第15話 ゆるせない症候群

世の中には、様々な問題が広がっている。

公共でのマナーや、ルールを破った行動など。

自分には関係ないからと全く気にならない人もいれば、ひとつひとつ目につき憤慨してしまう人もいる。

さとこは後者の人間だ。

教職に就いていることもあり、正義感も強く曲がったことが大嫌い。

それが行き過ぎて己の首を締めてしまう。


「何なのこれ…毎日まいにちほんとに」

家の近所の公園は、駅前ということもあり利用者が多い。

それはいいのだが、問題は大量のゴミ。

マナーの悪い利用者が多く、ゴミをポイ捨てしていくので、毎日見るも無惨なゴミだらけの公園。

地元民からは『ごみ捨て公園』とまで呼ばれている。

「情けないわね。平気でポイ捨てする人の心理が理解できないわ」


父親が町内会長をしていることもあり、さとこは幼少時からしょっちゅうゴミ拾いに駆り出された。

大人になった今でも、休日は清掃活動に参加している。

頭脳明晰な理論派なので、なぜポイ捨てがなくならないのか考えてみた。

原因のひとつに、ゴミ箱がないことに気づいた。

捨てる場所がないから、持って帰るのも嫌でその場に置いてしまう。

ゴミ箱を置いてはどうか?

父親に話してみると、返事はNO。

「昔ゴミ箱を設置したこともあるけどさ、そしたら家庭ごみ持ちこまれて処分しきれないほど大量のゴミが増えたんだ。それ以来ゴミ箱は置かないって取り決めができた」

…なるほど。そういう弊害もあるのか。


休日、ゴミ拾いをしながら思う。

私達みたいに拾う人間がいるから、誰かがやってくれると思って平気で捨てていくのかしら。

だとしたら私達はダメ人間を増長させてる?

でも誰かがやらなきゃ、この場所は公園ではなくてゴミ集積場の夢の島になるし…。


私はゴミを平気で捨てる人とは絶対友達になれないし、なりたくもない。


マナーを守れない人間に対し、ゆるせない、という気持ちが根底になる。


しかしこれだけの人間がいれば、マナーの悪い人などそこらじゅうにいるわけで。

歩きたばこ、電車のドアの前に立って出入り口をふさぐ人、降りる人より先に乗る人、列の割り込み、コンビニでレシート雑に渡す店員…などなど、あげだしたらきりがない。

でも他の人なら対して気にしないことも気になっちゃう。不愉快に感じちゃう。


ゆるせない症候群


さとこは半ば自虐的に、客観視すると自分のことをそう称した。

小さなことでも社会のルールや人道的倫理感に背く行いに対して、ゆるせない。

だからって自分に何かができる権力があるわけでもないのだが。


裏を返せば正義感の強さの表れなのだが、日常生活においては自分が苦しいだけ。

もっとおおらかになれたらいいのに、イタリア人みたいに陽気に。そう思うこともしばしば。

海外旅行が好きなさとこは、度々国外へ出て異文化に触れている。

とりわけ感銘を受けたのはイタリア。

街中で買い物すると日本では考えられないくらい接客も雑。良く言えばフレンドリー、悪く言えば大雑把。

一流のところではなく、気軽に入れるようなレストランに行けば日本みたいに丁寧なおもてなしではなく、味はおいしいがなんていうか適当にやっている感。客が来るまで座って新聞読んでたり、そんな光景も当たり前。

日本だったら何サボってんだよ、と後ろ指さされるようなことも案外平気でやってたりする。

けれどそういう国民性だからか、それでOK。

文句を言う人もいないし、よその土地から来た人間が何か口出ししても、コイツ何言ってんだよくらいで気にもとめないだろう。

オー・ソレ・ミオなどのイタリア歌謡でもわかるどおり、歌って踊って人生を謳歌し、生きる喜びに満ちている。それがイタリア人。

さとこはそう感じた。

日本人はどうだろう?

真面目で勤勉。島国ゆえか枠からみ出さず、農工民族特有の結束感を持つ。

しかしそれが、現代日本の生きづらさに繋がってやしないだろうか。

細かいことに意識が向き、人目が気になってしまう。他人のことなんかどうでもいいはずなのに、ほっとけばいいのに。

ゴミを捨てる人間に腹立だしさを抱くとともに、その光景を悲しく思う、高い感受性共感性。

それは集落で生活し共同で稲作を行ってきた、遺伝子も記憶する太古からの他人との距離感の近さもあるのか。

人ごとを他人ごとと思わず、助け合ってきた歴史もあるだろう。

困った時はおたがいさま。古き良き時代の日本はそう教え人が支え合うのを美徳とした。

性善説を抱くからこそ、ゆるせなくなるのだろうか。

はみ出した過ちを犯す者を。

そして自分自身も、道を外さず実直に堅実に。

己を律し生きてきたからこそ、年々諸悪小悪をゆるせなくなる。


さとこという名前、もし男の子だったら悟(さとる)という名前を付けたかったらしい。

何かを悟り、気づき、自分で答えを見出し生きていけるように、という両親の願いをこめて。

女の子だったので、悟る子、さとこ。

その名の通り、日々自問自答するような性格に育ちました。

考え過ぎ、気にし過ぎ。

よく言われるし、自分でもわかっている。


もっと楽に生きれたらいいのに。

そう願ってはいるものの、やはり間違った行いに目をつぶることはできない。

かといって直接当事者に何か言えるわけでもない。

今の自分にできることは、ささいなマナー違反や道徳に反する者をゆるせないと思う自分をゆるすこと。

これに尽きる、というのが考え尽くした先に出た結論。


息苦しく思うことがあっても、これが自分だから。


逆にいえばゆるせないと思う自分じゃなくなったら、教師なんてやってられない。

子ども達に人として大切なこと、何も教えられないから。


趣味のお寺での瞑想、座禅で導き出した答えはこんな感じ。

大崎さとこは、自分を縛る呪縛の鎖を、断ち切ることではなくゆるく縛りながら共存する道を選んだ。


ゆるせない自分は、融通がきかなくてダメな人間だと若かりし頃は自己否定することもあった。

けれど40歳、人生のほぼ折り返しの節目に立ち、柔軟にありのままの自分を受け入れることができるようになってきた。


これが私だから。


小さなことが気になって他者に排他的な面も頑固なところもあるけど、

ゆるせないことを許せるようになって、

少し、呼吸が楽になった。


さとこはそう感じながら、今日も職務に励んでいます。





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