第7話 涙


 職場近くの、大衆居酒屋のカウンター。隣の席に座った自称“高年収ハイスぺ弁護士”・佐々木雄吾は、日本酒のグラスをあおると、ふと声のトーンを落とした。


「俺も俺で、悩んでるんだよ」


 ポツリとつぶやいた佐々木の言葉には、思いがけず切実な響きが感じられた。


「悩みって……あ、実は弁護士のフリしてるだけで資格持ってないとか?」


「アホか、どんな海外ドラマだよ。お望みなら日弁連の身分証からロースクールの卒業証書までそろえてお見せするよ。あ、ちなみに日本の最高学府・T大のやつな」


 聞いていないことまでペラペラ自慢してくるあたり、まったく悩みがあるようには見えない。私はしらけた気分でグラスに残った日本酒を飲み干した。


「ハイハイ、わかりましたよ。自虐風自慢ってやつですか。聞いて損した――あ、お会計お願いします」


「おいコラ、勝手に話を終わらせんな!――すみません、お会計はまだで、おかわり二つお願いします」


 話を切り上げて店員さんを呼び止めると、佐々木があわてて会計を取り消して、二人分の日本酒のおかわりを注文する。


「私から見ると、とても深刻な悩みがありそうには見えませんけど」


 じろりと横目でにらむと、佐々木はちょっと気まずそうに口をつぐんだ。そして、小さく息を吐いて話し出す。


「――最近、行き詰まってんだよな」

「何にです?」


 反射的に聞き返すと、佐々木は自嘲気味に笑ってみせてから、グラスを持った自分の手元へと視線を落とした。


「俺は正直紳士的な性格じゃないし、理屈っぽくてイヤな奴だと自分でも思うことあるし、本当は洋服とか外食の店とかもまったく興味ない。服はユニクロが至高だし、メシは牛丼で十分。――ずっと男子校だったし、勉強ばっかしてたし、学生時代はほとんどモテなかったよ」


 意外な告白だった。

 どーせこいつは、ずっと勝ち組の人生を送ってきたのだろう、だから自分とはまったく相いれない人間なのだと思っていた。勉強ができてイケメンで、背も高くて、弁護士で――誰かからバカにされたり、悔しさや挫折を味わったことなんてないだろうと決めつけていたけど……。


 思わず、彼の整った横顔を凝視してしまう。佐々木は私の視線に気づいて、ちょっと照れ臭そうに肩をすくめた。


「でも、“これが俺だ”って開き直ってたら、仕事も忙しいし恋愛下手だしで、35歳過ぎても独身。慌ててブランドものの服買って、ミシュランガイドで店調べて、女子にウケるトーク練習して――それなりに彼女はできるようになったけど、いつもすぐ破局しちゃって。かえって結婚が遠のいたような気がしてたんだよな」


「……そこでいきなりミシュランガイドってところが極端なんですよ」


「うるせぇな、世界一信頼できる情報源だろうが」


 「俺は口コミサイトとかの“権威のない人気”は信じない」と言い切った彼の言葉は、いかにも佐々木って感じでこらえきれずに笑ってしまった。


「私もね、自覚してますよ。自分がイヤな人間だって」


 本音を話してくれた佐々木に、私は初めて正面から向き合った。佐々木の長いまつげに縁どられた黒い瞳が、まっすぐ私を見つめている。


「偏屈だし、頑固だし。男性を喜ばせるようなことは何一つ得意じゃないし、するつもりもないし。可愛げがない、堅物すぎる、女らしくないって――彼氏ができてもすぐフラれてきましたよ。あなたのおっしゃる通り、仕事は好きだけど年収は低いし。公務員だから安定はしてますけど、今後劇的に給料が上がっていくような将来性はないし」


「自己分析は完璧じゃねーか」


「余計なお世話ですよ」


 わざとらしく拍手してくる佐々木をにらみつけてから、冷酒をひとくちすする。


「でも、完璧な人間なんていないから。欠陥だらけの自分が嫌いじゃないし、好きになる相手もそう。欠点があっても、完璧じゃない本質でも、それをちゃんと見せてくれる人が好きなんです」


「――それって、俺に告白してんの?」


「2000%ないですけど!? 自意識過剰も大概にしてもらえます!?」


 思わず大声を出してしまった私を見て、佐々木はおかしそうにゲラゲラ笑いだす。

 本当に、腹の立つ男だ。――だけど同時に、当初思い込んでいたような単純な”イヤなヤツ”ではなさそうだ、とも思う。


 「悪い悪い」と、まったく悪いと思ってなさそうな顔で謝りながら、佐々木は笑いすぎて涙がにじんでいる目元をぬぐう。


「……おまえ、本当に変わってるよ。司書のくせに、情緒ゼロだな」

「読解力ゼロの弁護士だけには言われたくないですけど」


 私たちは顔を見合わせて、同時にへらっと笑った。

 目の前ですっかり肩の力を抜いて、ギラギラしたオーラを消し気が抜けた顔つきの佐々木は、まるで学生時代からの友人のように思えてくる。――最高に、楽しい気分だった。


「よし! じゃあ、お互いのこれまでの偏屈な人生に乾杯するか!」

「いいですね。生涯未婚の偏屈同志、乾杯しましょう!」

「俺は生涯独身貫くつもりはねーぞ! おまえは結婚できねえだろうけど」

「ほんとに一言多いですね、あなたは」


 そして私たちは猛烈に日本酒を飲みまくり、学生時代のバカバカしい思い出や黒歴史でしかない恋愛話で大盛り上がりして、すっかりご機嫌になり、最終的にはなぜか熱い握手を交わして解散したのだった。



=====



「ただいまぁ」


 佐々木と解散して帰宅した私が、ほとんどスキップしながら上機嫌で独身荘のドアを開けると、そこには驚くほど暗いムードが充満していた。――どんなに酔っぱらっていても、一発で酔いが冷めるような、悲哀に満ちた空気。


 リビングには、私を除く入居者4名が大集結している。その中心で、サクラが静かに涙を流していた。


「――どしたの?」


 ひとまず靴箱に靴を投げ込み、ついでにまたしても放置されている宮村のパンプスを舌打ちしながら玄関の隅へと蹴り飛ばしてリビングに上がると、ベテラン入居者の1人である桃花が気まずそうな顔で振り返った。


「あのね、サクラ……振られちゃったんだって」


 それは、あまりにも思いがけない一言で――私は思わず通勤カバンを床に落とし、その場に立ち尽くす。

 サクラは何か恨み言をいうでもなく、泣き叫ぶわけでもなく、ただただ静かに、ポロポロと涙を流し続けていた。

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