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 敵襲で疲れ果てたと琉夏さんが訴え、作業は定刻より少し早めにお開きとなった。休日に出てきて一気に片付けるのはどうでしょう、と提案するつもりだったのだが、彼女の姿はいつの間にか見えなくなっていた。勘が鋭いうえに逃げ足も速い女なのだ。

 独りきりになった私は、どこか食事のできる場所を求めて駅の付近を彷徨い歩いた。今日は両親ともに用があるとかで、事前に食事代だけを渡されていた。

 三つ違い、すなわち私と入れ替わりで杠葉高校を卒業していった兄が贔屓にしていた中華料理店がこのあたりにあったはずなのだが、正確な場所が思い出せない。チェーンのファミリーレストランに入ってしまおうかと迷っていると、ふと黒っぽい看板が目に飛び込んできた。本格スパイスカレー。メニューが白い文字で手書きしてある。

 香ばしい匂いにも惹かれ、その店に決めた。待合スペースにはひとり先客がいて、ちょうど受付簿に名前を書き込んでいる最中だった。杠葉高校の制服を着ている。

「――あ」振り返った相手と目が合うなり、私は雷に打たれたように身を硬直させた。冷たい戦慄が背筋を這いあがってくる。「お疲れさまです、楠原さん」

「文芸部の志島か」

 ペンを置いた楠原律さんがこちらに歩み寄ってきたので、私は直立不動の姿勢を崩せなくなった。生徒会、鬼の管財担当と綽名されている人だ。顔立ちはかなり精緻な部類なのだが、相対していると極度の緊張を強いられる。精神が摩耗しそうになる。刺々しい態度と相まって、端的に怖いのだ。

「お前、倉嶌と一緒じゃないだろうな」

 私はぶるぶるとかぶりを振って、「部長はもう帰りました」

「ならいい。あいつがいたんじゃ食事に集中できない。お前、この店は初めて?」

「そうです」

「前に人と来たときは、甘口でも辛いって騒いでたから、もし苦手なら気を付けたほうがいい。私は辛さ目当てだからいいけど」

「目黒さんですか。他の生徒会の方?」

「どっちでもない。一年のとき同じクラスだった奴と、その友達。一緒に来たわけじゃなくて、たまたま居合わせた。で、喋ってるあいだに呼ばれて――」まさにそのタイミングで、一名でお待ちの楠原さま、と呼び出しがかかった。店員が少し困惑した様子でこちらを伺っている。外観上は同じ制服姿のふたりなのだから無理もない。「――こうなった。それで同席する流れに。今回はどうする?」

 ご一緒します、と応じた。この状況では断るほうが不自然だろう。

 そういった次第でふたり、窓際の席に通された。私は忠告通りもっとも辛さが控えめの品を頼んだのだが、それでも充分以上に刺激的で、ひいひい言いながらやたらコップに手を伸ばすことになった。楠原さんはこちらとは明確に色合いの異なるカレーを平然と食べていた。汗ひとつかいていない。

「お前、きょうだいは」

「兄がひとりです。うちの卒業生で、今年から大学に」

 楠原さんの三白眼がこちらを向いた。「志島昴さん?」

 心臓が止まるかと思った。「そうです。お兄ちゃん、なにか――」

「やっぱりか。去年、学祭でライヴを観た。私はロックには明るくないけど、あの人のギターが巧いのは分かった」

 過ちをしでかして睨まれていたわけではないようだ。安堵した。「大学でも軽音サークルに入りました。昔から器用なんです。両親もけっこう器用なのに、私だけ遺伝しなかったみたいで」

 いや、と楠原さんはやや口調を険しくして、「楽器の場合は鍛錬だろう。お前は身近に見てきたんじゃないのか」

 確かにその通りだ。私は自分を恥じた。「すみません。あれだけ練習するのは、私にはとても無理です」

「私に謝ってどうする」

 またしても、すみません、と発しかけ、思い直して、「今後は気を付けます。楠原さん、音楽はお好きなんですか」

「比較的好きなのはジャズだな。最近のも聴かなくはないけど、昔の、特に戦前のほうがしっくりくる。私にとってギタリストといったら、エディ・ラング、カウント・ベイシー楽団のフレディ・グリーン、チャーリー・クリスチャン、それにジャンゴ・ラインハルトとかだよ」

「あ、最後の人、名前は聞いたことあります」

 知ったかぶりをしたかったわけではなく、本当に名前は知っていたのである。正確にはそのエピソードだ。

「火傷で左手が不自由だったって人ですよね。ブラック・サバスのトニー・アイオミが片手を怪我して、もうギターは無理かと諦めかけたとき、ジャンゴ・ラインハルトのレコードを聴いて奮起したとか。アイオミは軽い力で押さえられるように弦を緩く張って、それが独特の重たいサウンドに繋がったんだそうです」

 なるほど、と楠原さんは頷き、ややあって、「それは知らなかった。ブラック・サバスってのはロックバンド?」

「ヘヴィメタルの開祖らしいです。よくは知りませんけど」

「実際に聴いてはないのか」

「ええと――ちゃんとは」

 私の誤魔化しを見透かしてだろう、楠原さんは低く、「さっきお前が話したのも、検索すれば出てくる類の知識だろ。ジャンゴも、そのトニー・アイオミも、不屈の精神の持ち主だった。素晴らしいことだ。大勢に勇気を与えただろう。だけど本当に大事なのは、彼らの音楽じゃないのか」

 返す言葉がなかった。私はただ、彼らの背負っている物語にのみ感心し、自分の手柄のように披露するだけで、彼らが命懸けで作り上げたものに耳を傾けてこなかったのだと痛感させられていた。

 俯いている私を哀れんだのか、楠原さんの声音は微妙に柔らかくなった。「責めてるわけじゃない。私の考えはそうだってだけの話だ。制約が新しい創造を生んだ可能性はある。一方で、健常ならもっと優れた演奏ができた可能性もある。私には分からないし、分かったような口を利く権利もない。ただそこにある音楽を聴くだけだ。実際、ジャンゴのギターは美しいよ、志島」

「聴いてみます」

 とだけ応じた。他に発するべき言葉に思い至らず、私はスプーンを動かしてはカレーを口に運んだ。咳き込みかける。やはり辛い。鼻の奥が熱くなった。

「そうしろ。よければ後で感想を。ところで、お前はなんで文芸部に?」

 私は少し考え、「自分でなにかを作ってみたかったから――でしょうか」

「で、出会ったのが倉嶌か。悪いことばかりじゃないんだろうが、正直言って、私からすれば気の毒に見える」

 それはそうだろう。「あの人って本当にやる気ないですし、これでいいのかなって思うことも確かにあります。だけど文芸部以外にいる自分って、上手くイメージできないんです。楠原さんは生徒会以外だったら、なにかやりたいことってありますか」

「チェスだな。子供の頃からやっててな。うちの高校には将棋部と囲碁部しかないから断念したけど」

 綿密な計算のもと、的確に相手を追いつめるさまがすぐに想像できた。この人にはよく似合う。「作っちゃったらどうですか、チェス同好会」

「暇がない」と即断された。「生徒会は生徒会で忙しいんだよ。最近もある部活から、部長の首を挿げ替えたいって話が来ててな」

 私はまた咳き込みかけたが、素知らぬふりを装い、「そうなんですか」

「部長が退学になったとか特殊な理由がない限り、厳しい話だ。抜けて有志で同好会を作るほうが手っ取り早いと助言した。元の部活とは微妙に違う名前にすると、なお通りやすいってな」

「元がチェス部だったら、チェスボクシング部にするとか?」

「たとえとしてはどうかと思うけど、そういうことだ。あれは創設者自身が初代世界大会優勝っていう、冗談みたいな競技だけどな」

「自作自演ってことですか」

 楠原さんは破顔して、「言い方は悪いが、まあ、そうかもな」

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