第29話 誘惑
私はもう一度涙を呼び戻し、瞳をウルウルさせてみる。
「チーフ…私……本当にすみませんでした…」
目元を潤ませる私を見て、チーフはわかりやすく動揺している。
「うおっ…お、おい、宮村、落ち着け。泣くなよ…」
「でも、私…本当につらくて……」
「待て待て、俺も新人のころはすげぇ失敗したから。今回のコレなんて比較にならねぇ、すげーーー失敗してるから!!」
泣きまねを続けながら、私はさりげなく会議室の鍵を閉めた。ついでに、ブラウスのボタンもひとつ外す。
チーフは私のヨコシマな思惑に気づくわけもなく、会議室の中をいったりきたりしながら、必死で新人時代の自分の失敗エピソードの数々を語っている。
――こういうときに女子が聞きたいのは、「つらかったな or よく頑張ったな」という優しい一言なのだけど、自分のヤバすぎる失敗談をマシンガントークで並べ立てるあたり、さすが恋愛音痴。
「……というわけで、この俺だって新人のときはかなりやらかしたもんだ。当時は柳課長が俺の教育係だったからさ、一緒に謝りに行ってもらったこともある。やばいだろ?柳課長に頭下げさせたんだぞ、俺」
得意げに失敗談を語るチーフは可愛すぎるけど、今は演技に集中しないと。私はチーフが貸してくれたハンカチに顔をうずめるようにしてうつむいた。
「私……もう仕事を続ける自信が……」
「な、なに言ってんだよ宮村!」
大慌てでチーフが駆け寄ってきて、私の肩にそっと手をのせる。
「やめるなよ、絶対。おまえ、営業の才能あるんだから…俺が保証する!」
「でも……私自信ないんです…。私なんか、ミスばっかりで何も取り柄がないし……」
「そんなことねーよ!」
思いがけず強い力で肩を掴まれて、私は思わず顔を上げた。チーフが、真剣な目で私を見つめている。チーフの目は黒い鏡のようにキラキラ光っていて、私の姿がはっきりと映りこんでいた。……綺麗な目。
「おまえは気配りできるし、商品の勉強もしっかりしてるし、説明も丁寧で的確だし、新人としてはデキすぎるくらいだぞ!」
「本当ですか…?」
こんなにストレートにほめられたのは初めてで、つい本気で涙がにじみそうになる。先輩は力強くうなずいて、にかっと笑った。
「おまえみたいなやる気ある奴の教育係になって、俺は超ついてるよ。正直、おまえのことはもう新人と思ってないからな。対等な同僚だと思って、仕事してるつもり」
――めちゃくちゃ嬉しい。
やっぱり、チーフが大好き。大好き。甘苦しい気持ちが、胸から一気にあふれ出しそう。
「……本当に、私のこと魅力があると思いますか?」
「もちろん!ちょっと図々しいところはあるけど愛嬌あるし、絶対お客さんに可愛がられるタイプだって!」
私は涙をぬぐいながら、チーフのほうへ一歩近づく。体がくっつきそうなくらい接近する。
「本当に、可愛いと思ってくれますか……?」
「…へっ?」
「証明してください」
そう言うが早いか、私はチーフの頬を両手で挟んで逃げられないように捕まえ、そっとキスをした。
「……っ!!!!!!」
言葉にならない叫び声をあげて、チーフがバッと後ずさる。……顔が首まで真っ赤になっていて、可愛すぎる。
「なっ……なっ…み、宮村……ちょ、ちょ、ちょ、ちょっと待て…!!」
「お願いです、チーフ…」
私は目に涙をためながら、再度チーフに体を寄せる。そして、驚きのあまり震えている彼の手をとって、自分の胸に押し付けた。
「うぉぉぉ!?!?」
「胸が苦しいんです……チーフ、助けて…」
ちょっと陳腐な誘い文句かなとも思ったけど、ここはもう勢いで押すしかない。
チーフは顔を真っ赤にして、反射的に私の手を振り払う。そして、後ずさろうとして動揺のあまり足を取られたのだろう、その場に尻もちをついた。
「いてぇ!」
「大丈夫ですか、チーフ」
私はブラウスのボタンをさらに外しながら、彼の前に膝をついた。
「や、やめろ、やめろ宮村…!早まるな!!!!」
「早まってません。チーフ、私のことやっぱり嫌いなんですね…」
悲しそうに目を伏せて、涙をほろりと流すと、またしてもチーフは顔色を変えた。
「い、いや、違う!!そういうことじゃない!!」
「だって、私のこと拒絶してますよね…?」
「いや、拒絶っていうか、なんていうか……」
大量に汗をかきながら視線を泳がせたあと、チーフはブンブン頭を振って、私のブラウスのボタンを留めようと震える手を伸ばしてくる。
「い、いいか、宮村。こんなやり方は……ちがうだろ。何か相談があるなら聞いてやるから……だから、服をちゃんと着てくれ」
「私って、そんなに魅力ないですか?」
再び涙をポロポロ流す。あと一押しだ!
「いや、魅力って、そういうことじゃなくて……」
「私なんかじゃ、チーフは相手にしてくれないってことですよね?可愛くないし、色気もないし…」
「いや、か、か、可愛いよ!おまえは可愛いけど……」
チーフが顔を両手で覆うようにしてうつむき、小さな声でつぶやいた。
「上司と部下だから……だめだろ、こういうの」
「だって私のこと、対等な関係だと思ってるって」
「そ、そういう意味じゃなくてだな……」
思わず先輩が顔を上げたところで、私は再びキスをした。顔をそむようとする彼の頬を手でおさえ、唇を割って舌を入れる。
ちゅ、くちゅ、とわざといやらしい音をさせながらキスを深くしていく。先輩の体から力が抜けた一瞬を見逃さずに、私は彼のスーツの股間に手を伸ばした。
――ガッチガチ。
「やめろ!!!!」
次の瞬間、するどい声とともに、私はチーフに突き飛ばされていた。
チーフが、険しい表情で大きく深呼吸している。
そして、聞いたこともない冷たい声で言った。
「服を着ろ、宮村」
「……はい」
私はすっと全身が冷えていくのを感じながら、震える指で服を拾う。
チーフは私が服を着終わるのを確認すると、「反省しろ」と私を睨みつけ……会議室を、出て行った。
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