第29話 信じて送り出した管理馬が…

 しがらき入厩2日目。

 歩様に問題がないことを確認すると、周回コースでさっそく乗り出しを開始したドングラス。

 7月デビューを視野に入れ、乗り込みを進めつつ、さらなる良化を目指す。


(本当に本当に俺レースに出走するんだな……)


 移動後は周回コースでのキャンターとトレッドミルで調整を進めてきたが、今週から週3回坂路でハロン15~17秒の調教が新たに加わり。

 いよいよデビューが現実味を帯びてきて、中間の調教にも自然と熱が入る。


「主任! こいつペースアップしても全然息があがってませんし、頑丈なんでガンガン乗り込んだ方がいい結果に繋がるかもしれません」


 調教を終えたばかりの担当者の声は弾んでいた。

 負荷を強めても、飼い食いが落ちず、航は元気そのもの。脚元を含めて馬体に異常は見られない。

 よく食べよく寝て。

 幹久の心配などどこ吹く風。

 乗り込みの量に比例して、航の体は少しずつではあるが着実に逞しくなっている。

 この調子ならば、近い内に坂路ハロン14秒のペースで登坂。いつ帰厩の声が掛かってもいいような状態に仕上がると、しがらきスタッフの誰もが思うほど順調であった。



 競走馬の調教は暑さを考慮し、午前中の涼しいうちに行われる。これは外厩だろうが変わることはない。


(そろそろ帰って来る頃かな)


 午後3時過ぎ。

 やることがなくなった航はこっそり智代のところに向かう。目的は彼女のご機嫌を取るためだ。


「あー! ぐらちゃんだ!」


 出迎えに来た航を指差し、大喜びの智代。

 毎日のように会いに来るマメな栗毛馬を、これ以上ないくらいに褒めてやる。


「ぐらちゃんえらいえらい」


 と、ここで何かを思い出したように「あっ」と智代が言い、


「そうだ! ぐらちゃんにもおやつあげないとね。何がいい?」

(キターーーーーーー!!)


 少女の口から待ちに待った言葉が。

 智代の好感度を地道に上げ続けること9日。

 その努力がやっと実を結び、

 航は小躍りする勢いで、智代の服の袖口をくいくいと引っ張り、彼女を目当ての場所まで連れて行く。

 向かった先はしがらき場内にある自動販売機前。


「ジュースが飲みたいの?」

(違うんだなこれが)


 自販機の横に設置されたごみかごに頭を突っ込み、空き缶を選んで咥えると、それを智代の目の前に持ってくる。


「ビール!? ぐらちゃんビール飲みたいの?!」


 智代は目を白黒させた。

 定番のおやつとは違い、与えていいものかどうか自分では判断がつかない。

 どうしたらいいかわからず、視線をさまよわせたのちに、


「お父さんに訊いてくる!」


 急ぎこの場を離れ、智代が父親を連れて戻って来た。


「智代に言われてビールを持ってきたはいいが。本当にあげる気なのかい?」

「うん。だってほら――」


 見ると。

 ドングラスが舌を出して、今にも缶ビールに飛びつかんばかりの顔をしていた。


「たしかゼニヤッタがビール好きで。炭酸をぬいて飲ませてたみたいだけれど……」


 えらくおっさん臭い馬だと思いながら、ビールを与えてみる。

 すると、初めて口にするとは思えないほど慣れ親しんだ様子で飲み始めたではないか。


「んぐんぐ。ぷはーーーーーー。これこれ! やっぱ仕事終わりの一杯は格別だわー」


 航は上機嫌でキンキンに冷えたビールを胃に流し込む。久方ぶりの晩酌だ。堰を切ったようにビールを飲み干し、次の缶を開けさせる。


「ほどほどにしとかないといけないぞ――って聞いてないか……」


 ぐびぐびと喉を鳴らして、次から次に缶ビールを空にしていく航に、智代の父親も呆れるしかなかった。



「うぃー飲んだ飲んだ」


 身体の構造上、馬はアルコールを摂取しても、人間のようにはならないため、これからは好きなだけビールが飲める。

 たらふくビールを飲んでご満悦の航。ほろ酔い気分になりながら来た道を引き返す。

 それからほどなくして夕飼いの時間になり。

 お腹をすかせている馬たちの元に食事が運ばれてくると、


「こんなもん食えるかああ」


 出されたものが気に入らない航が酒の勢いに任せて飼い葉桶をひっくり返してしまう。


「弁当屋が食ってたのを持ってこんかーーい!!」


 馬房から顔を出し、スタッフをキッと睨みつける。

 先日までベントゥーヤがいた馬房を見つめながらいななき続けた。


「もっとえん麦を食わせろってことか? …………はあ、わかったよ」


 食べ過ぎて体重が増えすぎても困るが、悪いものを食べてお腹を壊したり、馬房内で暴れられて怪我をされる方がもっと困る。

 仕方なくリクエスト通りに、えん麦と大豆をたくさん入れた飼い葉を作って与えてやった。

 ――だがこれがいけなかった。

 ゴネれば自分の思い通りになると学習した航は、翌日以降も同じことを繰り返して、ご馳走にありついていた。


「ひと汗かいた後のビールがうまい! 最高だ!」


 お目付け役の八肋がいないのをいいことに。

 昼間から浴びるようにビールを飲んで、

 えん麦をしこたま食べる。

 いくら運動しても、消費したぶん以上に食べるため体重増加に歯止めがかからない。

 しがらきスタッフの苦悩は、ドングラス滞在最終日まで続いた――



 帰厩の日。

 しがらきからドングラス号を乗せた馬運車が栗東トレセンに到着。

 約一ヶ月ぶりの愛馬との再開に、幹久は胸を躍らせながら、航が姿を見せるのを首を長くして待つ。

 やがて、馬運車からまるまると肥え太った競走馬がのっそのっそと歩いて降りてきた。


「なんじゃこりゃああああああああああ!!!」


 変わり果てた姿の管理馬を見て。

 幹久は絶叫した。


 ――522kg。


 モニターに馬体重が表示された瞬間、幹久は怒りのあまり肩を震わせる。


「あいつらああああああ」


 トレセン入厩直後467kgだった体重が、何をどうしたら50キロ以上も増えるのか。

 レースは2週間後だというのに。

 こちらの希望通り仕上げるどころか、ぶよぶよに太らせて送ってきた。

 放牧先で調整ミスが起きても、最終的に矢面に立たされるのは騎手や調教師だ。


「ちょっとしがらき行ってくる!」


 普段温厚な幹久が声を荒げる。我が子のように思っている馬に対してこの仕打ち。今回ばかりは堪忍袋の緒が切れた。


「だっ! 駄目ですよ先生!」

「そうすっよ!! 仲がこじれるのはまずいですって」


 目をひんむき、しがらきに絶縁覚悟で怒鳴り込みに行くつもりの幹久を、松岡厩舎スタッフ総出で止めにかかる。

 調教師の仕事は調教を指示すること以外にも。

 レース登録、厩務員や調教助手などスタッフの管理、いい馬を自厩舎に引っ張ってくるための営業、レースに使う予定の馬とそうでない馬を使い分けながら馬房のやりくりと。

 技術職よりも、経営者としての手腕が問われる。

 サウザーに喧嘩を売って干されでもしたら、サウザー生産馬を回してもらえなくなる。

 自分たちの給料が預託料とレースで獲得した賞金の中から支払われているのだから、サウザーとの関係悪化は彼らにしても死活問題だ。


「けどよお……」


 一ヶ月以上も前にドングラスの騎乗依頼をして先約を取っている。

 騎手上がりの幹久だからこそ、こんな出来で乗せられる騎手の気持ちはよくよくわかっている。

 依頼を快く受けてくれた後輩になんて声をかけたらいいのか。

 松岡陣営は早くもお通夜ムードになっていた。



 人間社会と同様に、馬の社会もまた縦社会である。

 栗東に一ヶ月ぶりに帰ってきた航。

 いの一番、先輩馬のところへ顔を出す。


「ドンくんおかえりー。しがらきはどうだった? お姉ちゃん寂しかったよ~」


 目鼻立ちがぱっちりした愛らしい顔の大柄な牝馬がハムハムしてくる。

 甘えるような仕草で、人懐っこい笑みを浮かべる彼女こそが、何を隠そう松岡厩舎の稼ぎ頭。いわばボス。みなからラッキー姐さんと慕われている。


「ドンくん……」


 ラッキーの視線が航のお腹に注がれる。


「それで走れるの?」

「時計は出てましたし、おそらく、だいじょうぶじゃないかなーー?」


 航は笑って煙に巻く。

 ろくに追い切りできずに戻ってきましたなんて言おうものなら、彼女はきっと自分が付きっきりで面倒を見ると言い出す。

 今週宝塚記念に出走予定のラッキーにこれ以上余計な心労をかけるわけにはいかない。


「ドンくんがそう言うならお姉ちゃんもう何も言わないけど。一番になれないようならすぐ諦めなきゃだめだよ。約束だよ? いい?」


 無茶だけはしないと約束すると。

 ラッキーは航の分まで稼いでくると気を吐いた。


「オウ! ルーキー! 出走日が決まったそうじゃねえか!」


 厩舎入り口から威勢のいい声。

 松岡厩舎ではラッキーに次いで二番手のボヤンスが肩で風を切って歩いてくる。


「なんだあ!? そのしまりのねえ体はぁぁ! 手前てめえそんなんでレース出るとか舐めてんのか?!」


 ボヤンスの性格を一言で言うなら、

 目上にはめっぽう弱くて、目下には当たりが強い。

 ボヤンスからガミガミ説教されている航を見かねたラッキーが助け舟を出した。


「ボヤンス。ドンくんのデビュー戦はいつなのか教えなさい」

「あ、はい姐さん」


 と、ボヤンスは180度態度を変える。


「7月5日(日曜)函館5R(2歳新馬=芝1800m)鞍上は深永」

「深永ぁ?」


 …………。

 ……。


(ふかながって――――あのキングヘイローのか!?)


 こいつじゃなければ。

 被害に遭った素質馬の数は数え切れず。

 トップハンデを背負わされることに航はめまいを覚える。


「新馬教育に定評のあるベテランだ。手前にはもったいないくらいだぜ」

「売れっ子騎手が乗ってくれるって。よかったね~ ドンくん」


 毎週のようにやらかしていた深永裕一ふかながゆういちの若手時代のことを知らない二頭に、航の心情を理解できるはずもない。


(やつは小頭数でも詰まるんだぞ)


 航が死ぬ前、最後の記憶では――

 笠松からJRA騎手になったアンカツこと安西克也あんざいかつやが、中央でブイブイ言わせてた。

 あれから10年と少し。

 裕一もベテランと言われるような年齢になり、今や日本でも有数の騎手に成長した。

 だがいかんせん昔の印象が悪すぎた。

 裕一がリーディングジョッキーに輝いていると教えても、


「深永のおぼっちゃんがリーディングをねえ」


 航は裕一の腕をアテにしてない様子。

 調整失敗に加え、鞍上:深永裕一。

 不安要素をこれでもかと背負いこんで函館に移動。

 ついに航はデビュー戦の日を迎えた。

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