第38話 第25回東京スポーツ杯2歳ステークス①

 ポープフルSやダービーに繋がるハイレベルな2歳重賞・東京スポーツ杯2歳S。

 日本一の出世レースと言っても過言ではない一戦。

 賞金加算を優先する時期ではあるが、

 この日ばかりは華台グループの垣根を取り払い、各厩舎のエース級が激突することも相まって、東京競馬場は異様な盛り上がりを見せていた。

 札幌2歳ステークスの覇者バリーコール、

 野呂菊ステークスを2馬身半差で快勝したコガハザン、

 新潟のデビュー戦、中団からメンバー最速の33. 1秒で差し切り勝ちのパッションウォリアーら並み居る有力馬を抑えて1番人気に支持されたハインケス。

 新馬戦逃げて8馬身差の勝利は、数字以上のインパクトを残していた。


「いい気になってんじゃねーぞハインケス! 今日という今日は、テメエの化けの皮を剥いでやる!」

「天才様は揉まれるのが怖くて今回も逃げ切るつもりか? このメンバー相手によ」


 早来育成のディープインパクト産駒バリーコールとギャザリングがあからさまな態度で敵意を向けてくる。


「……」


 新馬戦逃げて勝ったことを小ばかにする二頭を。

 ハインケスは一顧だにせず、1~2コーナーの間にある輪乗り場へ移動を開始する。


(精神レベルの低い連中だ。あれじゃあ獲得賞金が上だろうが、やつらの実力はたかが知れてる。やはりマークすべきはあいつか)


 タカのような目でハインケスを見つめるハヤテ。

 フォースヒルズが落札後、『ヴァイス』と馬名登録されたハヤテは、10月のデビュー戦を順調に勝ち上がり、クラシックの距離適性が試される東京スポーツ杯2歳Sへと駒を進めていた。


(オレが楽に勝てるようにせいぜい潰し合ってくれ)


 そう心の中でほくそ笑みながら。

 実力をひた隠しにしてきたハヤテが漁夫の利を得ようと目論んでいた。



 翌春の日本ダービーを意識して、関西勢の有力どころがほぼ勢ぞろいした東京競馬場。その3階にある馬主席には、ハインケスの共同所有者である吉野正巳が、隣にサウザーファーム天栄・木佐貫富貴きさぬきとみたか場長を伴って、めずらしく観戦に訪れていた。


「馬体重が3ヶ月前の前走から増減なしの472。配合飼料にはいっさい口をつけないのは相変わらずですか……」


 育成牧場時代からハインケスは頑なに牧草やえん麦――自然飼料以外は食べようとしなかった。

 そのため同世代と比べて背肉の肉付きが良くなく、ハードな追い切りを控えなければならず。

 素質はピカ一でも、リカバリーに時間がかかることがネックになっていた。


「見栄えはよくありませんが、中間の反応はまずまず。力は発揮できる状態ですよ」


 管理馬のことはすべて頭に入っていると豪語する自信家の富貴とて、出来がイマイチなことを自覚していないわけではない。

 しかしそれでも、実戦に行けば、ハインケスは必ずスイッチが入る。夏を越し、馬体重に変わりがなかろうが不安など微塵もなかった。


「世話をする厩務員はおろか、同族ですら気を許さない。あの子の境遇を考えれば仕方のないことかもしれませんね」


 13年前に。

 フランスから来た一人の青年の顔が思い浮び、正巳の胸がチクリと痛んだ。


(ハインケスの走る姿を一番見たかったのは彼――ジャン・ルグランだったというのに……)


 人間というものを何一つ信じないハインケスの今の姿をジャンが見たらどう思うだろうか。

 正巳はやるせない思いで――

 ジャンが身命を賭して守った忘れ形見を悲しげに見つめていた。



 日本のチャンピオンコース府中。

 スピード、スタミナ、底力、すべてが試されるこのコースで高いパフォーマンスを示すことが重要だと考えている競馬関係者は多く。

 とりわけ、クロフネ、タニノギムレット、キングカメハメハを管理していたことで知られる松国まつくにこと松下国光まつしたくにみつは、府中の1600と2400のGⅠを両方勝つことに強い拘りを持っていた。

 2コーナー寄りのポケットから発走の東京スポーツ杯2歳S。

 過去10年、1枠の馬が5勝、複勝率も66.7%と際立ち、出走馬が12頭以上になると、Cコースに替わるタイミングも関係し、内外の有利不利が顕著に出てくる。

 13頭立て内枠絶対有利のレースで、8枠12番に入ったハインケスがどんな競馬をするのか注目が集まる中、スタートが切られた。


 ⑫ハインケスはスタートがもうひと息。

 スタート直後に2コーナーを曲がるコースレイアウトということもあり、鞍上のライアン・ムーヤはわざと出遅れ、練習を兼ねて後ろからの競馬を選択する。

 マークすると決めていたハインケスの前に出てしまい、慌ててスピードを落とす⑤ヴァイス。

 中途半端にスピードを落としたせいで、⑫ハインケス、さらには⑥イーグルシュタインから1馬身後ろの最後方からの競馬になってしまう。


「――やってくれたな……!」


 意図的に出遅れて内に回るハインケスの行動に。

 元々控えてじっくりレースを運ぶつもりだったハヤテを除き対応することができず、後方3番手内めのポジションを難なく取られてしまった。

 前に目を移すと。

 誰もテンから行こうとはせずに、内~中枠の有力勢は折り合いをつけることに終始している。

 これまでの2歳重賞とはレースの性質が変わり、東京スポーツ杯2歳Sは逃げ切りは容易でなく、たとえスピード能力の高い馬であっても前に馬を置いて、勝負所で騎手のゴーサインに合わせて一気にスパートするオーソドックスな競馬ができることが求められる。

 緑と白と赤で構成されたサウザー系クラブ・キャメロットの勝負服に身を包んだ裕一もまた2番枠を生かして中団の内をキープしていた。


(2005年のフサイチリシャールを最後に、4角先頭の馬は1頭も馬券内に来ていない。東スポ杯はスピード一辺倒では勝てないレースだ)


 裕一は脚をためる競馬を忠実に実行する傍ら、早来の一番馬と噂されるハインケスがどれくらいの脚を使えるのか見定めようと神経を研ぎ澄ます。

 好スタートから④ザラムタリエルが一度は出ようとするが、

 香港を主戦場に活躍するチャクイウ・コーが、腕っぷしの強さで瞬時に馬を抑え込み、外からじわじわ接近してきた⑦コガハザンと⑩ドゥララメールにハナを譲る。

 道中、まったく絡まれることなくマイペースで進める場合を除けば、逃げ馬が勝つ可能性はないに等しいため、チャンスのある馬に乗っている騎手ほど折り合い重視で先頭に立ちたがらない。それならば――と、

 穴馬で一発を狙う岩国康次郎いわくにやすじろうは思い切って⑩ドゥララメールを少し促し、あとは馬の行く気に任せた。


 ポケット地点から短く斜めに走ってコースに合流。

 初角でテンのペースが落ち着き、戦前の予想通り非常にゆったりとした流れに。

 最初の600mを36.9秒で通過し、逃げる⑩ドゥララメールからシンガリを行く⑤ヴァイスまで10馬身圏内のひと塊りになって向正面の坂を上りきる。

 瞬発力勝負になることに備えて、どの馬も折り合いに専念し、直線まで特に動きもないまま進むかに思えたが。

 13秒台が刻まれるような遅いペースに⑫ハインケスが抑えきれず進出。後方から中団、先団へと上がっていき――

 ついには3角過ぎで先頭に躍り出てしまった。



 まだゴールまで半分近く距離を残して、ハナに立った⑫ハインケス。

 ムーヤの手は動いておらず、予定外の行動なのが見て取ることができる。

 世界屈指の名騎手でさえ御しきれないのかと。

 前走と同じように途中から逃げる形になってしまったハインケスのレースぶりを心配する声がそこかしこから聞こえてくる。


「こりゃあいい! 傑作だ!」


 好位内目を追走する③バリーコールが高らかに笑う。


「プレッシャー皆無の後方からでも我慢できやしない! 競馬もろくにできないやつのどこが天才だ!!」


 デビューしたての新馬がやるような稚拙なレース運びを見て、呆れ返ったのはバリーコールだけではない。

 先団を見る位置に構えた①ギャザリングの見下すような声がターフに響く。


「そんなとこからぶっ放して勝てるわけねーよタコスケ!」


 さらには、前目につけた④ザラムタリエルや⑦コガハザンまでもが、道中しっかり脚をためる鉄則を無視して逃げたハインケスを哄笑した。


「あいつは終わったな」

「レースの流れを乱すようなことして迷惑なやつだ。背伸びせずに1勝クラスから出直してこいよ……」


 逃げるのは最後の手段。新馬の場合だと特に。

 若駒を教育する大切な時期に安易に逃げを選択すれば、そのあと我慢が利かなくなってレースで勝つことがだんだん難しくなる。

 将来を見据え。

 見込みのある素質馬は、目先の一勝よりも教育を優先し、初戦は控える競馬をするよう指示が出るものだが、未来のGⅠ馬と未勝利のまま引退する馬が一緒に走る玉石混交の新馬戦。

 陣営にとって誤算だったのは、新馬戦出走メンバーのレベルがハインケスと著しく乖離していたために、鞍上が抑えて周りの馬のペースに合わせようとしてもうまくいかず、当初予定していた馬群の中での競馬を教えることができなかったということに尽きる。

 そのため念には念を入れて、正巳は契約馬主となり「アイスマン」の異名を持つライアン・ムーヤに騎乗を依頼。

 引っ掛かる馬でも前に行かせながら折り合いをつけられる超一流の騎乗技術に期待を寄せるが、デビュー戦の走りをトレースしているだけで特に変わったところのないように見えた。


(折り合っているのかいないのか。手綱の動きだけでは判別しかねるが。これ以上ちんたら走っていられないってのは同意だぜ)


 ハインケスを見つつ、いつでも仕掛けられる位置に取り付こうと、4角手前から動いて行った⑤ヴァイス。

 ハヤテは遅い流れを嫌って、ハインケスの動きと連動するように位置を押し上げ、先行馬にプレッシャーをかける。


「はんっ! 狙いがみえみえだ!」


 外からまくって馬群に押し込めようとするハヤテに。

 そうはさせじと、③バリーコールが力任せに内から外に押し返し、荒々しくスペースを確保した。


「少しはできるみたいだが、仕掛けどころを狂わせようたって、そうはいかねえよ」


 バリーコールは低い声で凄んでみせた。

 いかにたぐいまれな心肺機能を持っていようとも、後半4F800m区間全てを全力疾走できる競走馬は存在しない。

 もしもここで先行勢がハヤテの仕掛けに乗って早めに仕掛けてしてしまうと、終いの脚が甘くなり、後続の脚も止まってくれないかぎりは負けパターンになってしまう。


「競馬ってのはキレる脚を使えてなんぼだ。キレる脚をな」


 あえて「キレ」という言葉を強調するバリーコール。

 ほぼ一塊のスローな流れの中で。

 ヴァイスが瞬発力を最大限に活かせるギアチェンジ戦を望むのなら、早めに動いてプレッシャーをかけにいく必要がどこにある。こちらはこのまま600まで我慢するだけでいい。

 東スポ杯でキャリア4戦目となる実力馬の目はさすがに誤魔化せなかった。


「……」


 バリーコールの指摘はズバリ当たっていた。

 相手が瞬発力に長けたディープインパクト産駒ということで。

 レース終盤まくっていって、ラスト4Fはすべて11秒台の持続力勝負に持ち込む策だった。

 手の内がバレたというのにハヤテに動揺はない。なぜなら――


「あんたはそれでよくても、他の連中はそうは思っちゃいないみたいだぜ?」

「なにぃ!?」


 バリーコールは我が目を疑った。

 それまでスタミナを温存しながら楽にレースを引っ張っていたはずの先行集団が上げなくていいペースを上げている。

 まだ新馬戦しか経験していないものも多く、キャリアの浅い馬ではハヤテの魂胆を見抜けない。

 後ろから上がってきた⑤ヴァイスに交わされないようにと、何頭かがロングスパートの態勢に入っていた。

 こうなると後続勢は先行勢の仕掛けに乗って仕掛ける以外に選択肢はない。

 全馬余力のあるこの状態で、さらにリードを許してしまえば、差し切れる可能性はほとんどないからだ。


「これで憂いはなくなった。あとは思う存分暴れるだけだ」


 策略を巡らせ、瞬発力から持続力勝負へ――

 悪徳の名を冠したハヤテがついに牙をむく。

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