TRACK14 沼の底

 そこからはまあ、普通の毎日です。でも植物さんとの時間は、堂々と過ごすようになりました。道端の植物さんにもくーちゃんは挨拶します。素敵なお花さんがいたら、トンネルを感じたいので寝そべります。周りの人も、くーちゃんがそんなことをするのを、当たり前のこととわかってくれてるので、注目されることもありません。正直助かりました。おかしいも、日常になれば普通なんです。

 ハナちゃんは、旅が終わってからも、相変わらず無口でしたが、たまに笑うようになりました。そして、堂々と絵を教室で描くようになりました。独特な色彩から、注目を浴びることもありましたけど、ハナちゃんはあまり気にしていません。

 あ、一度だけ、「変な絵」って言ってきたクラスメイトに思い切り回し蹴りを喰らわせていたので、反撃体制は万端なのでしょう。さすがくーちゃんの大好きなハナちゃんです。

 でも、絵に詳しい人には、ちゃんと評価されてたみたいです。ハナちゃんが描いた絵が、文化祭で大々的に展示されることになりましたし、それに同じ高校の美術関係のなんだかすごいコンテストで、なんだかすごい賞、とってました。くーちゃんもその展示会に行ったとき、色んな人がハナちゃんの絵を見て、感動してました。でも正直、ハナちゃんの絵を、変だと言われていた過去があるので、くーちゃんが巫女もどきになった時の手のひら返しを思い出して、少しだけイラっとしました。なんとゆうか、好きなミュージシャンが、売れ始めてから急に熱が冷めるあの感じでしょうか。そのことを、ハナちゃんに言うと、また照れくさそうにうつむくだけでした。肝心な時に何も言わないんです。それがハナちゃんのよいところです。

「ハナちゃん、これからどういう絵、描きたいですか?」

 ある日、そんなことをききました。

 ハナちゃんは「さあ、なんだろうね」と困ったように笑うだけでした。

 ハナちゃんとの学校生活は楽しかったですよ。あの船でお話した通り、たくさんの思い出、作りました。遠足だって、休み時間だって、お休みの日だって、修学旅行だって、全部楽しかったです。でも、くーちゃんが修学旅行先の沖縄で海を見て、また丸太に乗ろうとすると全力で止めてきました。ハナちゃんは心配性なんです。

きっと、こういう話を最初にたくさんするべきなんでしょうけど、あの旅のお話の方が、ハナちゃんのことをお話しするには、ちょうどよいと思ったんです。ご容赦ください。

 あれからお互い、ずいぶんと大きくなりましたね。と言っても、高校生くらいからくーちゃんの身長はそんなに伸びていないので、大きくなりましたね、とゆう言葉、あまりしっくりきませんが。少なくとも今、くーちゃんはあの島で暮らしているので、別に高い身長は必要ありません。バレー選手やバスケ選手にくーちゃんはなりたいと思ったことはないので。

 話がそれました。すいません。

 まだ少しだけ喋りたいこと、あります。

 高校を卒業する前、進路についてのお話をハナちゃんとしたんです。ここまで大冒険のお話だったので、ずいぶんと地味なお話ですよね。でも、大切なお話です。

 たしか、場所は海の上です。安心してください。もう丸太の上じゃありません。

 くーちゃんは小型船舶の免許をとったので、ハナちゃんを船に乗せて一緒に海を漂っていました。あの旅の時はハナちゃんと海の男の運転でしたから、少しだけ優越感です。

「くーちゃんすごい上手だね。ダンさんより上手かも」

「ダンさん? 誰ですか?」

「あ、ほら、船のおじさん」

 海の男のことでした。たしかにあの海の男の運転は多少荒々しい感じがします。くーちゃん、繊細な人なので、きめ細やかな運転ができたです。冗談ですって。だからその怖い顔、やめてください。

「どんな漢字、書くですか?」

「男って書いて、ダンさん。お父さんのお友達だったの」

 本当に海の男でした。くーちゃんが海の男でも、そんな名前だったら絶対に海の男と名乗ってしまいます。さすがは海の男です。尊敬します。

ちなみになんで小型船舶の免許を取ったのかとゆうと、島での暮らしを本格的に進めるつもりでした。大学に進学するのも、面白そうでしたけどね。船舶免許がとれる高校生になってからの方が、いろいろと便利なんです。おすすめですよ、小型船舶。今度乗りたい人いたら、乗せてあげます。海風がとても気持ちいいですから。時々止まって、海に飛び込んで泳ぐこともできます。ハナちゃんの目の前でしようとしたら、全力で止められましたけどね。

「運転免許、とらなかったんだね」

「落ちました」

「なんかごめん」

 くーちゃんは陸より海の方が向いてるようです。それに自動車免許、引っ掛け問題が多すぎます。なんですか、夜は気を付けて運転をしなければいけないとゆう問題で、答えがバツだなんて。ふざけてます。昼も夜も気を付けて運転しなければいけないなんて、出題者は生徒のことを一休さんかと、勘違いしているんでしょう。

「くーちゃんは、本当に、島に行くの?」

 ハナちゃん、絵から顔を上げて、運転するくーちゃんの方を見てきました。とても大切なお話になりそうだったので、くーちゃんはエンジンを止めました。エンジン音が消えて、波の音が聞こえるだけです。お話するには、ちょうどよいです。

「はい。大楠さんとの約束です。畑とか、漁については、色々準備をしています。自給自足とゆうのは、結構大変らしいので」

 ハナちゃんは、「そっか」と言って、またうつむきます。心配の言葉をかけてこないあたりがハナちゃんらしいです。いくらハナちゃんが心配したところで、くーちゃんの答えが変わらないこと、知っていたのでしょう。

「ハナちゃんは、卒業してどうするか、決めたですか?」

 ハナちゃんは、持ってる色鉛筆を、きゅっと強く握りしめます。ガっ、と。鉛筆の芯が画用紙を削る音がしました。

「私も、島、行こうかな」

 そして、少しだけ、曇った表情でハナちゃんは言ったんです。ハナちゃんの視線は、海に向いていません。うつむいています。

「だめです」

くーちゃんは嘘が嫌いです。だからくーちゃんはそう言いました。

「え、だ、だめ?」

「全然だめです。一緒に島なんて、ありえません」

 ハナちゃんとは旅をして、とても仲良しになりました。親友とゆっても差し支えないでしょう。

 ですが、一緒に島にはいけません。

「ど、どうして? 一緒に、旅だって、したし」

「一緒に旅、したからです。くーちゃんは大楠さんとの約束、交わせました。くーちゃんは、自分の人生、決めたんです。ハナちゃんも、ちゃんと自分で決められるはずです」

 ハナちゃんの喋る量は、少しだけ増えました。でも、言葉にしない情報の方が、ハナちゃんのことがわかります。苦しそうな顔の人と、島で一緒に暮らすことはできません。

「ハナちゃん。本当にやりたいこと、ないですか?」

 ハナちゃんは、きゅっと自分のズボン、握り締めます。波のちゃぷん、ちゃぷん、という音を、しばらく聴いていました。

「くーちゃん」

そして、ハナちゃんは言いました。

「はい、なんでしょうか」

「喋りたいことがあるの」

「はい、どうぞ」

「旅に出たいの」

 ハナちゃんは、くーちゃんとの旅で何かを見つけていたのかもしれません。くーちゃんが大楠さんと約束して、島で暮らすことを決めたみたいに。それはきっと、よいことです。誰かにずっとべったりしてて、本当の自分を見失ってしまうことは、よくないので。

「とてもすてきです。くーちゃんは、ハナちゃんの旅を応援してます」

 ハナちゃんの旅の目的は、特に尋ねませんでした。もちろん興味はありました。でも、ここで深堀して、言葉にさせてしまうと、せっかくのハナちゃんの持ち味が台無しになるって思ったんです。言葉にする大切さがあれば、言葉にしない大切さを知ってるハナちゃんには、よい配慮と思いませんか? 誰だって喋りたいことを喋ればよいんです。喋りたくないことなんて、喋らなくてよいんですよ。

「反対されても気にしなくていいです。だって、海の男、蹴って突き落として船、ジャックしたです。ハナちゃん、なんだってできますよ」

「それ言うのやめてくれない⁉」

 そう言ってハナちゃんとくーちゃんは、笑いあいました。

 そして、卒業してからくーちゃんとハナちゃんは、離れ離れになりました。お互いその頃携帯電話は持ってませんでしたし、手紙を書く習慣もなかったので、繋がる手段が、なかったんです。 

 くーちゃんは島での暮らしを始めました。慣れない畑作業や、海の男の漁の手伝いをしながら、くーちゃんは毎日、大楠さんのところへ行ってました。

 大楠さんはいつ行っても、変わらず島の中央にそびえ立ってて、くーちゃんを出迎えてくれます。

 そして、くーちゃんは大楠さんに抱き着いて、あのトンネルの世界の奥へ進んでいました。相変わらず暗くて大きくて、さみしくて、でもどこか居心地のよい、不思議な場所でした。

実は、不思議なことに、小さな大楠さんの沈んでいた沼は、もっともっと小さな水たまりに変わってたんです。くーちゃんの足をつけてみると、水たまりに軽く沈むだけで、とてもあの時のように深く沈む感覚や匂いはありません。不思議ですよね。あんなに深くて、絶望の底みたいな臭いがしたんですけど。

 ですが、変わらないこともありまして、大楠さんのトンネルには、音はずっとないままです。シンと静まり返ってます。といっても、眠ってるわけではありません。ただ、じっと、くーちゃんを見つめてるんです。前みたいな激しい渇望はなくて、ただそこにいるだけ、といった感じです。

 そんな大楠さんへ、くーちゃんは歌います。毎日毎日、違う歌です。その日に感じたことをなぞるように、くーちゃんは大楠さんに歌を届けます。それが大楠さんとの約束でした。

くーちゃん、きっと大楠さんより早く死んでしまいます。

大楠さんは、とても長く長く、生きてゆくことでしょう。

だからこそ、たくさん歌を届けておけば、当分の間、退屈しないんじゃないかと思ったんです。それくらいなら、くーちゃんでもできそうでした。大げさかもしれませんが、くーちゃんのトンネルを感じられる力は、このためにあったんじゃないかって、思ってます。

 毎日毎日、そんなことを続けていたのです。たまに海の男の漁、手伝って、食料やお金をもらったり、畑の作業、しながらですけど。

いつしかそれよりも、大楠さんとの時間が長くなってて、ある日、こんなことがありました。

トンネルを出るのが、少しだけめんどくさくなったんです。

くーちゃんが島で暮らし始めたのは、大楠さんに歌を届けるためでした。とゆうことは、このトンネルから出ても、よいことはありません。もともとくーちゃんのかつての旅は、大楠さんの呼び声にこたえて、現実に見切りをつけるのが目的でした。でも、ハナちゃんの言葉や、チョコレートで、トンネルの奥にあった沼に沈むのはやめて、現実であと少し、生きようと思ったんです。

 ですがこの時、ハナちゃんとずいぶん長いこと、お話してませんし、顔だって見てません。ハナちゃんの旅の行方、聞かなかったですから。仕方ないです。

 でも、くーちゃん、思ってしまったんです。

 ハナちゃんはくーちゃんのことなんかすっかり忘れて、幸せな人生を歩んでるんじゃないかって。そこに、くーちゃん、もういなくていいんだなって、そう思ってしまいました。

 心のどこかがつながってる確信が、あの時にはありました。若さでしょうかね。

何年もこうゆう生活してると、時間とゆうものは残酷なんです。ハナちゃんと、心のつながりが、もうなくなってしまったのではないかって、思ってしまうんです。胸にいつの間にか空いていた穴に、冷たい風が吹いて、傷口が染みたような感覚でした。植物のトンネルと違って、人間にはトンネルがないので、心が見えないんです。お話をして、顔を見ないと、感じられないんです。

 心のよりどころだったハナちゃんとゆう芯は、とてもとても細くなってました。

 くーちゃんがトンネルにいれば、大楠さんに毎日、思いついた時に、いつだって歌を歌えます。くーちゃんは、沼の底に沈むなんて大げさな話じゃなくて、このトンネルで、ずっとずっといれば、ハナちゃんと心のつながりや、途絶えてしまった現実のことなんか忘れて、大楠さんのことだけ考えられるんじゃないかって、思いました。

「一緒に沈まない、言いましたけど。くーちゃん、ここにずっと、いても、差支えないでしょうか?」

 水たまりから生えてる大楠さんに、くーちゃんは抱き着きました。湿った木の空気が、くーちゃんの乾いた肺を満たしてゆきます。あの時の、沼の底の懐かしいにおいが、漂ってきました。気が付けば抱き着いているくーちゃんの体を、ぬめぬめした液体が沈めてゆきます。

 それは、あの時の沼でした。

 もう沈むことはないと思っていた沼に、くーちゃんはまた沈み始めてたんです。あの旅の果てで、くーちゃんは沼の底を望んでいました。あの時選ばなかった、沼の底への道をたどる。理想の世界の扉を開けられる。

よい人生だなと、思ったその時でした。

 くー、と、音が鳴りました。

 くーちゃんのおなかが、くー、と、鳴ったです。

 その時、とても、とても、懐かしいこと、思い出したんです。

 やわらかくて

甘い場所で

世界のすべてがぼやけてた、とてもとても昔のことです。


「くーちゃん」


とてもやさしくて、忘れかけてた、男の人の声でした。今はもう聴こえない、大切な人の声です。

「それ、この子の名前?」

 次もまた、とても大切な女の人の声が聞こえました。

 また、くー、と、音が鳴りました。

「ほら、くーちゃんだ」

 男の人は、何度も、くーちゃん、くーちゃんと、まだ名前のなかったくーちゃんに言いました。そのかわいい言葉の響きが、くーちゃんはとてもうれしくて、思わず笑ってしまったんです。

「こんなに小さいのに、自分で自分の名前、つけられるなんて。天才的な頭脳だ」

「大げさね、お腹が鳴っただけじゃない」

「人生大げさなくらいがちょうどいいんだよ」

だから、くーちゃんはその名前が大好きになりました。

 そう。くーちゃん、お腹が空いてたんです。

 今はいない、大好きな人が、名前を伝えてくれたときも。

そして、沼に少しずつ、体が沈んでいる、この時も。

 だから、くーちゃんはこの名前、大好きなんです。

そして、誰かにこの名前を呼ばれるのが、大好きでした。

 それは、とてもとても大切なことでした。

 そんなことを思い出した時です。どこからか漂ってきたんです。

塩の香りが。温かいお日さまの香りが。優しい梅の香りが。海苔の香りが。

 あの日、海の男が作ってくれたおにぎりを思い出しました。人間は、食事をしなければ、たしか最大二か月しか生きられないと聞いたことがあります。つまり、このまま食事をとらなければ、大楠さんに届けられる歌の数が、減ってしまいます。それなら、長生きしたほうが、たくさん歌を届けられます。

「やっぱりやめます」

 大楠さんは返事をしません。だから、くーちゃんが判断するしかないんです。

くーちゃんは、自分からトンネルを出ることにしました。

 ぬるくて、ぬめぬめした世界のくーちゃんに、温かい何かが差し込みました。とてもぽかぽかして、安心する温かさ。お日さまの温かさです。お日さま、大好きです。とても心が晴れやかになりますから。

ずいぶんと長く寝てた気がします。トンネルの中にいると、時間を忘れてしまいがちなんです。

「カー!」

 葉っぱで覆われた空を見上げると、大楠さんの枝の上に、一羽のカラスさんがいました。くーちゃんは、その鳴き声を知ってます。

「海の男、来てるですか?」

「カー!」

 実は海の男は、この島に寝泊まりできるお家を持ってます。たまに、海の男はそこに泊って、くーちゃんの様子を見に来るんです。くーちゃんはずいぶんと長い間、漁のお手伝いも、畑の作業もさぼって、トンネルにいたので。しばらく食事をとってませんでしたし、誰ともお話してませんでした。

「たまには顔、出しましょうか」

「カー!」

 カラスさんの言葉はわかりません。ですがそのカラスさんは、少しだけ喜んでる気がしました。


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