第36話 ドリームパスポート①

 1999年。

 単身フランスに乗り込んだ怪鳥の快進撃に、欧州競馬界は仰天し、改めてインブリードの絶大な効果を世界に周知させた。

 以後、欧州では濃いインブリードを意図的に重ねる配合が流行り、ノーザンダンサーの強いクロスを持つ馬が猛威を振るうこととなる。

 フランス北西部ノルマンディー地方で馬牧場を代々営んでいるジャン・ルグランには、生涯忘れられないレースがあった。

 第65回凱旋門賞。

 史上稀に見る豪華メンバーが揃った本レースで、ダンシングブレーヴは最後方からとてつもない豪脚を繰り出し、レコード勝ち。

 仮柵が取り外されて芝の状態がいい内側に密集する馬群を、大外からごぼう抜きという規格外の圧勝劇に、当時現地で観戦していたジャンは、感極まって震えが止まらなかったのを今でも覚えている。

 記録的な極悪不良馬場の中を、愛仏ダービー馬のモンジューが先頭でゴール板を駆け抜け。

 地元馬の勝利に沸く周囲をよそに、ジャンは一人別のことを考えていた。


 ――強烈なリファールのクロスを含め、濃いインブリードを複数発生させれば、ダンシングブレーヴのような馬が作れるのではないかと。


 特定の馬の影響力を高めるために近親交配させるのは昔からある古典的な手法だ。

 「1×2のインブリード」や「2×2のインブリード」といった正気とは思えないような交配が行われていた。

 だが、サラブレッドの配合理論が確立した現代においては、問題を抱えた馬が生まれてくるリスクが大きいため、同血率「18.75%」までという考え方が浸透しており、エルコンドルパサーの野心的な配合は、フランス競馬関係者にも驚きをもって迎えられた。

 この日を境に。

 ジャンは何かに取り憑かれたように各地を飛び回り、リファールの血を求めた。リファールの血を重ねていけば、歴史的名馬を生み出せると信じて。

 すべての始まりとなった1999年――奇しくもそれはダンシングブレーヴが絶命した年でもあった。


            ☆            ☆


 初年度1万ドルだったノーザンダンサーの種付け料は、全盛期には100万ドルまで高騰し、「ノーザンダンサーの精液は同量の金と同じ価値がある」とさえ言われた。

 リファールの多重クロスを用いて、ダンシングブレーヴを今の世に蘇らせる。

 すなわちそれは、ノーザンダンサー系の中で起こる生存競争を避けて通ることはできないことを意味していた。


「ジャン。これからはガリレオだ。ガリレオの時代がきっと来る」


 声の主――ニコラ・ガルシアが目を輝かせながら仰々しく語る。

 ジャンと同じノルマンディーの地で競走馬の生産を行う古くからの友人であるが。

 有名馬が種牡馬入りするたびに、「あの馬はモノが違う」だの「種牡馬成功間違いなし」だの似たようなことを口にするため、ニコラがこのような文言を言うのは、もはや恒例行事となっていた。


「今年はガリレオに手を出すつもりかニコラ」


 内心またかと思いながら、ジャンは歯を見せながら笑う。


「そうさ! 俺は決めたよ。またカミさんに怒られることになるが賭けてみる。サドラーとアーバンシーでこけたんなら諦めもつく」


 予算を大幅にオーバーしようと。

 とにかく新しいもの好きのニコラが、鳴り物入りでスタリオンとなるガリレオに飛びつかないわけがなかった。


「どうだお前も付けてみないか? 当たれば何倍……いやそれこそノーザンダンサーのように何十倍にもなって返ってくるぞ」

「……」


 欧州で不動の地位を獲得しているサドラーズウェルズ。

 ノーザンダンサー直子で最も成功した大種牡馬であり、今後はサドラーズウェルズ系が、欧州の主流血統になることは疑いようがない。しかしそれでもジャンは、


「やめておくよ」


 血統表は競走馬の設計図に相当するため、一代限りで考える場当たり的なものじゃなく、2代・3代と先を見据えて配合を考えなければならない。

 エルコンドルパサーがいい例だ。

 一見、きついインブリードが目を引くが、血統構成をよく見ると、

 通常のインブリード以外に、

 ヌレイエフ×サドラーズウェルズの「4分の3同血クロス」3×2

 スペシャルとリサデルの「全きょうだいクロス」4×4×3

 が同時に成立。

 ニアリークロスを持たせることで、インブリードの効果を極限まで引き出す、非常に考えられた配合なのがわかる。


「リファールか?」


 ジャンがリファールの血を引く牝馬を集め回っていることはニコラも知っていた。


「友人として――いや同業者として言わせてもらう」


 ニコラは表情ひとつ変えず、ジャンの顔をとくと見つめた。


「ダンシングブレーヴにこだわるのはよせ」

「サドラーズウェルズの方が優れた馬だって、そう言いたいのか? ええニコラ?」


 ダンシングブレーヴに思い入れがありすぎるあまり、ジャンはつい語気を荒げてしまう。

 日本へ輸出直後。

 欧州に残してきたコマンダーインチーフ、ホワイトマズルらが活躍し。

 日本でも、サンデーサイレンス、トニービン、ブライアンズタイムの「種牡馬御三家」が同時期いたにもかかわらず、数少ない産駒のうちからGⅠ馬が4頭も誕生している。


「ダンシングブレーヴがマリー病を患わなければ……。英国競馬界が至宝ともいえるダンシングブレーヴを日本に売却するなどと、愚かな判断をしたばかりに――」


 ダンシングブレーヴの輸出は国家的損失だと。

 ジャンの恨み節が止まらない。


「俺だってダンシングブレーヴが一番強いと思ってる。あの馬以上に強い馬は今まで見たことねーよ」

「だったら!」

「まてまて。最後まで話を聞けって」


 と、熱くなるジャンをたしなめてから、


「俺が言いたいのは確率を考えろってこと。いいかジャン。生産者リーディング上位でも勝率2割にも満たないんだぜ?」


 産駒の重賞馬率が3%を超えれば優秀な部類に入る種牡馬の世界で。

 自社で生産した馬の中からGⅠ勝ち馬が出る確率は、これよりもさらに低くなる。

 騎手にしろ調教師にしろ、競馬に携わる人間すべて、勝つ回数より負ける回数の方が遥かに多いのだ。


「どの牧場もそれぞれ自分の哲学がある。それに口出ししようとは思わねーよ。だけどリスク分散はしとけ。親父さんから引き継いだ牧場を、お前の代で潰すわけにはいかないだろ」

「……」


 将来、リファールのクロスを用いた名馬が出てくると自信を持って言える。

 しかしそれがいつになるのか。

 5年先か、10年先か――

 その問いに、ジャンは答えることはできない。

 夢と現実との間でバランスを取らなければ、破滅が待っているだけだ。


「――俺の負けだ」


 両手をあげて降参のポーズをとるジャン。

 うんうんと首肯し、目を細めて笑うニコラに対してこう告げた。


「お前が見込んだ通りノーザンダンサーやサドラーズウェルズに匹敵するような種牡馬なら、手が出せるのは今だけだろうからな。4、5年は選りすぐりの肌馬に、付けれるだけガリレオを付けてみるよ」



 ガリレオは初年度産駒からGⅠ馬を送り出し大ブレイク。種牡馬ガリレオの伝説が幕を開けた――。


(ニコラに大きな借りができてしまったな)


 下手な鉄砲も数撃ちゃ当たると言ったら失礼だが。

 今回ばかりはニコラのフットワークの軽さに助けられる格好になった。

 結果的にあの時下したジャンの決断は正しく。

 ガリレオ産駒、そして時が来ればガリレオを父に持つ繁殖牝馬群が、長期にわたって牧場に利益をもたらしてくれることになるであろう。

 経営者として喜ばしい一方で。

 ガリレオ産駒が活躍すればするほど、リファール系種牡馬が追いやられるという葛藤があった。


(欧州でダンシングブレーヴの父系が途絶えるのも時間の問題だ。かろうじてオアシスドリームやドバウィがダンシングブレーヴの血を広げてくれそうだが……)


 数多くの名馬を生み出したニジンスキーでさえ、父系は世界的に衰退しているのだから、商用ベースでサイアーラインを繋げることがいかに困難なことか。

 名状しがたい感情に押しつぶされそうになったのは一度や二度ではない。

 それでもジャンは夢を追い続ける。すべてはダンシングブレーヴこそが最強だと証明するために。

 転機が訪れたのは2006年秋。

 この年フランス競馬界は、11年ぶりにクラシック3冠を達成した現役日本最強馬の凱旋門賞参戦で、話題が持ちきりになっていた。


            ☆            ☆


「今度という今度は日本馬にもっていかれるだろうなぁ」


 行きつけのバーにて。

 いよいよ凱旋門賞の牙城が崩れると、ニコラはすでに諦めモードに入っていた。


「ドイツ馬に勝たれるよりかはマシだろ。日本は大事なお客さんなんだし」


 日本馬が出走する注目レースは、JRAが海外馬券の発売を行い、売り上げの一部が主催者に支払われることになっている。

 フランス競馬にとっても恩恵が大きい日本馬の凱旋門賞勝利をジャンは歓迎していた。


「もっとも勝つのは前年覇者のハリケーンランだろうけどな。キングジョージで確信したよ。日本馬じゃアップダウンが激しいコースは無理だ」


 2006年7月29日、

 イギリス・アスコット競馬場で行われたキングジョージ6世&クイーンエリザベスダイアモンドステークスに挑戦したハーツクライ。

 直線一度は先頭に立ち、あわやという場面を作るが、最後は苦しくなったところをハリケーンランとエレクトロキューショニストにかわされ3着に敗れた。

 日本馬は瞬時に抜け出せるキレはあっても、起伏の激しい低反発の馬場を粘り切る持続力がない。

 日本で大暴れしたサンデーサイレンス産駒も、欧州調教馬となると期待ハズレだった。

 いかにディープインパクトが、内外から高い評価を受けていようが、ジャンのように疑ってかかる人間は少なくない。


「俺はむしろ逆で、よく整備されたトラック状のコースで走ってる日本馬でも、やっぱり歴代トップクラスなら欧州でもやれると、あのレースで示したと思うぞ」


 ところが、ニコラは少し違った見方をする。


「ディープインパクトなら欧州適性はハーツクライよりもあるはずだ。勝てないと考える方がどうかしてる」

「ずいぶん買っているんだな」

「そりゃボトムラインが――ってジャン、お前、ディープインパクトのことを調べたりはしていないのか?」

「別段興味ないからな。どこまでいっても名馬の墓場だ。日本という国は」


 米国ならまだしも。

 産駒や繁殖牝馬を買い付けに日本へ行こうと考える欧州の生産者がどれほどいるというのか。

 日本産馬に対するジャンの意見は辛辣だ。


「ハーヘアだよ。ウインドインハーヘア」


 サンデーサイレンスには興味を示さなかったジャンだったが。

 ディープインパクトの母が英国オークス2着、妊娠中にドイツGⅠアラルポカルを制した逸話を持つウインドインハーヘアと聞き、顔つきが一変する。

 牝系をたどると英国の名牝ハイクレアに行き着くウインドインハーヘア。

 リファールの血を持つ同馬をジャンは早くから目をつけ、ハーヘアを所有するクールリラ・スタッドに交渉を持ちかけた過去があった。


(あの後サウザーファームに売却されたことは知っていたが、そうか……ハーヘアの子だったか……)


 喉から手が出るほど欲しかった牝馬の子供がこうして時を経て凱旋門賞の舞台に。


(人生何があるかわからないもんだ)


 エルコンドルパサーの凱旋門賞挑戦。あれから7年、今自分の手元にはリファールの血を受け継いだガリレオの子供たちがいる。

 そこでジャンはふと――

 なにか予感めいたものを感じた。


「悪いニコラ。用事ができた」

「え? おっおい!」


 ジャンは席を蹴って立ち上がると、ニコラを一人残して、酒場を出て行ってしまった。



『一頭だけ別の馬がいる』


 名馬をこの眼で見た時に共通して口に出る、誰もが戦慄する強さがディープインパクトにはあるのか。

 自宅へと戻ったジャンは、はやる気持ちでパソコンを立ち上げ、動画配信サイトからディープインパクトのレース動画を再生する。

 するとそこには背筋に悪寒が走るような絶対的王者の姿があった。


 第133回天皇賞(春)。

 京都競馬場芝3200mを舞台に、ステイヤー日本一を決める伝統の一戦で。

 出遅れ最後方からの競馬を余儀なくされたディープインパクトは、後ろから2頭目の位置で折り合うと、最後の直線と勘違いした菊花賞とはまるで異なり、1周目のスタンド前をリズムよく通過。

 いつものように後方につけ1コーナー、2コーナーと回り、中間を過ぎたあたりからじわっと位置取りを上げていく。


 勝って当然のレース。

 問題は何馬身突き放して勝つのかと。


 京都競馬場に押し寄せた大観衆が固唾を飲んで見守る中、ディープインパクトがもう我慢しきれないとばかりに動き出す――。

 瞬間、地鳴りのような歓声が響き渡る。

 それもそのはず、ディープインパクトが仕掛けたのは残り1000mを切ったところ。スタミナ自慢の馬でも淀の上り坂で仕掛けるのはタブーとされる行為以外のなにものでもない。


「早い! 持つはずがない!」


 画面に向かって叫ぶジャン。

 ディープインパクトは外から一気に上がって行って、800の標識を迎えた頃には、早くも先頭を射程圏に。

 暴走とも取られる早仕掛けをしたとしか見えなかった。


 最後まで体力が持たず失速するかに思えたディープインパクトだったが。

 連れて上がったローゼンクロイツに、スピードの違いを見せつけるかのように、残り600mの地点で悠々と先頭に立つと、最後の直線――440キロにも満たない体を大きく、それこそ飛ぶようにストライドを伸ばして、内ラチ沿いを突き抜けた。


(日本にもこんなとんでもない勝ち方をする馬がいたのか……!?)


 最後は流しながら97年マヤノトップガンがマークしたレコードタイムを1秒も塗り替える圧巻の走り。

 前年有馬記念でハーツクライがやったように、前目の位置を取り、早めにスパートして粘り切ろうと考えていたライバルたちに対して。

 古馬になってさらに進化したディープインパクトは、2周目3コーナーから1000m近いロングスパートを実行し、最後まで脚が上がることなく押し切ってみせた。


「見つけた……ついについに見つけたぞ……」


 後方からあっという間に全馬を飲み込む異次元のパフォーマンスは、在りし日のダンシングブレーヴの走りを否応にも想起させ、ジャンの心臓の鼓動が跳ね上がる。

 もはや国内では敵なし。

 ディープインパクト陣営が名実ともに世界一を目指して凱旋門賞に向かうのは必然の流れだった。


「こりゃニコラが今年は日本馬にやられると言うわけだ」


 ディープインパクトの全レース動画を見終えて。

 連覇を狙うハリケーンラン、BCターフ覇者のシロッコに加えてディープインパクトまでいたのでは勝ち目がないと、小頭数になったのも頷ける。


「ガリレオにディープ。想像するだけで恐ろしい」


 クロスを何本も発生させる極端な配合に頼らずとも、リボー、ミルリーフと世界的名馬は誕生している。インブリードは手段の一つでしかない。肝要なのは血統表の中に名血を理路整然と散りばめることだ。


「それとも、仕込んでおいた『リファールの3×4』を持つ牝馬を付けるか、悩ましいな」


 同じ同血率「18.75%」でも。

 3×4より、4×4×5の方がインブリードが効果的に働く傾向がある。ジャンが先んじてリファール持ちの肌馬の確保に動いたのはこのためだ。


(なにはともあれ、純粋に競馬ファンとしてディープインパクトの走りを見届けようじゃないか)


 フランス競馬の祭典・凱旋門賞がまもなく幕を開ける。

 ジャンは自分の夢を実現させてくれるかもしれないディープインパクトへの期待が膨らむ一方だった。

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