を拭けば、向こうには小さな湖を持つ森が見える。
いつまでも変わらないものは、この森の湖だけね、と老婆が微笑んだ時、彼女の目には湖ではしゃぐ二人の少年と少女が見えていた。
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