左手旅行

久々原仁介

左手旅行

 朝起きて二段ベッドの下段から降りると、左腕に見覚えのないケガをしていることがあった。


 兄から「寝相が悪いんだろう」とからかわれた時期もあったが、その現象がしばらく続くと、次第に気味悪がって何も言わなくなっていった。母は「困った子やねぇ」と、あまり驚いていないようだった。


 左腕の変化は中学生になるとより顕著になった。


 まず一つ、これは良かったかもしれない。裁縫と、日曜大工が、妙にうまくなった。数えるほどしか持ったことのないのに、金槌なんかは自分の手足の延長線みたいに扱うことができた。


 もう一つは日焼けの跡が色濃く出たことだ。僕は色白な方だから焼いたウィンナーのように焼けた方の腕はどうしても目立ったし、一目でわかるほど片方の腕だけ筋肉質になっていた。


 異変に気が付いた朝は、目覚まし時計が鳴るよりもずいぶん早く目が覚めた。僕はあまり寝起きが良い人間ではなかったから、何か妙な胸騒ぎがした。微睡が晴れていくにつれ、左手の親指からあわや電撃が走ったかと思うほどの痛みに襲われたのだ。


 あまりに痛かったものだから、枕に顔を押し付けながら熊のように唸っていると、起こしに来た母が何事かと慌てて坂の下にある整形外科クリニックに運んでくれた。


 僕を見てくれた先生はとても難しい顔をしていた。


「最近どこか海外旅行にでも行ったかい」


 話によると、どうやら僕の左手の親指に、八ミリほどの垂針が刺さっていたらしい(八ミリという長さは大変なことで、毛抜では取れないがために小さなナイフで周辺の皮膚を割いて取り除く羽目になった)。


 しかしそれが果たして海外旅行とどう繋がるというのだろうか。お医者さんは皺だらけの顔をさらにしかめていた。


「それにね、この垂針はチトラだ。アフリカの木材だよ。建築用の木材だし。ここらへんじゃあ、滅多にないよ」


 お医者さんはまるで人ではないものを見るかのような目を向けてきたが、僕としてはなんだか胸にストンと落ちたものがあった気がした。


 もしかすると、僕が寝ている間にアフリカにいる片腕の大工さんに、左腕を貸していたのかもしれない。


 それから僕は誰にもバレないようにして図書館で調べものをした。家のパソコンでは履歴が残ると思ったからだ。片腕がない人というのは、どれくらいいるんだろうと、ふと気になった。でもその好奇心があまり気持ちの良いものではないのだろうと、なんとなく僕は知っていた。だから僕は図書館に行くときは、誰にも言わず一人で行くようにしていた。


 世界人口の0.6パーセントは隻腕だという記事を見つけると、確実に存在しうる数字に心が冷たくなった。


 だからなのか、そんな人たちに一晩の間だけでも僕の腕が貸し出せるならばいくらか気分がよかった。


 それからはよく腕を観察するようになった。でも僕が起きているとき、腕は何より従順だった。ひとりでに動き出したり、どこかへ逃げ出したりもしない。腕は腕であり、それ以上でもそれ以下でもなかった。本を読むとき、ページをめくる方の手だった。


 腕が貸しに出されるのは、決まって僕が寝ているときだ。眠りが深ければ深いほど、遠くへ、遠くへと、腕は僕から離れていく。


 しかしあまりに遠くへいってしまうと、一晩で返ってこないこともあって、そんな日の朝は決まっていつもひどい熱が出た。朦朧とする意識のなかで、恐る恐る腕を探すけど、やっぱりそこにはスカスカのパジャマの袖しかないのだ。僕は誰にも見つからないようにベッドにこもって、病気がちになった。


 ある朝は腕だけ別人のようにこんがり日焼けして返って来たこともあったし、何かの木のみやプラスティックのおもちゃを握っていたこともあった(何故だか貸し出される腕は左手が多かった)。


 しかし高校生になると、目に見えてと腕を誰かに貸す機会が減った。


 三日に一回だったのが一週間に一回あるかないかになり、一カ月に一度もないということもあった。しまいには、それを寂しいと思う気持ちどこかへ消えていくような気がした。代わりに本をよく読むようになった。僕の手はよく汗をかくから、ページを特別めくりやすい。


 ちょうど桜の木に浅黄色が混ざりはじめた季節だった。左腕が三日間ほど返ってこないことがあった。僕はずいぶんひどい熱を出して、起きているか寝ているかもはっきりしないまま、左腕が返ってくるのを待つほかなかった。


 プールのなかで膝を抱えて浮いているような気分だった。初めは、左腕に愛想を尽かされてしまったのか、もう二度と僕の左腕は返ってこないのではないかと考えて泣きそうになっていた。


 でも二日経って返らないとなると、不安を通り越して腹が立ってきたのだ。なんで返ってこないんだ、このやろう。お前はそんなに僕のことが嫌いか。ああ、僕も嫌いさお前のことなんか。と、どこかへ行ってしまった左腕に対して喚き散らしていた(母は僕がとうとう熱でおかしくなったのかと心配していた)。


 しばらくして、熱が下がったかな、どうかなと、ようやく頭がまわり始めたと思った朝に、左腕はひょっこり返ってきていた(夜遅く帰って来た父が、母の寝る寝床へ静かに潜り込むみたいに)。


 大丈夫かい? 怖くなかったかい? いったいどこへ行ってたんだ。心配した。心配したんだぞ。もうどこへも行かないでくれよ。また一緒に本を読もうじゃないか。


 痣はないか、骨は折れてないか、指はちゃんと五本あるのかと布団のなかで左腕を右手で撫でまわした。指を一本一本確かめていると、すると固くてひんやりしたものが指先に触れた。けれど、そのときは指がちゃんと五本あったことばかりに安堵して、その正体を目で見ようとまではしなかった。


 すると氷が解けるように左手が開いて、自分が手紙をずっと握りしめていることに気付く。


『I love you. I want you to come back someday』


 左手の薬指に通された銀色のリング。


 そこには、僕の知らない物語があるようだった。


 その日以来、僕はたった一枚の紙切れを左手に持って眠るようになった。


 いつか届きますように。愛している。


 今晩も、僕の左手は旅をする。

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