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 外の警告音は依然として鳴っていた。延々と続く緊急事態に、僕はだいぶ慣れてしまっていた。はじめから動揺はしていなかったが、今はもう生活音の一つくらいに思い始めている。

 とはいえ、ここまで長い警戒状態もそう無い。今回の侵入者は手強いんだろうか——そんなことを考えていると、リィは急に席を立った。


「来たまえ」

 ハイヒールの音を響かせて、部屋の奥へと進んでいく。


 もちろん、研究室ラボの全てが、そういう風にできているとは言わないけれど。

 リィの研究室は縦に長い。細長い円柱状の形をしていて、本棚で覆われた壁に、ところどころ梯子がかかっている。中央には天体を模したオブジェが立っている。かつての学者たちがそう考えたように太陽を中心に、惑星の軌道は円を描いている。違うのは、軌道が地面と水平ではなく、縦に向かって引かれているところだ。

 リィの足音が止まる。僕はコーヒーを急いで喉に流し込んだ。彼女が、壁に埋め込まれたスイッチを押す。ふわり、とその華奢な身体が宙に浮いた。それに伴って僕の身体も浮かぶ。外に出されていた、固定されていない物は全部浮かんだ。無重力モードが発動する。

 天井に吸い込まれるかのように、上に向かって全ては流れた。滝を逆さまにするくらい強制的に、僕たちは天高くゆったりと流されていく。警戒音さえ無ければ、天国と見紛うくらい穏やかな速度だった。

 本棚の数段上、研究室ラボの上部に着くと、リィはそこにある扉の前に掴まった。ドアのノブに手をかけ、回す。その瞬間に重力が元に戻る。僕は急いで彼女の近くの壁に掴まり、何とか事なきを得た。重力が戻っても、急に負荷が戻るわけではない。ゆっくりと、電車が駅のホームで止まるくらいの遅さで、身体に重みが戻ってくる。

 ドクター、と息を切らせて呼び掛ける僕を他所に、彼女は扉を開く。


「ローレンスは好奇心旺盛で、行動力があって、その心には善性が満ちていたんだ」


 助手である僕は、この扉の先に何があるのかを知らない。開かずの間、といったところだ。

 奥へと進む前に、彼女は白衣のポケットから光源を出す。手のひらサイズの小さな電灯で、操作すると半径1メートル近くの周辺が、ぼんやりと白く照らされた。

 僕の方には目もくれず、彼女は扉の奥の暗がりへと進んでいく。


「ローレンスはそういう男だった——わたしとは違ってね」

「人間は——」僕は言い直す。「大体、自分と違う性質のものを相手として選ぶでしょう。そのほうが、子孫の生存率が上がります」


 フォローにはまるでなっていないが、彼女はそれを咎めなかった。笑いもしなかった。

 彼女の後ろを、僕は急いで追いかける。


「ローレンスはやりたいことが多かった。特に、人間のその身体では不可能なことばかりだった。わたしは、彼の願いを叶えたかった」


 彼女の歩みが止まる。暗がりの先を照らす。向こうには壁が見えた。ここまでの道と比べると少し広い空間のようだ。ここが目的の場所らしい。


「——だから、わたしは彼を半分にしたんだよ」


 リィの目の前には、椅子に座った1人の男が居た。

 がっくりと項垂れていて、生気を全く感じられない。僕たちの気配や話し声も、その耳には全く聞こえていないように見えた。後ろから覗こうとする僕のために、リィは横に移動してその場を避けてくれる。


「彼がローレンスの半分イーブン


 半分。思わず口から出ている。

 それにしては、彼はあまりに1人の人間だ。とてもじゃないが、半分には思えない。もし半分ならあるかもしれない断面も、分けたかもしれない部位も、彼には十分に無い——半分と思える要素が無かった。外から眺めただけでは断言しかねるくらい、彼の身体は五体満足だった。男は衣服を着ているが、その下には手術痕などがあるかもしれない、と思った。


内臓なかみが半分なのですか」


 自分がこんなに冷静なのは、彼女の話を殆ど信じていないからだ。男の姿からして、彼女の妄想——1人の人間を半分に割ったのだと思い込んでいる——そういう話だろうと踏んでいた。騙されませんよ、と言って大笑いする心の用意までしっかりしていた。


「それは」リィは声を小さくして答えた。「ことがないから分かりかねる」


 返答を探す僕に追い討ちをかけるように「開こうか」と彼女は言う。

 近寄ってくるので、慌てて右手を見せて制止した。


「そんなことをすれば、彼は死んでしまいます」

「彼は死んでいるよ」


 そんなこと、見れば分かっていたことなのだが。僕は心のどこかで、まだ人間の死体を見たくないと思っていたのかもしれない。見て、あまり気持ちの良いものではないから。


「はじめに言っただろう。Eの死は、わたしにとって大きな損失だったと」

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