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 うげ、と咽の奥から悲鳴が洩れかけたが、どうにかして飲み込んだ。「ほんとに重い」

 昨日、琉夏さんが運搬を断念した段ボール箱だ。古すぎてほとんど読まれることはないが処分は免れたという、ある意味でもっとも厄介な本たちが無造作に詰め込んである。

 パソコンが置かれているデスクの下にでも押し込んでおくしかない、と琉夏さんは言う。あまりにいい加減すぎると思ったが、他に仕舞っておけそうな空間はいっさい存在しなかった。これまで限りある棚のどこにどうやって収まっていたのか、今となってはもう分からない。

「せめて蓋のあるプラスチックのケースに入れないと、またすぐ埃まみれになりそうですね」

「同感だけど、そんなもん買ってる余裕はないよ。貧乏な部活、貧乏な学校。ああ、やだやだ」

 奥歯を噛みしめながら持ち上げ、所定の場所に移動させにかかった。誕生直後の仔馬のように手足が震える。

 スポーツの経験がなく身体能力も平凡以下な私と比べても琉夏さんは悲しいほど非力で、この種の活動に向いた人材とは言いがたい。せめててきぱきと立ち働いてくれるならいいのだが、そんなことは期待するほうが無駄というもので、今も彼女は壁に凭れて休息している。全身筋肉痛で辛いらしい。大層なご身分だ。

 私は荷物を置いて息を吐き出した。目黒さんに威勢のいいところを見せたわりに、文芸部の大掃除はまるで進行していない。普段の活動、すなわち原稿の執筆も完全にストップしている状況なのだが、それについてはあえて考えないようにしていた。

「ちょっと調べてみたんですけど、チェスボクシングって本当にあるんですね」

「だから言ったじゃん。文武両道の極致と呼べる競技だと思わない? うちの学校でも作ればいいのに、チェスボクシング部」

「そんなの認可されるわけないです」

「同好会なら行けるかも。だったら顧問もいらないし」

「行けませんよ」

 デスクの下に潜り込み、箱を渾身の力で押して壁際まで寄せる。厭でも床の見苦しさが目に付いた。もとより古ぼけた板敷なのだが、長年光を浴びつづけた場所とそうでない場所とで、はっきりと色味に差が出て斑になっている。

 頭上でこつこつと音がしたので、私は最初、琉夏さんがふざけて天板を叩いているのだと思った。実際には来客によるノックだった。ドアが開き、冷気が吹き込んでくる。

「ここに生徒会が来たでしょう?」やたら高圧的な、嘲るような気配を帯びた女性の声が降ってきた。「倉嶌琉夏は? どこ?」

 何事かと驚いた私が机の下から這い出ると、来訪者はぎょっとしたように身を仰け反らせた。なにか酷く哀れなものを目の当たりにしてしまった、といった調子の視線をこちらに投げかけてきて、「あんたが倉嶌?」

「私は一年の志島です。部長はあっちです」

 応じながら、相対している人物と自分とのあいだの格差に、私は愕然としていた。相手が清潔な制服姿で、こちらが埃っぽいジャージだなどというのは問題にもならない。手足の長さからして、腰の高さからして、全身の骨格からして違う。根底からすべてが違う。

「ああ、そうなの」優美な曲線を描いた栗色の眉が、幽かに吊り上がる。その些細な仕種さえ、あたかも映画の一場面のようだ。「じゃあ離れててくれる? 話したいのは倉嶌さんだけだから」

「皐月は私の助手だよ。私に用があるなら、皐月抜きってわけにはいかないね」

 そんなものになった覚えはないのだが、指摘はしなかった。琉夏さんは普段通りの、だらりと壁に体重を預けた姿勢を保っている。だらしない自分を恥じ入る気持ちは微塵もないらしい。

「ところであんたは何者? 御覧の通り、私たちは非常に多忙なんだけど」

 冗談でしょ、と女生徒の唇が動いたが、琉夏さんは惚けたように首を傾けたのみだった。「初めまして、だよね? それともあんた、有名人かなにかなの?」

 女生徒は溜息を吐いた。演技というわけではなく、本格的に呆れかえっている様子だった。

「演劇部の澤城円。これで満足? じゃあ質問に答えて。昨日生徒会の――」ここで彼女はハンカチを取り出して口許を覆い、「――空気が澱んでる」

「すみません」私がそそくさと窓に近づくと、彼女は苛立たしげに、

「そっちじゃなくて、私に近いほう」

「すみません」召使のように頭を下げ、北側の窓を開ける。逆らう気も起らなかった。

「風が寒い」と琉夏さんが文句を言う。この人はこの人でうるさい。「で、演劇部の部長さまがなんだっての? 入部希望ならお断りだよ。うちには最低限の礼儀を知ってる人間しか入れないからね」

「馬鹿じゃないの。こんなしょぼい部活、土下座されても御免」

「しょぼくて悪かったね」

 さすがの琉夏さんにも否定はできないらしい。確かに誰がどう見ても、文芸部は「しょぼい」としか形容しえまい。

 散らかり放題なのに寂れて見えるこの空間に、全身から光を放射しているかのような澤城さんの姿はきわめて不釣り合いだった。オーラがあるどころの話ではない。まるきり別次元の存在として、私の目には映っていた。

 彼女は洗練された動作で前髪を整えてから、

「言いたいのはね、私を付け回すような真似はしないでってこと。生徒会だけでも鬱陶しいのに、あんたたちまで相手してられない」羽虫でも払うように、右手をひらひらと動かす。「そもそも生徒会に根回しして私に退任を迫ろうなんて、ほんとやることがみみっちい。気に入らないなら演劇部を辞めて、自分たちで同好会でもなんでも立ち上げればいいだけの話でしょ? ま、私抜きじゃお客なんか集められるわけないけどね。あっはっはっはっは」

 漫画的な誇張ではなく実際に、あっはっはっはっは、と高笑いし、かつそのさまに違和感を抱かせない人物というのを、私は生まれて初めて見た。凄い。感服である。

「話はそれだけ。探偵ごっこで引っ掻き回されたら迷惑だって、私は部を代表して伝えに来たの。当たり前のことじゃない?」

「はいはい、そうですね」まるで気のない様子で、琉夏さんが応える。「あんたのなかにも迷惑って概念があったんだって、いま物凄い衝撃を受けてるよ」

 はん、と澤城さんは皮肉を受け流して、「はっきり返事のできない人間って、私、嫌いなの」

「私はピンポイントであんたが嫌いだけどね」

「お互いさま。で、こっちの要求を理解したの?」

「余所の部活にずかずか入り込んできて説教垂れる人間の命令なんか聞きたくないね。私は私の意思で行動する。あんたの指図は受けない」

 途端、澤城さんの眉間にくっきりと皺が生じた。吐き捨てるように、「警告したからね」

「それはどうも。あんたが好きにするように、私も好きにする」

 澤城さんは憤然として息を吸い上げたが、けっきょくなにも言わなかった。踵を返し、ドアへと向かっていく。

 彼女の気配が完全に失せたあと、琉夏さんは同意を求めるようにこちらを振り返った。顎を指先で摘まみつつ、深く感心した風情で、

「あいつは逸材だ。出現から数分で、私のなかの人物評価ランキングワースト一位に躍り出た」

「強烈な人だったのは間違いないですね。でも楠原さんは? いつもさんざん悪く言ってますけど」

 我ながら意地悪な質問だと思った。しかし返事はすぐに来た。

「楠原は殿堂入り」

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