第39話 第25回東京スポーツ杯2歳ステークス②

 3角過ぎ。

 勝負どころと判断した⑤ヴァイスがまくり行ったことで、先行集団のペースが速くなり、一瞬の脚で勝負するタイプの馬には厳しい流れになる。

 自分に絶対的な自信を持っているプライドの高いハヤテだが。

 どんなレース展開になっても勝てると考えるほど自惚れてはいない。

 芝ダートの分業化、距離の専門化が進んだ現代競馬は、スピード・スタミナ・パワー・瞬発力すべてに死角のないオールラウンダーの存在を許してはくれず、

 キレる脚がないわけではないハヤテであっても、トップレベルの能力馬がそろうレースでは、キレ負けしてもなんらおかしくない。勝つ公算が最も低い究極の瞬発力勝負になるのだけは避けなければならなかった。


「スピードとスタミナなら誰にも負けやしねえ!」


 ⑤ヴァイスは5ハロン目の800-1000m区間を12秒を切るようなやや速めのラップを刻んで加速。

 2番手の⑩ドゥララメールを1馬身半ほど、

 ⑦コガハザン、④ザラムタリエル、⑧ファーンアジック、①ギャザリングの順で固まる3番手集団を4馬身ほど引き離して逃げている⑫ハインケスを、後続が集団となって追いかけるが、その差は縮まるどころか徐々に広がっていく。


(さらにペースを上げている!? まさか……! だとしたらこれは――)


 ヴァイスに跨る若手のホープ横平武司よこひらたけしは嫌な予感が走る。一瞬「逃げて、差す」イメージが頭をよぎった。


(押し切るつもりにしてはペースが速い。あのムーヤがこんな初歩的なミスを犯すだろうか?)


 ハインケスはただでさえ向正面で余計な脚を使っている。

 直線に入る前にセーフティリードをつけておきたくても、普通ならもっと緩やかに仕掛ける場面だ。

 中団から動きを見ていた裕一もいよいよ不審に思い始めた。


「最後必ず脚が上がる! 上がらないわけがないんだ!!」


 不安と焦りを隠し切れない様子で一気に進出する③バリーコール。グイグイと位置を押し上げ、最終コーナー出口付近で、先頭を行く⑫ハインケスを射程圏内に入れた。


「よおお前らはそこで指をくわえて見ているだけか? 後ろの連中が迫ってきてるってのに」

「……コガハザンがどうしようと、俺には俺のやり方がある」

「あの位置から速い時計を出し続けりゃ、どんなやつだって垂れるに決まってら。俺もここでギリギリまで脚を溜めさせてもらう」


 先団の斜め後ろに位置を取ったハヤテの言葉を。

 メンバー中、瞬発力上位のザラムタリエル、ギャザリングは受け流す。脚を溜めたぶんだけキレる確証があるからこそできる選択だ。

 競走馬の平均時速は約60キロ。1ハロン(200m)を12.0秒で走る計算になる。

 少なく見積もってもハインケスは先頭を奪った4ハロン目を11秒台後半で。

 その後もコーナーで息を入れるような気配がなかったことを鑑みると、5ハロン目6ハロン目はそれ以上かそれに近い走破タイムを出していると思われる。

 いくら前半3ハロンの入りがかなり遅かったといえど、常識的に考えて、3角手前から平均スピードより速いペースで走り続けているハインケスは、どんなに頑張ってもラスト1F辺りでタイムを大きく落とす。


「速い? これが? 速いのか?」


 ハインケスが今初めて知ったかのように。


「そうか速いのか……」


 そんな呟きを漏らすと、とんでもないことを口にした。


「お前たちみたいなのを『クズ馬』と、そう呼ぶのだろう」



 走らない馬はクズ馬だと、容赦なく顔を殴られ罵倒され、見限られた馬はその日のうちにあっさり殺処分が決まる。

 それがハインケスの当たり前であり日常であった。

 別に悪気があったわけじゃない。

 ハインケスはそういう場所で命を繋ぎ止めてきたのだから。

 しかし、牧場で蝶よ花よと大事に育てられたエリートたちは違う。侮辱したと受け取られても仕方なかった。


「貴様ァァ」

「ハインケス……! お前というやつはどこまでっ!!」


 背後で聞いていた⑦コガハザンと③バリーコールは激怒し。

 直線に向いた途端に、噛みつかんばかりの勢いで⑫ハインケスを猛追する。

 4角を回った地点では3馬身はあった差を2馬身、1馬身半とみるみる詰めて行き、


「井の中の蛙が」

「黙って聞いてりゃ。思い上がってんじゃねえーー!!!」


 憎悪の念をたぎらせた④ザラムタリエルと①ギャザリングが、馬場の4分どころから並んで追い込んできた。


「しめたっ」


 裕一は進路を内へと切り替え、⑤ヴァイスの内を狙う。

 道中、中団追走から直線――素早く進路を確保すると、②パッションウォリアーが追い出しにかかった。


(バカどもめ、頭に血がのぼったら負けなんだよ)


 ハインケスを負かしに動いていった周りには付き合わずに、追い出しをワンテンポ遅らせるハヤテ。勝負に出るのは残り400mからと決め、バネを十二分に感じさせるストライドでギアを上げていく。


 後続が脚を伸ばすなか。

 逃げ切りを図る⑫ハインケスを、外から③バリーコールが、内の⑦コガハザンとともに交わしにかかるが、


「クソッ! なんでだ! なんで交わせない!?」


 府中の長い直線に入ってもハインケスの脚色は一向に衰えない。

 力強い伸び脚で、一時は1馬身差まで迫ったものの、そこから差がなかなか縮まらない。


(Heynckes.How amazing you are!)


 手綱を握るムーヤは感動すら覚えた。

 競馬のレースは1ハロン12.0秒を基準にして、ペースが速いか遅いかを判断している。

 もっとも騎手がペースを判断するうえで、ラップは一つの指針でしかなく。

 同じ12秒を切るペースで走っていても、コース形態はもちろんのこと、その馬の持つ競走能力、当日の風向き・馬場状態によって、感じ方が違ってくる。

 そのためペースがきついのかそうでないのかは騎手の主観的判断に委ねられる。

 ムーヤのような世界的名騎手ともなれば、騎乗馬の息づかいや走行フォームを観て、どのくらいの負荷がかかっているのか推し測ることが可能だ。

 並の馬ならスタミナを消費してしまう速いペースも、ハインケスが消耗している様子はない。手応えだけで楽勝できるとわかるくらいだった。

 ムーヤは長い上り坂を駆け上がった残り300のところで、気合づけのムチを一発放つ――

 たったそれだけで、ハインケスは弾けた。

 ラチ沿いから弾丸のような伸び脚を繰り出し、ゴールに向って突き進んでいく。

 他馬が止まって見える理不尽なまでの切れ味に。

 普段めったに感情を表に出すことのないアイスマンが笑った。


「っ! いけない!」


 ハインケスについていけば馬が壊れると武司の直感が告げている。

 武司はただちに手綱を絞り。

 無理やりヴァイスを馬群の内目に入れ、その進路を塞いだ。


「タケシ! なにしてくれてんだ!?」


 ハヤテが怒鳴り散らす。勝負を放棄したことに対する激情が武司の肌に伝わってくる。


(何と言われようとも、ここでヴァイスを潰してしまうわけにはいかない)


 武司は馬が痛まないよう、馬体の保護を優先する。

 常に馬を最優先する横平典彦の哲学は、息子の武司にもしっかりと受け継がれていた。


「そこをどけッどけよ!! タケシー! タケシーーーーーッッ!!」


 ハヤテの抗議の声もむなしく。

 ⑤ヴァイスは馬群に揉まれて後方に後退していった。


「こ、ここまで差があるのか……」


 遥か前を行くムーヤの背中を、絶望的な気分で見送る裕一。

 今ならわかる。前走といい、ハインケスは逃げていたわけではない。スピードの絶対値の違いから逃げるような形になったにすぎないと。

 圧倒的な才能の前では――

 これまでに積み重ねてきた努力、築き上げてきた自信、実績。あらゆるものは意味をなさず。競馬界の常識はいとも簡単に覆された。

 ⑫ハインケスは血眼になって追いかける2番手以下後続を置き去りにし、4馬身差の圧勝。

 タイムこそ昨年記録した1分44秒5の2歳日本レコードに及ばないものの、上がり4Fを45.8秒で走り、来年のダービー制覇を期待させる非常に高いパフォーマンスを見せつけた。


「……」


 無傷の重賞制覇も、ハインケスの表情からは何の感情も読み取ることはできない。

 望まれて生まれてきたはずなのに。

 所有物として人から人へ売り飛ばされ、帰る場所さえ奪われてしまった。

 感情をなくした悲しき競走馬は、生き残るために走る以外の答えを持ち合わせていない。

 精根尽き果てぐったりしているバリーコールの横を、無機質なロボットのように通り過ぎていく。


 後日、このレースに出走した馬たちの故障が次々に発覚し、ハインケスを除いた上位入線馬すべてが早期引退に追い込まれるという過酷なレース結果となった。

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