精霊会

白河夜船

精霊会

 父と兄は妙に折り合いが悪かった。

 兄が本心どう思っていたかは知らないが、父の方はあからさまに兄のことを嫌っている様子で、居合わせると明瞭に態度が険しくなる。それでも兄は従順に大人しく、ともすれば何事もないかのように飄然と常々振る舞っていたものだから、父としては面白くなかったのかもしれない。

 いつからだろう。父は時々、夜、兄を自室へ呼び付けるようになった。

 些細な失態や欠点を執拗に詰っているだとか、折檻を加えているだとか、使用人達は噂していたけれど実際のところは誰も知らない。好奇の眼差しを父は疎んで、自分と兄が部屋にいる間は頑なに他人を近くへ寄せ付けなかった。


「父さんは、俺の顔が父さんにも母さんにも似てないことが不満なんだよ」


 兄と僕が親しくすることを父は当然厭うたものの、父から嫌われているという一点を除けば兄は真実良い兄であり、僕にとっては輝かしいほどの憧れだった。

「顔が似てないと、どうして不満なの」

 あのやり取りをした頃はまだ、僕の歳は十にも満たなかったろう。兄の言葉の真意を察せず、素朴な問いを投げ掛けて「…お前は父さんに似ているよ」涼やかな微笑で受け流された。後から思えば、兄は暗に自分は父の子ではない、少なくとも父からはそう思われている―――そういうことを言っていたのだ。




 真夏の夜だった。




 その日は昼間の熱気が晩までしつこく残り、酷く寝苦しかった覚えがある。深夜、何か厭な夢を見てはっと起きると口内が粘ついていて、喉の渇きを強く意識した。机上には飲み掛けの麦茶が置かれていたが、起き上がって触れてみれば熱帯夜の温度が染み込んだそれはとっくに温んで、一口飲んだだけで返って不快になった。

 水を飲みたい。

 寝惚けながらも衝動的に僕は部屋を出た。縁側を通って洗面所へ行く道すがら、庭を挟んだ向こうにある兄の部屋の障子から、ほんのりと灯りが溢れているのを認めて首を傾げた。枕元の時計は午前二時を指していた。まだ起きているんだろうか―――

 少し考えて、気がついた。

 きっと父の部屋に呼ばれていたのだ。やっと解放されて、寝る準備を整えているところなのかもしれない。

 聞き囓っていた悪い噂がふと頭を過って、何となし兄のことが心配になった。信じたくない噂だが、平素の父の言動を鑑みるに否定はできない。だから水を飲んだ後、様子を窺うつもりで僕は兄の部屋へ行ったのである。

「兄さん」

 声を掛けてから障子戸を薄く開くと、吊り下がった蚊帳の奥、布団に横たわった兄の身体が見えた。紺絣の浴衣から伸びた白い手足は脱力し、瞼は重く瞑られている。


 死体…………


 反射的にぞっとしたのは、兄の頸部に赤黒い内出血があったためだ。所々乾いた血が張り付いたそれは、誰かに首をきつく絞められた痕のように思われた。

 先ほど水を飲んだというのに、緊張でまた口内が渇いている。唾をこくりと飲み込んで、僕はおずおずと部屋に足を踏み入れた。

 枕元の洋燈ランプが兄の顔を照らしている。

 近づいてみれば、頬や目許にも痛々しい青痣のあるのが分かった。そっと触れた首筋は、僕の手よりもずっと冷たい。


 気づけば、扼痕やくこんをなぞるようにして僕は兄の首を絞めていた。


 筋肉と軟骨のしなやかな固さを感じながらも、どうしてこんなことしてるんだろう、とぼんやり思った。本当は安否を確かめて、兄を起こすつもりだったのに……。戸惑いながらも理由は自明で、心のどこかがこの状況とこの行為を愉しんでいた。嗜虐という言葉を知らなかった当時の僕は、そんな自分自身に対して混乱し、けれども手を止められず、


「あ、」


 だからこそ兄の目が薄く開いた瞬間、後ろ暗いものを見られた心地になって狼狽えた。

「……にいさん………」

 兄は無言で半身を起こしたが、別段何を思った風もなく、凪いだ瞳で僕を見詰めて首を傾げた。その動きで怪我が痛んだのだろう。少しだけ眉間に皺が寄った。

「お前―――」

 何事か言い掛け、まぁいいや、と兄は呟いた。気怠そうに立ち上がり、部屋の奥の文机へと向かう。抽斗を探り、取り出したのは煙草だった。箱から一本抜いて口に咥える。


 しゅっ。


 と軽やかな音が鳴り、小さい炎が蚊帳の向こうで揺らいだ。亜硫酸ガスの、つん、とした匂いが鼻を突く。ややあって兄の唇から緩やかに紫煙が吐き出された。一連の動作は手慣れており、常習犯であることが察せられる。

「あの、煙草」

「ん?」

「まだ吸ったら駄目なんじゃ……」

「知ってる」

 掌大の円い菓子缶に灰を落としつつ兄は笑うのだけど、洋燈の灯が頼りないのと兄が蚊帳を隔てた向こう側――部屋の隅にいるせいで表情の細部までは窺えない。僕はふと目を伏せた。清廉だと思い込んでいた兄の秘密を垣間見ている。失望ではなく仄暗い高揚が胸に湧き、心臓が五月蠅いほど高鳴った。


「兄さん。その怪我、どうしたの」


 だから、そう。そんな質問が口を突いて出たのは、兄を案じたというよりはたぶん、兄の暗部をもっと深く覗いてみたいがためだった。

 く。

 と幽かに兄の喉が鳴った気がしたのだが、空耳であったかもしれない。蚊帳越しの霞掛かったような薄暗がりで兄は静かに微笑んでいた。

「父さんにやられたの?」

「………」

 無言を肯定と解釈し、どうして、と問いを重ねる。兄は答えず、しばらく黙って煙草をんでいたものの、やがてくすくすと抑えた声で嗤い始めた。


「ふ。ふふ。はははははははははは」


 忍び笑いは次第哄笑となり、煙と共に狭い部屋に満ちて渦巻いた。はははははははははははははははははははは………今まで聞いたこともない兄の大声が頭蓋の内側で反響し、眩暈がする。

 知ってるくせに。

 耳朶を擽るような囁きにはっとして顔を上げれば、蚊帳を挟んだすぐ傍に兄がいて、いつも通りの穏やかな笑みを浮かべていた。表情それが日常的である分余計に、顔と首の痣がいや目立つ。

「知ってるって」

 縺れる舌で尋ねながらも、兄が何を言いたいかは漠然と分かっていた。お前は父さんに似ているよ。昔、兄から言われた言葉が頭を過る。なら、父が兄の首を絞めた理由と、僕が兄の首を絞めた理由は―――――…


「――俺はもう行くけれど」


 お前は?

 とでも言うように、兄は目を細めて火の点いた煙草を差し出した。黒々とした瞳が僕をじっと見据えている。口中に傷でもあるのか、吸い口には紅いものが付着していた。ああ。嘆息する。兄の唾液と血で湿ったこれを口に含めば、どんなに気分が良いだろう。

 手を伸ばしたい。

 だが、麻薬めいた魅力を孕んだそれを受け取ることが途轍もなく怖ろしかった。兄と僕を隔てているのはただ麻布一枚なのに、どうしてもその薄膜を越えられない。越えたらもう戻れない、という予感があった。

 眩暈はいよいよ激しくなって頭が痛み、煙草の先に白っぽい灰がゆっくり溜まっていく。それが、


 ぽと、


 と自ずから畳に落ちたところで、兄は待ち飽きたらしく立ち上がった。足音はしないが、部屋を出て行こうとしている気配を感じる。兄さん! 叫んだつもりだが、声が出たかは定かでない。兄を追おうと思うのに、全身が水を含んだ真綿のように重かった。

 視界が暗転する刹那、


 また逢いたいなら、迎え火を焚きな。


 兄の声が遠く聞こえた。






 それから一週間ほど僕は寝込んでいたらしい。らしい、というのは熱に浮かされ、その間の記憶がほとんど残ってないためだ。やっと恢復かいふくしてみれば、家のどこにも兄の姿は見当たらず、蒸発したとだけ聞かされた。


 だが、本当は違うと僕は知っている。


 兄は父に殺された。

 僕はあの晩きっと、兄の幽霊に逢ったのだ。


 そう確信していながらも、真相を明らかにしようとか父を告発しようという気は毛頭起こらなかった。僕に父を責める資格はない。機会が与えられれば、僕もたぶん同じことをやっていた。


 八月十三日。深夜。

 焙烙ほうろく皿に新聞紙を丸めた小さな玉と麻幹おがらを積んで、燐寸マッチを擦る。亜硫酸ガスの、つん、とした匂いが鼻を突き、僕の指先で橙色の炎が揺らいだ。暗い庭の片隅が俄に明るむ。


 今まで何度も盆の夜、兄を呼ぼうと試みた。しかし、こうして燐寸に火を点し、後はもう麻幹へ火を移すだけ――その段になると怯んでしまって、どうしても手が動かなくなる。箱が空になるまで、僕は毎年無為に燐寸を燃やし続けた。

 正直に言えば、怖いのである。

 現れた兄はあの日と同様「お前は?」と僕に訊くだろう。無理強いはせずとも、僕が手を取りさえすればへ連れて行くつもりなのだ。


 僕は死にたいのだろうか。

 ずっと考えているが、よく分からない。ただ、やはり、兄には逢いたい。


 深呼吸して、燐寸を麻幹に近付けた。兄の死んだ歳と僕の歳が今年中に重なってしまう。それは何だか致命的で、決してあってはならないことに思われた。



 焙烙皿の上で赫灼かくしゃくと炎が輝く。



 いつの間にか、迎え火の向こう――僕の正面に紺絣の浴衣を着た青年が座っていた。白い裸足が土を踏んでいる。首には血の滲む鮮やかな扼痕、……………













































 ほぅら、やっぱりお前は父さんに似てる。


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