TRACK12 チョコレート

 くーちゃんは、この旅で欠かせない存在であるハナちゃんが、この時どういう状況なのか、まったくわかってませんでした。トンネルに入ってから、一度もハナちゃんの声を聴いてないんです。

「ハナちゃん」

 ほったらかしてごめんなさい。一緒に沼の底、行きましょう。そう言おうと、後ろを振り向きました。ずっとそばにいるハナちゃんは、変わらず近くにいると思ったです。だって、当然じゃないですか? ずっと、ハナちゃん、くーちゃんについてきてくれたですから。

 でも、そこにハナちゃんはいませんでした。

「ハナちゃん?」

 ハナちゃんは大きなトンネルの絵を描きました。この世界のことを知ってるようでした。そして、ここまでくーちゃんの旅についてきてくれたです。でも、ハナちゃんは、あることを言ってません。

 そうです。ハナちゃんは、自分もトンネルへ行けるなんて、一回も口にしてないんです。

 ハナちゃんは、くーちゃんと同じだと思ってたのですが、違ってたんです。びっくりでした。ずっとずっと、とんでもない思い違いをしてたんです。くーちゃんは、本当にハナちゃんを振り回してしまっただけでした。

 せっかくたどり着いた満足感は、激しい後悔に変わりました。

「大楠さん。喋りたいこと、あります」

沼に一緒に沈んでいる、大楠さんにそう言います。大楠さんは何も言いません。くーちゃんはお話を続けます。

「くーちゃん、ここまで来るのに、いろいろな人、助けてくれました。くーちゃんのこと、最初にわかってくれた校長先生だったり、木で鹿さん、作る変わったお兄さんだったり、海の男、自称してる変わった人だったり。そんな人たちの力、なかったら、大楠さんに出会えなかったと思います。でも、ずっとずっと一緒に来てくれたハナちゃんとゆう友達、いるです。ハナちゃんは、あなたの思い、聴いてくれてた思ったんです。だからくーちゃん、ここまで来れたです」

 大楠さんは何も言いません。一度たりとも、植物さんが人間の言葉をしゃべることはありません。くーちゃんが、ただ感じるだけですから。

「でも、くーちゃんだけでも、よいですよね。もう一人いたほうが、にぎやかだったかもしれませんが」

 くーちゃんは理解しました。どうやら沼に沈めるのは、くーちゃんだけらしいです。気が付けば体はずぶずぶと沈んでて、沼の水はあごまで迫ってました。

 どうせならハナちゃんも一緒がよかったですけど、だいぶ振り回してしまいましたからね。くーちゃんの勘違いが悪いんです。何も言わないことが、イエスとは限らないんです。いつだってくーちゃんは、早とちりなんですよ。

 それに、ハナちゃんは元の世界に残った方がよいと感じました。

だって、そうじゃないですか? ハナちゃんは、とても絵が上手です。いろいろな人に絵を見てもらったほうがよいなとも思いますし。ハナちゃんはめちゃくちゃかわいいので、きっと素敵な人と出会って、愛し合うこともあるかもしれません。くーちゃんには、愛とか恋はよくわかりません。ですが、愛し合う二人は幸せだと、聞いたことあります。もちろん、ハナちゃんと沈めたら幸せですけど、それよりもっともっと、すごい幸せになる権利が、ハナちゃんにもあります。

ハナちゃんの幸せの方が、くーちゃんには大切だったんです。

だってくーちゃん、ハナちゃんのこと、大好きなんですから。

だから、沼に一人で沈む決心がつきました。気が付けば頭の先まで沼に沈んでて、目の前はどんどん茶色く染まってゆきます。体のどこもいたくなかったです。苦しかったはずの冷たさは、心地よさにかわってました。

 この沼で永遠の時、刻んだりして、いつしか人間だったこと、忘れて、自分の手とか足とか体とか頭とか血液とか骨とか神経とか心臓とか脳みそとか爪とか鼻とか目とか口とか、そういうくーちゃん構成するすべて、曖昧な世界、溶けてって、そうしたら、このたった一人で何千年も、孤独な時間に耐え続けてた大楠さん、幸せなんじゃないかとか、そういうこと考えてたりして、そして、そして、そして、くーちゃんは、くーちゃんはくーちゃんはくーちゃんはくーちゃんはくーちゃんはくーちゃんはくーちゃんはくーちゃんはくーちゃんは、、、、、、えっと、、、、あれ、、なん、、、、、、でしたっけ。そうだ、、そうだ、、、そうだ。。。。それでもう、頭の中やら体やらが、すべてふわふわでどろどろ、なりつつあったとき、口の中、何かが広がったです。

 すごく甘かったです。懐かしいです。あのお菓子、えっと、そうです。

チョコレートです。

 そうだ。すごくおいしかったです。そして、ぽたぽた、顔に水みたいななにか、当たりました。思い出したです。あっちの世界で雨、降ってたことを。でも、しょっぱいんです。そして、あったかいです。海でしょか。もしかしてくーちゃん知らないうちに、くーちゃん、沼の底の底まで沈んでて、そこが海とつながってて、くーちゃんも、大楠さんも、海の一部になったのかなとか、そんなこと、思ったですけど。でも、全然違ってました。

「天野さん! 天野さん! 天野さん!」

 くーちゃんの苗字、何度も呼ぶ声、聴こえました。トンネルの世界で、心や体の境界線、あいまいになっている中、現実へ続く蜘蛛の糸に引っ張られた気分でした。

 しょっぱかったの、雨でも海でもなかったです。

 ハナちゃんが泣いてるだけでした。

 くーちゃんの口にお菓子、詰め込まれてるだけでした。

チョコレートです。それがチョコレートだったです。

おいしかった。

おいしかった。

おいしい。

おいしい。

ああ、そうです。

くーちゃんはそのとき、人間の世界に戻ってこれたんです。

「だめ! だめ! だめなの! だめなの!」

 ハナちゃんの叫び声が、くーちゃんのぼんやりとした頭に響きます。

 なにが、だめですか? と尋ねようとしたですけど、口がうまく動きません。くーちゃん、そういえば顔を洗うのに水を顔に付けたくらいで、お兄さんの軽トラに揺られてる数日間、水を飲んでませんでした。食べ物もしばらく食べてません。お兄さんからもらった駄菓子を口にした記憶はありますけど、すぐに地面に吐いてました。育ち盛りのくーちゃんは、気が付かないうちに衰弱してたみたいです。海まで泳いだり、山を登ったりしたので、すっかり燃料切れだったんでしょう。実際、大楠さんのトンネルにいたくーちゃんの呼吸は、止まってたとハナちゃんが後から教えてくれました。

 くーちゃんの肌に、ぽろぽろとハナちゃんの涙が伝います。とてもしょっぱくて、チョコで甘くなった口の中には、ちょうどよかったです。だからハナちゃんが泣いてるのは、全然悪い気分じゃなかったですよ。大丈夫です。

 そこから、ハナちゃんはこんなことを言ってくれました。今でもよく覚えてます。

「天野さん、天野さん、ごめんなさい。トンネルなんてわからないの。トンネルなんてよくわかんなかったし、どういうことなのか全然わかんないの! 植物の声も聞こえてないし、聞き届けたわけでもないの。描いちゃったの。描きたかったの。描いたら、近づけると思ったの。天野さんはね、すごく素敵なの。天野さんのインタビュー、全部読んだ。テレビの録画も全部見た。本当に本当に、すごくかっこよかった! 私の知らない世界。感じられない世界。私はふつうの人だから。天野さんみたいにすごくないから! 学校に行けなくなって、それでも天野さんみたいな素敵な人がいるなら、学校行けそうだって思って、それで天野さんの学校に転校したの! 天野さんと同じ学校なら、生きていけそうだって思ったの! 天野さんの世界を絵にして、そしたら天野さんに少しでも近づけるんじゃないかって、ずっと描いてた! 天野さんが見てるトンネルってこんなのじゃないかなって、きっと天野さん気に入ってくれるって! でも見せる勇気なくて。いつか見てもらえるんじゃないかって、ずっとずっと描いてて、そしたら、たまたま見てくれて、すごくうれしくて。まさか一緒に旅までしてくれるなんて思ってなかった! すごくうれしかったの! 世界で一番幸せだった! 私も、天野さんと一緒に、トンネルの向こう側に行きたかった。もっともっと面白い世界が見れて、わたしだってすごい素敵な人間になれるんじゃないかって。みんなとうまくやれない私でも、幸せになれるって思った! それで死ねるんなら、それでよかった! でも、だめ! だめ! だめなの! えっと、えっと、えっとだって、だって、ここまで、わたし、わたし、」

 そこからハナちゃん、ずっと泣いてました。

なにがだめなのか、それをくーちゃんは聞きたかったですけど、きっとハナちゃんには泣く時間が必要でしたし、くーちゃんもいつの間にか泣いてたので、二人ともそういう気分だったんです。くーちゃんたち、ふたりとも泣き虫ですね。

 このまま目を閉じれば、きっとまた沼の底に戻れます。求めていた結末にたどり着けます。そっちを選ぶことばかり、考えてたです。

 でも、なんだかハナちゃんとの時間が終わるのが、とてもさみしくなってきたんです。それだけじゃありません。

 お母さんの顔が浮かびました。

 あんなに必死でくーちゃんが行くのを止めてて。きっと、くーちゃんにとってのハナちゃんみたいに、ほんとにくーちゃんを大切にしてくれてたんだなと、今更ながら思いました。

 校長先生の顔が浮かびました。

 くーちゃんの大切にしてたことを、一番最初にわかってくれて。誰かに分かってもらえることの幸せを知りました。

 鹿のお兄さんの顔が浮かびました。

 自信をもって何かを続けること、それが何につながるか、そんな大層なことを考えるのは横に置いておいて、ただ続けること。きっとそれが大切だって、伝えてくれました。ほんとに、素敵な人です。

海の男の顔が浮かびました。

くーちゃんも誰かに大切にされてることを、思い出させてくれました。あのときくーちゃん、反発したですけど、今なら、なんとなくわかります。海の男も、くーちゃんを大切にしてくれてただけだったです。

そして、誰かの手の温もりを思い出しました。

顔も思い出せません。でも、そのぬくもりがあったから、くーちゃんは、くーちゃんでいられてる。そんな気がしたんです。

いろんな人と今日を最後にお別れするのが、とても嫌でした。くーちゃんを呼んでくれた大楠さんの孤独を癒したいと思ってたんですけどね。くーちゃんは、自分のことを薄情な奴と、思います。でもくーちゃん、大楠さんのいた沼より、ハナちゃんの涙で溺れる方が気持ちよさそうだって思ったんです。

「ハナちゃん」

「天野さん」

 互いに名前を呼びあいました。でも、ハナちゃんの読んだ名前は、違います。

「くーちゃんです。ハナちゃん」

 それが、くーちゃんの名前です。くーちゃんの世界一かわいい名前です。

「くーちゃん、くーちゃん」

 何度も何かを確かめるように、ハナちゃんはくーちゃんの名前を呼びました。

 呼ぶたびに、ハナちゃんの両腕が、くーちゃんを強く、強く、ぎゅうううっと、抱きしめてくれます。くーちゃんはハナちゃんが大好きでしたが、どうやらハナちゃんもくーちゃんのこと、好きだったみたいです。誰かにこんなにも好かれるなんて思ってませんでした。嘘ばかりついて、くーちゃんは自分のことを嫌いになりそうだったですけど。どうやらハナちゃんだけは何があってもくーちゃんのこと、嫌いにならなさそうです。くーちゃんという変な人間も、そんなに捨てたもんじゃないなって、思えました。

それに大好きな子に名前を呼んでもらえるの、最高の気分です。

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